劇団フライングステージ第46回公演『Rihts, Light ライツ ライト』(2020/11/06 下北沢OFF・OFFシアター)

就職面接において、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染していることを告げなかったことを理由に内定を取り消されたことは違法だと訴えた「HIV内定取消訴訟」をモチーフにした物語。その原告男性へのインタビューと裁判記録を基にした「フィクション」である今作は、「人権(Rights)」のために闘う人たちが「光(Light)」のある方へと向かっていく物語だった。

 

1.2×3×3×3
HIV内定取消訴訟」を軸として、社会福祉士の主人公翔太が新たに働くこととなったコロナ禍の高齢者福祉施設を舞台に、2つのウイルス、3つの職場、3つの訴訟、そしてそれらを生きてきた3つの世代がモザイクのように交錯しながら展開する物語は、非常に多面的な構造であるにもかかわらず、劇団フライングステージのお芝居の中ではむしろとても簡潔で率直な印象だった。その要因の一つは、主人公の翔太が時に悩みつつも、基本的には自分が何を求めているのか理解し肯定している青年だからなのだろう。彼のまなざしは繊細ではあるけれど健やかで、まっすぐに前を見て立っていた。

 

2.カミングアウトされる側の姿
印象的だったのは、翔太が自分がHIV陽性者であることやゲイであることを職場の上司・同僚や家族に告げる場面の、その告げられた側の姿――うろたえたり、冷静であったり、好奇心をのぞかせたりと幅はありながらも、彼らは速やかに翔太のカミングアウトを受け入れ励ましていた。と同時にその「彼ら」がいずれも女性であり、翔太が母と妹には自分がゲイであることを明かす一方で父親には明かしていないことが、幾分示唆的な気がした。
翔太のカミングアウトを受け止める側の人々の表情の多様さは、問われるべきは「カミングアウトする側」ではなく「される側」にあるのだということを示しているようだった。劇中に登場する3つの訴訟の意味もまた、そこにあるのだと告げているようだった。セクシャルマイノリティに関わる社会の課題は、セクシャルマイノリティ側の問題ではなく、彼らを取り巻く側の問題なのだ、と。

 

3.当事者としての訴訟
物語では、「HIV内定取消訴訟」だけでなく「府中青年の家事件」と「一橋大学アウティング事件」の訴訟も物語に登場させつつ、それを単なる「史実」として扱うのではなく、登場人物をそれらの当事者として描いていた。日本のセクシャルマイノリティ史において重要な意味を持つであろうこれらの訴訟が、当事者の時を経ても薄まることのない感情によって現在につながるリアリティあるものとなっていた。

「府中青年の家事件」の裁判の傍聴時に自分以外のゲイを日中に初めて見たという思い出を語るゲイの高齢者佐伯の言葉は、ゲイであることを隠して生きざるを得なかった状況を端的に表していた。「一橋大学アウティング事件」で自死した学生の同級生として、その訴訟の「棄却」「和解」という結果を述べた後の高齢者施設職員である美咲の沈黙は、雄弁に無念と無常を伝えていた。そして、これら当事者である登場人物の記憶と感情は、彼らと同じ時代を生きてきた(生きている)作・演出の関根信一自身のものでもあるのだろう。

 

4.裁判長として観客
物語のハイライトは、「HIV内定取消訴訟」の本人尋問の場面。原告である主人公の翔太が法廷で自身の代理人弁護士と被告側弁護士双方からの質問に答える場面。実際の法廷における記録を反映したこの場面は、被告側代理人の尋問の言葉を通して、主人公だけでなく観客もまた偏見や差別というものに否応なしに直面させられるようだった。舞台上では実際の裁判の配置とは異なり、原告本人は裁判長を背にして、観客側に向かって立っていた。観客は「傍聴人」のようでありながら「裁判長」として判断を迫られているようでもあった。
そんな中で、被告人弁護士が翔太に向けて畳みかけるように放った言葉――「感染者からウイルスをうつされたくないって思うのは差別なんですか?偏見なんですか?」「そんなに怖がりすぎてはいけないってことですか?」。
偏見や差別が、「悪意による攻撃」ではなく「恐怖による防衛」として語られるとき、それをただすことができるのは正しい知識と鍛えられた理性であるとして、この一連のコロナ禍において知識と理性で判断し行動することが言うほど容易くはないことを思い起こさずにはいられなかった。
全身防御服でHIVを診察することの問題と、それがマスクやフェイスガードによってCOVID-19に「万全を期す」ことが求められる現在の状況とを適切に区分するための知識と理性の必要をこの場面を通して考えた。

