THE YELLOW MONKEY『9999』

ザ・イエローモンキー9枚目のオリジナルアルバム『9999』。活動休止、解散そして再集結を経ての19年ぶりの新作。バンドにとっても、ファンにとっても長い時間と「重い想い」を背負ったアルバムである一方で、1曲目“この恋のかけら”が進むにつれてこの新作がこれまでのイエローモンキーのディスコグラフィーの中でも最もみずみずしく、最も軽やかなアルバムであるという確信が芽生えた。

そして、その“この恋のかけら”の中で、吉井和哉が自分の両親を<夢の途中で死んだ父親と/いつまでも少女の母の話を>と、「架空の物語」の登場人物のようにではなく、等身大の存在としてかつ美しい言葉で表現していたことに、何とも言えない感慨を覚えた。20代の吉井和哉には歌えなかったことが50代の吉井和哉には歌えるのだと思った。そしてそれは、吉井和哉版「マイ・ウェイ」とも言える“Changes Far Away”の<愛だけを支えにして/ここまでなんとか歩いてきたんだ>という言葉の素直さにも通じている気がした。

この恋のかけらどこに埋めればいいのだろう>(この恋のかけら)と切なく美しい過去をもてあますような自問で幕を開け、<誰も知らない暗く長い道>(I don't know)と未来に答えを持たないことへの正直な告白で幕を閉じるこのアルバムを聞き返しながら、ふと‟楽園”の<過去は消えないだろう未来もうたがうだろう>というフレーズを思い出した。そのフレーズと同じことを歌っているようでありながら、このアルバムが聞き手に差し出すのは、もう過去に縛られることも未来に怯えることもない新たなバンドの姿だと思った。そしてそれは、<見違えるほどの強さ>(I don't know)でありつつ、どこか優しく、しなやかなロックンロールとして結晶している。

謡曲グラムロック、ハードロック、オルタナティブロックまで貪欲に消化しつつ、「イエローモンキー」という一つのジャンルと呼べるほどのオリジナリティを誇る13曲は、その歌詞も曲もアレンジも演奏も、実はもう一歩も二歩も突き詰めたり、創り込んだりできる余地があったのではないかと錯覚させるほどに、直感的で無防備な印象を残す。吉井和哉の手書きの詩作ノートやバンドメンバーだけでのリハーサルを目撃したような感覚が生じる。と同時に、そこにバンドの明確な意志を感じさせる点で、このアルバムにはバンドとしてのゆるぎない自信が貫かれているように思う。

バンドが直感を優先し無防備でいられるという状態とはどんなものかと考える。そこには自分自身、バンドメンバー、そしてファンへの「信頼」があるのだということ。だから、このアルバムは、バンドとファンが1曲1曲のかっこよさや美しさを何のてらいもなく分かち合える風通しの良さがある。

そして、その風通しの良さが端的に表れているのは、EMMAが作詞作曲を手がけた“Horizon”だと思った。一昨年に映画『オトトキ』公開時に聞いたときには、正直に言うとその率直なメッセージに、イエローモンキーのこれまでのコミュニケーションの作法との違いを感じて受け止めきれない自分がいた。けれど、『9999』の中ではその率直さがむしろアルバムのメインテーマとなって、アルバムの中核を成す存在感を発揮している。

「地平線は人間が迷い込むのを防ぐ」と言ったのは誰だったか――振り返るには眩しすぎる過去と見通すには不確かである未来と向き合いながらも、<We must go on!>(Horizon)と決意するバンドの姿に、不安よりも希望を感じるのは、まさにこの曲で歌われている<愛と絆と>(Horizon)という拠って立つ地平線をバンドが手に入れたからなのだと思う。 

アルバムの中の未来図はとても輝いて

べセルの中の鼓動は戻せやしないけれど

打ち上げ花火の向こうでは皆が待っている

会いに行こう 愛と絆と

 

Horizon Horizon

こらえず We must go on! 

