『映画:フィッシュマンズ』

メジャーデビューから30年、佐藤伸治がこの世を去ってから22年となるこの夏に公開となった「映画:フィッシュマンズ」。映画の中で、欣ちゃんは、デビュー直後のセールスについて「オーストラリアのレコーディングから帰国して1stアルバム『Chappie,Don't Cry』が5万枚売れると思ってた。だけど、5千枚も売れなかった(笑)」と語っていた。その「5千枚も売れなかった」うちの1枚を、私は1991年の5月に手にした。そんな私にとって、フィッシュマンズがいた風景を当時の映像と関係者のインタビューとともに描いた172分は、いくつもの確認と発見、そして永遠に続くであろう切ない問いを残すものだった。

 

1.フィッシュマンズと「世の中」
映画の序盤では、メジャーデビュー後の状況として、音楽雑誌等での不本意な評価やセールスの不発、テレビドラマのタイアップになったシングル「100ミリちょっと」のでの葛藤など、必ずしもバンドの思い通りの状況ではなかったことが赤裸々に語られていた。けれど、それを語る人達の口調、当時の佐藤伸治の表情やバンドの雰囲気は総じて明るかった。「そうそう、フィッシュマンズって明るいバンドだったなぁ…」とスクリーンの中の、あどけない表情で力いっぱい歌う佐藤伸治を見ながら思った。同時にそれは、1990年代前半(阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件以前)の世の中の明るさ、楽観性みたいなものとも無縁ではないような気がした。

佐藤伸治は「世の中」と距離を取る人だった。けれどその一方で、「炭鉱のカナリア」のように「世の中」のあり様を感じていたようにも思った。1stアルバムをプロデュースしたこだま和文氏が生前の佐藤伸治のこんな言葉を挙げていた。「お腹いっぱいっていやだよね」——1966年から1999年の東京という、日本の最も豊かな時代と場所を生きたであろう佐藤伸治の独特のストイックさを思うとき、佐藤伸治はむしろ「世の中」を感じていたのかもしれないと思った。感じてしまうからこそ、距離を取ろうとする姿勢が、フィッシュマンズの「閉じた」世界観に通じていたのかもしれない。

 

2.佐藤伸治のアンビバレンツ
映画の中では佐藤伸治の直筆のノートが映し出されていた。走り書きであっても「絵」になる、味のある可愛らしい筆跡だった。佐藤伸治はノートに「売れたい理由」と「売れたくない理由」をそれぞれほぼ同じ数だけ書いていた。「売れたくない理由」というのがとても佐藤伸治らしいと思った。佐藤伸治は、自分の音楽を「わかってほしい」と強く願いつつ、にもかかわらずというよりもだからこそ、「簡単にわかるはずがない」「簡単にわかられてたまるか」という思いも同じぐらい強く抱いていたように思う。自分の音楽に対する確信のその一方で、その確信が裏切られることに対してとてもナイーブだったのだと思う。「売れることは誤解されること」と言ったのは誰だったか。佐藤伸治ならば「誤解されるぐらいなら売れたくない」と言っただろう。だから、フィッシュマンズの音楽は、寄り添っているようで離れているような、そっけないようでいて人懐っこいような、一筋縄ではいかない感触を残す。

そして、それはフィッシュマンズのファンだけでなく、バンドメンバーやスタッフに対する佐藤伸治の接し方にも通じていたのかもしれないと思った。1995年に脱退したギタリストの小嶋さんの「変わり者だね、あいつはね(笑)」という言葉の中に、他者に頼りつつも質すような、他者に甘えつつもジャッジするような佐藤伸治のアンビバレンツな他者との関係を感じたりもした。そして、そのようなアンビバレンツは、他者だけでなく彼自身にも向けられていたのかもしれない、と思った。。

 

3.気づいてみたら さみしい人だった
1996年にリリースされた『空中キャンプ』から『LONG SEASON』、そして『宇宙日本世田谷』へと至る過程は、音楽的な飛躍と評価の高まりとは裏腹に、浜辺の砂山が少しずつ波に削られていくようなバンドのシビアな内情を映し出していた。当時ほとんど語らられることのなかったHAKASE氏と譲さんの脱退の経緯(理由)については、本人達が語る言葉以上にその行間に、バンド内の、佐藤伸治とのディスコミュニケーションがあったことが感じられた。当時は一ファンとしてそんなことは知る由もなかったけれど、『空中キャンプ』以降のフィッシュマンズのライブに自分が足を運ばなくなったことと、それは全く無縁ではないような気もした。酩酊感と浮遊感の一方で、実はとても醒めていて深く深く潜っていくような、一種の「引き裂かれ」感が『空中キャンプ』以降のフィッシュマンズの音楽にはより強く感じられた。私は、それに向き合う際の緊張感を無意識のうちに避けるようになってしまったのかもしれない。