 

5.「コロナ禍の演劇」というメタ視点
今回の公演は、新型コロナウイルス感染拡大の防止策を講じた上での公演となった。コロナ禍にある高齢者福祉施設での場面とコロナ禍以前の過去の回想場面との転換の度に主人公がマスクをつけたり外したりする姿や、物語の中盤で台詞でもあり観客への呼びかけでもあるような言い回しで「換気しますね」と告げて実際に劇場の窓を開けて外気を招き入れたこがとても印象的だった。特に後者は、「コロナ禍の演劇についての演劇」というメタ視点を舞台上に生じさせるとても秀逸な演出だった。

 

6.老人と子ども
高齢者施設に入所しているゲイの老人佐伯が翔太に、「ダムタイプ(dumb type)」の『S/N』について「古橋悌二」「リップシンク」「シャーリー・バッシー」「people」と、古橋悌二のパフォーマンスを今まさに見ているかのように、固有名詞一つ一つを愛おしそうに語る姿は、「何にも知らない」翔太がスマートフォンを取り出してそれらの情報を検索しようとする屈託のない姿と相まって、世代の隔たりと繋がりの両方を端的に示していた。
そして、最後の場面で、翔太は高齢者福祉施設を退職し、児童相談所で働くことになった。昨年上演された『アイタクテとナリタクテ』で描かれた子ども達の世界との邂逅を予感した。
物語の最後に浮かび上がった「老人」と「子ども」、「過去」と「未来」。そしてその両者に耳を傾けようとする青年。彼らが劇団フライングステージの今後の舞台でどのように描かれるのか、楽しみにしたいと思う。

f:id:ay8b:20201108005136j:plain

http://flyingstage.cocolog-nifty.com/blog/2020/11/post-bc3890.html

THE YELLOW MONKEY 30th Anniversary LIVE-DOME SPECIAL-(2020/11/03 東京ドーム)

吉井和哉の笑顔が少ないライブだった。印象に残ったのは、涙こそ流れてはいないもののほぼ泣き顔で“JAM”を歌う姿や、ライブの最後の“プライマル”を歌い終わって歯を食いしばりながらマイクをマイクスタンドに戻す姿だった。でも、だからこそ、この日のライブにはこのライブをやる意味と価値が、バンドにもファンにもあったのだと思う。

本来ならば、2020年4月にザ・イエローモンキー結成30周年のドームツアーの有終の美を飾る東京ドーム公演が行われるはずだった。しかし、新型コロナウイルス感染症の影響によりライブは延期の後チケット払い戻しとなり、代わりに新規4公演(東京ドーム、横浜アリーナ代々木第一体育館日本武道館)が発表された。このライブはその最初のライブであり、かつ新型コロナウイルス感染症による一連の自粛後、大規模会場での最初の有観客公演となった。バンドの歴史が世の中の大きな流れと交錯する「奇縁」に、「イエローモンキーらしさ」を感じた。吉井和哉も少し笑いながらMCでそんな感じのことを言っていた。