1行目に書いてしまったら、このアルバムについて書くことが何もなくなってしまいそうだったので、最後にこの言葉を書くことにしたい。

ザ・イエローモンキー9枚目のオリジナルアルバム『9999』。私はこのアルバムがイエローモンキーのアルバムの中で一番好きです。名盤です。

 

 

朝焼けデトロイト

出張でアメリカのデトロイトへ。
デトロイトの日の出は遅く、7時過ぎ。


郊外も都市部も、アメリカには「影」がないと思った。全てが白っぽい光に当てられ広がっていた。ふと、Fountain of Wayneの音楽を思い出した。

 

 

それは巨大なショッピングモールの明るさにも通じているように感じた。モールではイースターを前に、ウサギが出番を待っていた。

 

だから、影のあるものがひときわ美しく感じた。「美しさは影なのだ」と、アメリカで感じたことが意外でもあり、当然でもあるような気がした。

 

それと、アメリカには「花」が少ないとも思った。過去に行ったヘルシンキでもマニラでも、花が風景に溶け込んでいたからだろうか。「花を見つけた」と思ったら、造花(plstic flower)だったりして、それが印象的だった。


デトロイトと言えば「モータウン・レコード」「デトロイト・ロック・シティ」。デトロイト空港で見つけたモータウン本社「ヒッツヴィルUSA」のマグネットと、レコード盤などが胸に描かれたクマのマグネット、キーホルダーをお土産に帰国の途へ。

 

往きと帰りのフライト中、『ボヘミアン・ラプソディ』を3回見た。諍いがあってもそれさえどこか愛おしく感じるほど、「バンド」には魔法があると思った。今回の出張で私が最もよく聞いたのはジャクソン5でもKISSでもなく、QUEENだった。

 

Utopia Parkway

Utopia Parkway

 

 

 

東日本大震災とロック

記憶は音楽と共にあり、音楽は記憶を呼び起こす――何かを思い出すことは、その当時の音楽と自分自身を思い出すことでもある。

東日本大震災から8年が経つ。当時のことを思い出すとき、かつてこのブログに記した音楽にまつわる2つの体験が鮮明に蘇る。どちらにも、「取り返しのつかないような大きな悲劇に直面したとき、音楽は、ロックは何を伝えるのか」という問いに直面したアーティストの姿があった。

 

1つは、東日本大震災から1週間後、震災後初めての生放送の音楽番組で吉井和哉が歌った「FLOWR」。 当時、番組をリアルタイムで見ていて、番組冒頭で画面に映った吉井和哉の顔色があまりに悪くて、不謹慎にも、「顔色悪っ(笑)」と思わず笑ってしまったことをよく覚えている。吉井和哉のその表情は、このタイミングで歌を歌うということの意味に押し潰されそうになっているようでもあった。

テレビに映る吉井和哉は<僕は何を思えばいいんだろう 僕は何て言えばいいんだろう>というかつて自分が発した問いを容赦なく突きつけられその答えを見つけられないまま、カメラの前に立っているようだった。だから、テレビの中の吉井和哉はとても「無力」だった。けれど、その無力さこそが吉井和哉の歌の「力」なのだと思った。

「FLOWER」(2011/03/18 ミュージックステーション) - 朝焼けエイトビート

放送では、 曲の冒頭の歌詞<あれから何年経ったんだ?/相も変わらずにこんなんだ/だけど毎日はそれなりにgoodだ>の「それなりにgoodだ」を「できるだけgoodに」に変えて歌った。そして、震災から月日が流れるほどに、震災前に作られたこの曲の「あれから何年経ったんだ」というフレーズが、アーティストの当初の創作意図を超えた意味を帯びていることを感じる。

 
もう1つは、東日本大震災から1ヶ月後、ザ・クロマニヨンズ日比谷野外音楽堂でのライブ。これまでに観たクロマニヨンズのライブの中でも最も印象に残っているライブのひとつ。

中原中也の詩のような春の夕暮れの下、なんとも言えない感傷がお酒の匂いとともにライブ前から会場全体を覆っていた。電力制限によって灯りの少ない都心に響いたロックンロールは、「いつもと変わらない」ものであろうとすることで、図らずも歴史のゆりかごの大きな揺れに言及しているようでもあった。 