『空中キャンプ』を手にしたとき、そのジャケットに覚えた違和感を思い出す。『Neo Yankees' Holiday』の抜けるような青空、『ORANGE』の夕暮れのオレンジ色を経た、色の抜けたような灰色の空がどこか重苦しく感じられた。そして、何らかの「境地」を目指して研ぎ澄まされたサウンドとグルーブに載せられた佐藤伸治の言葉は無力感と諦観のようなものを滲ませていて、前作『ORANGE』収録の「感謝(驚)」の<気づいてみたら さみしい人だった>というのは佐藤伸治自身のことだったのか、と思った記憶がある。佐藤伸治は「さみしい人だった」。

映画の後半、特に『LONG SEASON』以降、佐藤伸治の笑顔が少なくなっていて、とても切ない気持ちになった。シングル「ゆらめきIN THE AIR」のテーマについて「孤独について考えた」と話す佐藤伸治の表情は、何かを隠したいような曖昧な笑いを浮かべながらも今にも泣きだしそうに見えた。そして、佐藤伸治にとって最後のライブとなった1998年12月28日の「男達の別れ」で、「IN THE FLIHT」を歌う佐藤伸治の瞳は暗闇の中でビー玉みたいにきれいに光っていた。けれど、その輝きは涙をが浮かべているようで、「佐藤さんは何がそんなにさみしかったんだろう、何がそんなに悲しかったんだろう」と考えた。考えたけれど、答えはなかった――。

映画の終盤でこだま和文氏が佐藤伸治について語った「(イメージを)自分の心の中だけで充実させている」という言葉がとても印象的だった。佐藤伸治は、自分のさみしさや悲しさを自分の中だけでどんどん研ぎ澄まし、膨らませ、充実させていったのかもしれない。

 

4.ファンからの手紙
2ndアルバム『KING MASTER GEORGE』リリース直後、佐藤伸治が川﨑大助さんとともにパーソナリティを務めていた深夜のFM番組「フィッシュマンズのアザラシアワー・ニジマスナイト」に手紙を書いたら、佐藤伸治本人に読んでもらえた。それはこんな手紙だった。

佐藤さん、川﨑さんこんばんは。毎週楽しく眠い目をこすりながら聞いています。
早速ですが、『KING MASTER GEORGE』買いました。とても気に入りました。骨っぽいけれど押しつけがましくなく、ナイーブだけれどめそめそしていない、クールで前向きになれるアルバムだと思いました。
1stの『Chappie, Don't Cry』のときは、「なんてガードの堅いバンドなんだろう」と思っていて、絵にたとえて言うと、水彩画のわざと残した余白を何重にも白く塗っているようで、内容のイノセンスさとそのガードの堅いところがとても切実に感じました。もちろん『Chappie, Don't Cry』も大好きなアルバムです。
今度の『KING MASTER GEORGE』は、筆跡が身近に感じられるような油絵みたいだと思いました。私は「いい言葉ちょうだい」と「頼りない天使」が特に好きです。
勝手にレビューようなことを言ってすみません。でも本当にそう思っています。

この手紙を、佐藤伸治は「これは結構、いい線ついてますね、なんかね」などと言って、とても喜んでくれた。「佐藤さんはどうしてそんなに喜んでくれたんだろう」と思ったりもしたけれど、この映画を見て佐藤伸治が喜んでくれたことが、今まで以上に嬉しいことだと思えるようになった。 


佐藤伸治が亡くなってから、フィッシュマンズの音楽を聞くことはとても少なくなっていた。心のどこかで避けていたのかもしれない。けれど、この映画を見てまたフィッシュマンズの音楽をかつてのように聴けるようになった。フィッシュマンズの音楽を口ずさめるようになった。この映画を観て良かったと思う。

 

付記:映画のパンフレットにはスピッツ草野マサムネが寄稿している。亡き人を語るにはいささか淡々としたその文章は、それゆえにその行間から、佐藤伸治に対する深い尊敬と惜別を感じさせるものになっている

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映画:フィッシュマンズ公式サイト (fishmans-movie.com)