約5万人の収容人数に対して客席を1万9000人に限定するともに、入場にあたっては「指定時間ごとの分散入場」「接触確認アプリ『COCOA』の画面表示」「スプレーによる手指消毒」「サーモグラフィによる検温」「足ふきマットによる足裏消毒」「自席でのドームアラート登録」とできる限りの感染防止策が取られていた。観客側はそれらに半ば適応しているようで入場はいたってスムーズだった。だからなのか、1曲目の“真珠色の革命時代”を慎重に丁寧に歌い始めた吉井和哉の表情を見た時、この状況下でのライブは、観客よりもむしろアーティストにとって試練なのかもしれないと思った。それは観客数や歓声が制限されているという物理的な条件によるものという以上に、ロックバンドとしての、歌い手としての存在意義という問いに向き合わざるを得ないからなのかもしれない、と。だから全客席に配布された一斉制御のLEDライト「FreFlow(フリフラ)」や、声を出せない中で声を届ける企画「Sing Loud」(予め録音されたファンの音声を演出に使う、胸の高さにグッズタオルを掲げる)が新しいライブの可能性を感じさせつつも、それがこれからのライブにどう影響していくのかは未知数な気がした。

とはいえ、センターステージで、会場を埋め尽くす真っ赤なFreFlowの灯の海の中で歌われた”JAM”は、どこか「荘厳さ」さえ感じさせ、深く心に届いた。東京ドームでこの曲を聞くのは5回目だけれど、過去に聞いたどの”JAM”とも違う意味が、渾身の歌唱と演奏から立ち上がってくるようだった。

昨年12月の名古屋ドーム、今年2月の京セラドームとセットリストや構成は重なるものの、チンドン屋さんやブラスバンドと華やかに共演した“DANDAN”は歌われず、結成30周年の祝祭ムードよりも、未来が見えず答えが出せない状況に挑むような印象を残すライブだった。そのせいか“Four Seasons”“パンチドランカー”“パール”といった挑み、闘おうとしている曲がいつも以上に尖った迫力を帯びて聞こえた。
そして、一番印象残ったのは、アンコールの“悲しきASIAN BOY”が終わった後間髪入れずに始まった、“プライマル。”。2001年の活動休止後にリリースされた解散前最後のシングル曲であり、2016年の再集結後のライブで最初に演奏された曲――別れと新たな旅立ちを歌ったこの曲は、意外ではあったけれど再集結後の「シーズン2」を締めるにふさわしいと感じた。そして同時に、“悲しきASIANBOY”でライブの大団円を迎えるという予定調和を打ち破るという意味で、この選曲にはイエローモンキーの「新しい季節」「次の一歩」を予感させるものだった。

MCの中で吉井和哉が悔いていた2001年の東京ドーム公演時よりも、歌唱力、演奏力、メンバー間の結束、ファンとの信頼関係など全てがパワーアップして、まさに「脂ののった」バンドの状態であるにもかかわらず、というよりもだからこそ、結成30周年の東京ドーム公演をコロナ禍で行うことの複雑なムードとのせめぎ合いが、このライブの感動を生々しいものにしていた。そして、向かい風の時の方が、風を受ける横顔が無防備に額をさらすように、そのバンドの本質が剥き出しになるのだとしたら、イエローモンキーならばきっとまたそれを乗り越えていくのだろうという気もした。

同じ時代に生きて、同じ空間に集うことの意味を考えたライブだった。と同時に、イエローモンキーと同じ時代に生きて同じ風の中を生きていることに感謝したいと思った。

THE YELLOW MONKEY セットリスト(2020/11/03)
真珠色の革命時代~Peal Light of Revolution~
追憶のマーメイド
SPARK
Ballon Ballon
Tactics
球根
花吹雪
FOUR SEASONS
Foxy Blue Love
SLEEPLESS IMAGINATION
熱帯夜
BURN
JAM
メロメ
天道虫
パンチドランカー
LOVE COMMUNICATION
バラ色の日々
SUCK OF LIFE
パール
未来はみないで

―encore-
楽園
ALRIGHT
悲しきASIANBOY
プライマル。

 追記1:ドーム公演での“球根”は、どれも素晴らしかった。なぜ、この曲だけが唯一大型スクリーンで吉井和哉の顔を映さないのか、なぜ吉井和哉はこの曲の最後に一礼するのか、その意味がわかるような気がした。 