クロマニヨンズは「いつもと同じ」だった。いつもと同じようにやっていた。けれど、その「いつもと同じ」が3月11日を境にしてもう同じではないということを、今日この日に「いつもと同じ」ようにやることがどうしたって違う意味を持ってしまうということを、ステージの上にいる彼らが感じていないはずなかったと思う。 何かを言っても言わなくても、言わないことにも意味が生じ、それが何かの宣言となってしまうような状況のなか、いつもと同じようにロックンロールを演奏するということ。そこにロックバンドとしての自覚がないはずはなかった。それを「覚悟」や「決意」と呼ぶこともできるだろう。

ザ・クロマニヨンズ ツアー 2010-2011 ウンボボ月へ行く(2011/04/10 日比谷野外音楽堂) - 朝焼けエイトビート

 この日のライブでヒロトが発した「会いたかったよー。昨日じゃない、明日じゃない、今日、会いたかったんだよー」という言葉は、とても感動的だった。そして、この言葉の意味を、今でもふと考えることがある。

ザ・クロマニヨンズツアー レインボーサンダー2018-2019(2019/02/23 千葉市民会館)

とてもとても、本当に本当に、いいライブだった。

新作『レインボーサンダー』は、そのタイトルが意味するように、CDで聞いた印象の何倍も曲調がカラフルだった。そしてソングライターとしてもプレイヤーとしても、それを誇示するというよりはバンドとして楽しみながらあっさり実現できてしまっているところがただただ凄いと思った。“ミシシッピ”に“ファズトーン”、“モノレール”とギターが印象的な曲が多い新作の中、“サンダーボルト”が深く心に突き刺さった。

サンダーボルト 呼んでみたけど
名前のように 呼んでみるけど
サンダーボルト 稲妻でした
二度と会えない 稲妻でした


突き抜けていく 突き抜けていく
突き抜けたきり もう それきり

ロックンロールに出会ったという奇跡――思えば、もう何曲も何曲も、ヒロトはそのことを歌い続け、問い続けている。自分の人生に起きた奇跡について考え続け、そして辿り着いた答えが、<二度と会えない 稲妻でした><突き抜けたきり もう それきり>と、過ぎ去ったものを見送るような過去形で歌われているところに、何とも言えない、切なさを通り越してこみ上げてくる何かがあった。マーシーのギターソロは、そんな言葉にならない気持ちに寄り添うように優しかった。この曲を歌いながらヒロトは、満面の笑みを浮かべながら泣いていて、感極まって涙を浮かべながら笑っていた。歌い終わって拭った目元に光っていたのは汗だけではなかった。

ロックンロールに出会い、人生を変えられた人間は数え切れないほどいる。この日会場を埋め尽くしたファンも皆そうなのだといえる。けれど、そのことを「奇跡」と感じ、その意味を純粋に問い続けている人間は、ほとんどいないのだということ。多くのロックミュージシャンとヒロトを分かつ分水嶺があるとしたら、「ロックという奇跡」に降伏するかどうかということなのかもしれない。「ロックという奇跡」に半ば降伏するということは、ただそれに圧倒され、見送るしかないのだということ。
サンダーボルトを歌っている時、マイクを握り締めた右手とは対照的に、床に向いたヒロトの左手は蛸の足がうごめくように動き続けていた。何かを掴もうと必死であがき続けているような、その左手は、何かとても象徴的な気がした。“生きる”の<いつか どこか わからないけど/なにかを好きになるかもしれない/その時まで 空っぽでもいいよ>というフレーズがシンクロするような気がした。ヒロトは何も掴んでいなかった。徒手空拳だった。

新作『レインボーサンダー』の曲以外には、“グリセリン・クイーン”“エイトビート”“エルビス(仮)”そして“タリホー”と、完璧なセットリストだった。
ライブ後、<二度と会えない 稲妻でした><突き抜けたきり もう それきり>というフレーズは、まさにクロマニヨンズそのものであるような気がした。でもそれを言葉にすると切なさに押しつぶされそうになるから、ファンは皆「最高!」「最高!」と繰り返すばかりなのかもしれない。
だから、クロマニヨンズは最高すぎて、とても切ない。

ザ・クロマニヨンズセットリスト(2019/2/23)
おやつ
生きる
人間ランド
ミシシッピ
ファズトーン
サンダーボルト
グリセリン・クイーン

エイトビート
時のまにまに
恋のハイパーメタモルフォーゼ
荒海の男
東京フリーザ
三年寝た
ペテン師ロック
エルビス(仮)
雷雨決行
ギリギリガガンガン
GIGS(宇宙で一番スゲェ夜)


―encore―
突撃ロック
タリホー
ナンバーワン野郎!

