劇団フライングステージ第41回公演『新・こころ』(2016/4/03 SPACE梟門)

夏目漱石の『こころ』を劇団フライングステージならではの独自の解釈で編み直した物語。2008年の初演で強烈な印象を受け、劇団フライングステージのお芝居の中でも特に再演を待ち望んでいた『新・こころ』。あれから8年(!)が経ち、その間の「変わらないもの」と「変わったもの」両方に思いを馳せながら観た舞台には、自分自身も含めた人間の「こころ」の割り切れなさが映し出されていた。けれど同時に、その「割り切れなさ」から目を背けずに、それが「こころ」というものなのだと受け入れたい、とも思った。

不可解で不自由で不器用な「こころ」をもてあましつつ、そんな自分の「こころ」に向き合うことに怯える「先生(中村)」や「K(小宮)」の姿は、それを美化するには愚かだけれども、その愚かさを否定するには純粋すぎる――そんなふうに思えた。その彼らの美しくも愚かで、愚かゆえに純粋な輪郭を際立たせる脚本と演出は見事だった。千葉の海をあてどもなく歩きながら、濃密な距離感で空疎な会話をする「先生」と「K」の横顔は、とても悲しくとてもロマンチックで、だからとても美しかった。

人を好きになるということは、尊く思いやり深い感情を経験する一方で、いかんともしたがたく、あられもない意地汚い自分の欲とも向き合わざるを得ない。そんな自分の欲から逃げ続けながら逃げ切れなかった悲劇が『こころ』という物語であるとすれば、この『新・こころ』で「先生」に無遠慮につきまとう「私(中島)」の存在それ自体が、その悲劇を回避する方略なのだと思った。人を大切に想うその気持ちによって暗い表情をする登場人物の中にあって、「私」のその、登場人物中唯一の屈託のなさがとても印象的だった。
「死なないでください」「生きててほしいから」――あまりに率直すぎて、皮肉や冗談でごまかしたくなるようなこの言葉を、ただただ素直に伝えるということ。そこにあるのは「精神の向上」から身を引き離した「こころの野性」ともいうべき無邪気と無防備と無知で、その眩しさこそが、この物語が描いた「救い」だったのだと思う。

このお芝居を見て心の中にたくさんの想いがこみ上げてきた。けれど、今回はそれをうまく言葉に置き換えられない。少し悔しくもあるけれど、それは「思い出」になることを拒み「みずみずしい痛み」のままでいたいと主張する記憶のせいなのだろうと思う。


付記:2008年に観た『新・こころ』の感想を読み返してみたら、ラストの「私」が「先生」に「生きててほしい」と言う場面に対して、私は今回とは違う感想を抱いていた。私のこの8年間の「こころ」の変化なのかもしれない。


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