追記2:MCで吉井和哉は、今回の東京ドーム公演には、2001年の活動休止前の東京ドーム公演の「借り」を返したいという思いがあったということを話していた。2017年の東京ドーム2days公演の素晴らしさを「スキップ」しているところが、吉井和哉らしいと思った。バンドヒストリーに関して、吉井和哉は時に「修正」するように見えることがあるけれど、それもまた「真説」なのだろう。

 

『行き止まりの世界に生まれて』

アメリカの、かつて栄えた工業の衰退により「the Rust Belt(ラストベルト:錆びついた工業地帯)」と呼ばれようになった地域のひとつイリノイ州ロックフォードを舞台に、スケートボードに生きる少年達を追ったドキュメンタリー映画。白人のザック、アフリカ系アメリカ人のキアー、アジア系のビンとその家族を軸に、彼らの12年間を追った映像は、極私的な物語でありつつ、家庭内暴力、貧困、人種差別という社会問題を、子どもから大人への橋を渡る少年達の言葉によって浮かび上がらせていた。

 

治癒としてのドキュメンタリー映画
主人公の一人でもあり、監督でもあるビン・リューの、当事者(被写体)と観察者(撮影者)という両方の役割を担い、かつその間を揺れ動きながら物語を紡ぐバランス感覚がこの映画の要なのだと感じた。
キアーが父親の体罰を振り返るとき、ザックの恋人ニナがザックからの暴力を告白するとき、そして、ザックが自分の暴力の理由を語る時――それぞれが自分の痛みと向き合う場面において、カメラ越しに問いを発するビンの声は優しいけれど冷静で、相手の言葉をジャッジせずにありのまま受け入れていた。映画の終盤でキアーがこの映画について「無料セラピーってとこかな」と答えているように、極めてセラピューティックな姿勢を撮影当時20代の監督が成し得ていたことは、静かな驚きでもある。同時に、その主たる方法としての「対話」が成立していたことの背景には、彼らがスケートボードを通して育んできた友情と信頼が感じられた。
友人や家族の姿を、彼らの痛みとともにその弱さや危うさも含めて「ありのまま」に映し出しつつも、見終わった後に静かで温かいカタルシスがあるのは、この映画の根底に流れる「治癒性」のゆえかもしれないと感じた。


「父親からの暴力」に対峙する冒険
この映画の少年達は、マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』やスティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー』のように「冒険」に旅立つことは、ない。彼らは居心地の悪い家と仲間のいるスケート・パークを往復し、立ち入り禁止のビルに入り込むものの「危ないから」と引き返す。地域の閉塞感とともに「冒険」が失われた少年達の日常は、邦題の「行き止まりの世界」の意味するところなのだろう。
映画のところどころで、ロックフォードの道路沿いに掲げられた教育的警句の看板(「困った時に助けてくれるのが父親」「完璧な親である必要はない」「午後3時、子ども達はどこに?」)が印象的に挿入されていた。現代アメリカの家庭教育の困難さを示すこれらの看板に呼応するように、彼らのスケートボードへの情熱や愛着は、居心地の悪い家や暴力をふるう父親からの逃避でもあった。そして、映画の中盤以降、それぞれがそれぞれの仕方で「父親からの暴力」という、彼らの人生で最も大きな難題に向き合う姿があった。映画の中では、ザック、キアー、ビンが受けた父親からの暴力は、「しつけ」「体罰」「児童虐待」など微妙に異なるニュアンスで捉えられており、自分が受けた暴力を子どもが理解することの難しさと複雑さを表していた。

父親となった自身が恋人に暴力を振るってしまう理由を語るザック、亡き父親の墓前で泣き崩れるキアー、継父の虐待をどこまで知っていたのかと母親を問い詰めるビンーーこの映画の中には、「父親からの暴力」に向き合うという過酷な「冒険」があった。
特にビンが母親にインタビューする場面は、撮影の仕方含めて他の場面とは異なる印象を残した。他の場面がセラピ―的であるならば、この場面は尋問的だった。他の場面とは異なり、ハンディカメラではなく、固定したカメラでしっかりと照明を当てた撮影セットは、父親の虐待とそれを許した母親を追及するビンの「覚悟」を表しているようだった。