レインボーサンダー(特典なし)

レインボーサンダー(特典なし)

THE YELOOW MONKEY SUPER『メカラウロコ・29 FINAL』(2018/12/28 日本武道館)

アンコールで吉井和哉が歌った「毛皮のコートのブルース」がこの日のライブを象徴していた。曲に込められた吉井和哉の深い思入れや「イエローモンキー」というバンドの根っこにある世界観を感じつつ、全身黒の喪服のようないでたちで「Happy Birthday」と歌う吉井和哉の姿が、この日のライブそのもののような気がした。祝っていると同時に悼んでいるような、祝祭と喪失を同時に経験しているような、そんなアンビバレンツな感情を経験したライブだった。そのアンビバレンツをバンドが、吉井和哉が明確にねらっていたというよりも、結果的に微妙に引き裂かれ感のあるライブになってしまったような気がした。
今回のライブタイトルに「FINAL」とあることについて、吉井和哉はライブ冒頭のMCでは「心配しなくていいから」とあまり深い意味はないような発言をしていたが、ライブ終盤では「メカラウロコ」という(バンドの苦闘の歴史を愛でるような)コンセプトのライブは今回で終わりにするのだと語っていて、どことなく「歯切れの悪い」ものを感じた。
また、吉井和哉は、再終結後はイエローモンキーではなく、イエローモンキースーパーを名乗っっているのだとも言っていた。新曲の‟天道虫”の迫力とスケール感は、活動休止前より高いステージにバンドが足をかけていることを感じさせるに十分だった。
愛着があるとても良く似合う服だけれどいつの間にかサイズが合わなくなってしまった服をどう着こなせなばいいのかと戸惑っているような、そんな印象を残すライブだった。披露された「服」があまりに完璧であるがゆえに葛藤が深まるライブだった。

2001年の活動休止前の最後のアルバムとなった『8』の‟ジュディ”から始まったライブは、確信犯的なセットリストだった。アルバムの中でも他の曲に比べて日の目を見ない隠れた名曲や一筋縄ではいかないバンドの美意識を共有させるような曲で構成されたセットリストだった。その本編を、バンドの歴史の中でおそらく最も厳しい季節だった『PUNCH DRUNKERED TOUR』の113本全てのライブで演奏した‟離れるな”で締めくくったことには、大きな意味があったのだと思う。重い歌だった。

MCでバンドの過去や未来に言及した吉井和哉は「不穏」「過酷」といった言葉を何度か口にしていた。アンコールの最後、長いメカラウロコの歴史の最後に演奏された新曲‟I don't know”は、向かい風を予感させるような、というよりもすでに吉井和哉が向かい風を感じていることを感じさせる歌だった。再集結して3年。来年の春に再集結後初のオリジナルアルバムをリリースして、いよいよイエローモンキーとして、より高い所へ向かい風の中を進んでいくことを感じさせる歌だった。そして、その歌は一度聞いただけで胸に強く刺さるような曲だった。だから、この日のライブについて正直なところ「いいライブだった」とは言えないけれど、このバンドに対する信頼や愛情は揺るがないと思った。

THE YELLOW MONKEYセットリスト(2018/12/28)
ジュディ
サイキックNo.9
A HENな飴玉
OH! GOLDEN BOYS
SOTNE BUTTERFLY
DEER FEELING
GIRLIE
This is for You
Donna
仮面劇
月の歌
遥かな世界
I CAN BE SHIT, MAMA
薬局へ行こうよ
天道虫(新曲)
甘い経験
SUCK OF LIFE
離れるな


―encore―
毛皮のコートのブルース
街の灯
真珠色の革命時代(Pearl Light Of Revolution)
おそそブギウギ〜アバンギャルドで行こうよ
悲しきASIAN BOY
I don't know(新曲)

another sunny day 2018(b-flower/The Laundries/For Tracy Hyde/DJ:明山真吾)(2018/10/13 KOENJI HIGH)

20年以上の時を経てb-flowerのライブを観ているということ以上に、そのライブに「20年」という時間やその間の空白を感じないことが驚きだった。b-flowerの音楽は、その演奏は「みずみずしい棘」のままだった。かつてとキーの高さの変わらない八野英史のボーカルは、今もなお「告発(プロテスト)の美しさ」を滲ませていた。

セットリストが良かった。ライブ冒頭の「お久しぶりです」と「はじめまして」の挨拶のような奥ゆかしさが、3曲目の“始まる、もしくはそこで終わる”を境に脱ぎ捨てられて、感傷でも感慨でもなく、b-flowerの言葉とメロディそれ自体に感動する瞬間が何度もあった。それは、b-flowerが2018年の「今」のバンドなのだと確認する瞬間でもあった。

八野英史はいくつかの曲の前に、曲を作った当時の問題意識や歌に込めた思いを語っていた。“臨海ニュータウン”について「人間と自然」というような大きなテーマについて考えていたことを語ったそのすぐ後で、「ネオアコのくせに(苦笑)」と自嘲して言い放ったその言葉がとても印象的だった。
あれだけの美しい言葉とメロディを紡ぐ才能を持ちながらも、八野英史は「自分の才能に酔う」ということがあまりないアーティストなのかもしれないと思った。ふと、「詩人は哲学者ほどにも言葉を信用しない」という昔どこかで読んだ一節を思い出した。
時に、この種の表現者が抱える「厳しさ」は表現することのブレーキになるのかもしれない。けれど、ライブ終盤で披露された新しい2曲“自由になりたい”や“SPARKLE”の開放感からは、むしろ今のb-flowerがバンドとしてアクセルを踏んでいることが伝わってきた。前に進もうという意志というか、覚悟のようなものさえ感じた。

そして、本編最後に演奏されたのは“君がいなくなると淋しくなるよ”ーー私がb-flowerの曲の中で一番好きな曲のひとつ。この曲をライブで聞けたこと自体が感動であったけれど、その演奏の素晴らしさがそれ以上に感動的だった。繊細が力強さを携え、力強さが繊細を宿した演奏はそれ自体がひとつの世界観でありひとつの価値のようだった。曲の終わりに向けて文字通り躍動しながらギターをかき鳴らす横顔はとても眩しく、美しかった。

ギターボーカルがハンドマイクで歌うとそれだけでどきどきする…という自分の個人的な性癖(的な何か)を差し引いても素晴らしかった“日曜日のミツバチ”や、全バンドでセッションしたまさに<清らかで激し>かった“天使のチェインソー”も含め、アンコールもとても良かった。
“永遠の59秒”で<これから時を 日々の暮らしを/笑って行ければいいね>と歌った八野英史の表情は、おそらく今回のライブ中で最も高音域を歌うという以上の熱さを帯びていて、胸が熱くなった。
とてもいいライブだった。

b-flowerセットリスト(2018/10/13)

つまらない大人になってしまった
始まる、もしくはそこで終わる
ペニーアーケードの年
North Marine Drive
冷蔵庫に捨てる
臨海ニュータウン
地の果てより発つ
自由になりたい(新曲)
SPARKLE(新曲)
君がいなくなると淋しくなるよ


―encore―
日曜日のミツバチ
永遠の59秒
天使のチェインソー(with The Laundries ,For Tracy Hyde)

劇団フライングステージ第44回公園『お茶と同情』(2018/08/11 下北沢OFF・OFFシアター)

同性パートナーシップ申請(宣誓)、レインボーパレード、一橋大学アウティング事件、国会議員による「LGBTは生産性がない」発言――近年の同性婚を扱った連作と同様に、あるいはそれ以上に「2018年の日本」を強く意識した物語。そして、さりげなく織り込まれた夏目漱石の『こころ』が伏線となって、物語に奥行きと余韻を与えていた。