スケートボードという知性
映画全編を通して、ザック、キアー、ビンと彼らの仲間達がスケートボードをする姿は、彼らが抱えるさまざまな問題とは裏腹に、あるいは彼らに絡みつくさまざまな問題から解き放つように、「自由」を体現していた。
と同時に、スケートボードに興じる彼らは、何度もスケートボードから転げ落ち、地面に体を打ち付けていた。そして、そんな失敗も含めて楽しんでいる姿がとても印象的だった。
映画の現在は「Midinig the Gap(段差に気をつける)」――映画の中のスケートボーダー達は、段差を避けるのではくむしろ進んで道や建物の段差に挑み、鈍い金属音を鳴らしていた。段差を避けるのではなく、それに挑む彼らの姿は生き生きとしていた。「スケートボードはコントロールだ」というザックの言葉は、大胆で奔放なようでありながら、スケートボードには非常に高度な身体の制御と修練が必要なことを示していた。何度も地面に叩きつけられ、その姿を仲間の前にさらし続ける経験は、単なるスポーツでも単なるファッションでもない、独自の身体化された哲学を彼らに養っているような、そんな気がした。
その意味で、この映画を貫いているのは、スケートボーダーとしてのビン・リュー監督の「知性のある身体性」あるいは「身体性のある知性」なのかもしれないと思った。

 

朝焼けのスケートボーダー
そしてとにかく、映画冒頭の、淡いオレンジ色に染まった朝日を浴びてスケートボードでロックフォードの町を疾走する場面は、本当に美しい。クリス・スぺディングの「Video Life」のチープで切ないギターと気だるく儚げな歌声とも相まって、「映画でなければ経験できない美しさ」がそこにはあった。

f:id:ay8b:20200924143811j:plain

http://bitters.co.jp/ikidomari/

スピッツ「猫ちぐら」

デジタル配信でリリースされたスピッツの新曲「猫ちぐら」。新型コロナウイルス感染症により、社会や生活のあり様が潮が満ちるように少しずつ、しかし確実に変化を強いられるなかで、メンバー同士が顔を合わせることなく「リモート」で製作されたこの新曲は、タイトルも歌詞も曲もアレンジも、そしてジャケットもすべてが「あぁ、スピッツだ」という安心感を与えてくれる。ライナスが肌身離さず抱きしめている「安心毛布(セーフティ・ブランケット)」に包まれるようなその安心感は、いつの間にか自分の心を侵食していた緊張や不安の存在に気付かせてもくれる。

猫ちぐら」というささやかで愛らしいタイトルとは裏腹に、<作りたかった君と小さな/猫ちぐらみたいな部屋を>というフレーズは、それが「叶わなかった望み」であることを告げる。そして、さらに草野マサムネはこんなふうに歌う――。

驚いたけどさよならじゃない
望み叶うパラレルな世界へ
明日はちょこっと違う景色描き加えていこう

「パラレル」すなわち、どこまで延長したとしても永遠にまじりあうことのない二つの線――2016年にリリースされた「みなと」で、主人公が立つ港の防波堤とその先の水平線をふと思い浮かべた。<驚いたけどさよならじゃない>と歌われる前提にある、「喪失」のことを考えた。
失ったにもかかわらず、だからこそむしろ決して失われることない望み、叶わなかったからこそずっと願い続けられる望み.。その象徴としての「猫ちぐら」。永遠に交じり合うことはないがゆえに純粋さだけを増していく望みを抱えながら、力強くはなくてもどうにか生きて行こうよと、そんななけなしの勇気と優しさが、この曲にはある。

何が失われたのか不確かで、別れの挨拶を告げる機会もなく「さよなら」をしているような、そんな「曖昧な喪失」に満ちた世界の隅っこで、スピッツは離れていても新しい歌が生まれること、離れていても歌を届けられることに、挑んだのだと思う。だから、「猫ちぐら」というタイトルも含めてこの曲は、スピッツ一流の応援歌であると同時に、変化する世界の波にかき消されそうな小さな声を届けるプロテストソングでもあるのだと思う。