1.眩しさと後ろ暗さ
母校の高校にやってきた教育実習生・藤原大地が全校生徒に向けた自己紹介の中で、自分はゲイであることを告げたいと言い出したことから始まる物語。「生徒に悪影響を与えるから」「教科書にLGBTは載っていない」などもっともらしい理由をつけて反対する教師達の意見は、正論を主張しているようでありながら防衛的で、何かに怯えているようでもあった。自分に嘘をつかず、自分らしく生きたいと主張するゲイの青年のまなざしはとても明るく眩しい。その明るさと眩しさは、人の心にある闇や影を白く照らし、人がその闇や影に隠している後ろ暗い秘密を暴いてしまうのかもしれない。「眩しくて目を背ける」ということもまた偏見や差別の土壌なのかもしれないと考えさせられた。教育実習生・藤原の生徒へのカミングアウトを頑なに拒む副校長・野崎憲一郎の大声は、自分と対立する他者の意見をかき消していると同時に、自分の内なる声(弱さや怯え)をかき消しているような、そんな気がした。
だから、ゲイであることを隠している40代の高校教師・浅野謙吾の「みんながカミングアウトしなくてもいいんじゃないか」「カミングアウトしない生き方もあるんじゃないか」という問いかけは、カミングアウト自体に対してというよりも、心の奥に容易には折り合いのつけられない想いを抱えて生きざるを得ない生き方を認めて欲しいという主張のようだった。
自分の生きる道を堂々と淀みなく主張する教育実習生・藤原と、自分の考えや生き方について口篭り、戸惑う高校教師・浅野との対比は、「世代」ということを考えた。


2.カミングアウトとアウティング
物語の重要なテーマの一つは「カミングアウト」であり「アウティング」だった。自分がゲイであることを他者に暴露されることを「アウティング」とするならば、酒場で養護教諭・池内知美が、校長室でレズビアンマザーの保護者・中野友里が「うっかり」と「てっきり」によって、高校教師・浅野がゲイであることを告げてしまう場面もまた「アウティング」として解釈可能だった。
物語の中では「守秘義務」「秘密」という言葉が幾度か登場した。明確な悪意によってというだけでなく、無邪気な興味や、思いやりによってさえも、秘密が秘密でなくなる瞬間があるということ。とはいえ、なし崩し的にカミングアウトせざるを得ない状況になった時に、むしろ腹をくくってゲイであることを明らかにする高校教師・浅野や、男子生徒・庄司拓実の姿に、「2018年の日本」が映し出されているようでもあった。


3.こころとこころとこころ
教育実習生・藤原が公開授業で取り上げたのは夏目漱石の『こころ』だった。原作の『こころ』の先生とKと僕、劇団フライングステージによる男性同士の恋愛物語として解釈した『新・こころ』の先生とKと僕、そしてこの物語での高校教師・浅野と亡くなった浅野の恋人・春日と教育実習生・藤原――3つの物語が入れ子になって物語の縦糸として、「2018年の日本」に留まらない普遍的なテーマを浮かび上がらせていた。
その中で、浅野が「分かるようになった」と語った『こころ』における「先生」の自死の理由に「あぁ、なるほど」と心の膝を打った。自分を「先生」と慕う若い世代に出会うことで、自分の中にある「とりかえしのつかない」何かと直面せざるを得なくなるという絶望。と同時に、そんな「先生」に対する若い世代(教育実習生・藤原)からの「死んじゃだめですよ」という言葉の率直さが希望でもあると思った。


4.打ち上げ花火
学校を舞台にしていることもあってか、今回のお芝居には、劇団フライングステージの物語にしばしば登場しかつ親密性を象徴する「食事」の場面はなかった(酒場での飲酒の場面はあったけれども)。その代わり、物語の最後は、主人公達が皆で隅田川で花火を見る場面だった。5年前に上演された『OUR TOWN わが町 新宿2丁目』の最後の場面を思い出した。
夜空に打ち上げられた花火を愛しい人と手を繋いで見上げるということ――そんなささやかな幸せの光景が、静かな祈りのように感じられたのは、思い出す限り生き続ける死者達もまたその夜空の上から花火を見下ろしているからなのだろうと思う。


付記
役者さんがどれもはまり役と思える存在であったのは言わずもがなとしても、個人的には木村佐都美さん演じるBLを愛する腐女子高校生・内藤彩花が強烈な存在感を放っていた。「尊みしかない!」と言い切る盲信・猛進ぶりが、愛おしかった。

http://flyingstage.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/44-tea-and-symp.html

ay8b.hatenablog.com
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