曲の後半で歌われる<弱いのか強いのかどうだろう?/寝る前にまとめて泣いている/心弾ませる良いメロディー/追い続けるために>というフレーズを聞いて、2011年の東日本大震災直後に、草野マサムネが急性ストレス障害になったことを 思い出した。この曲は、泣けること、そして追い続けたい夢があることが強さなのだと教えてくれているように感じた。

猫ちぐら

猫ちぐら

  • provided courtesy of iTunes

 

THE YELLOW MONKEY 「未来はみないで」

2020年4月4日と4月5日に予定されていた、ザ・イエローモンキの東京ドーム公演は、新型コロナウィルス感染症の影響により「開催延期」となった――結成30周年を祝うバンド史上初のドームツアーが発表された昨年8月はもちろん、この新曲が発表された今年3月半ばでさえ、この「未来」は予想できなかった。にもかからず、あるいはそれゆえに、「未来はみないで」というこの曲はバンド自身の意図を超えた意味を帯びて聞こえる。

2016年1月のイエローモンキーの再集結にあたって最初に発表される予定だったこの曲が、2020年3月に再集結後の一連の活動を締め括る「ファンへの私信」のようにリリースされ、そして気が付けば「予測不能」と「不確実」だけが約束されている2020年4月初旬の日本の状況とシンクロしていることを感じ、ロックンロールが、風に舞う花びらのように、作者の手のひらから飛んでいく瞬間を目撃しているような気分になった。そして、ふと、2011年の3月18日、東日本大震災後初めての生放送の音楽番組で、吉井和哉がリリース間近のアルバムから「FLOWER」を歌った時のことを思い出した。

時に、歌には、それが作られた時の作者の想いや状況を超えて、図らずも社会や歴史と交錯する瞬間が訪れるのかもしれない。あるいは、社会や歴史が急に表情を変えるその瞬間に、「交錯するに足る歌」というものが浮かび上がるのかもしれない。そういう歌はというのはむしろ、社会や歴史などというものを殊更意識することなく、エゴイスティックなまでに「自分の人生」に向き合った極私的な愛の歌なのかもしれない。

この曲を聴くたびにいつも、あるいは聴き終わった後にずっと、曲のタイトルでもある未来はみないでというフレーズと、曲の最後に歌われる<また会えるって 約束してというフレーズが心の奥に留まり、頭の中を巡る。「みないで」「約束して」という吉井和哉の声が、願望の表出のようにも状態の叙述のようにも聞こえて、向かい合って笑顔で手を振りながら少しずつ遠ざかっていくような、温かくも寂しい気持ちになる。そして、そういう複雑な情感が、「イエローモンキーらしさ」という唯一無二のオリジナリティとして、余計な説明や理屈抜きにすとんと心に響いてくることが、実はとてもすごいことなのだと感じる。

曲の後半、力強い声で吉井和哉はこんなふうに歌う。

好きな歌を一緒に歌わないか? そのために歌があるなら

“JAM”の<素敵な物が欲しいけど あんまり売ってないから/好きな歌を歌う>というフレーズを思い出す。「好きな歌」が自分の空虚を埋めるものではなく、誰かと分かち合うためのものとして歌われていることに、何とも言えない感慨を覚える。ライブの動員やアルバムの売り上げという数で示せる側面以上に、こうした言葉が宿す意味の変容に「バンド結成30年」という時間の重みがあり、そしてそれをともに味わえるファンの幸福があるのだと思う。

 みえない未来のその先で、未来が笑っていることを、この曲を再びライブで聞けることを願っている。  

未来はみないで

未来はみないで

  • provided courtesy of iTunes

 

『ジュディ 虹の彼方に』

映画『オズの魔法使い』で有名なミュージカル女優、ジュディ・ガーランドの伝記的映画『ジュディ 虹の彼方に』を観た。「ショウビジネスの光と影」「大スターの栄光と苦悩」というクリシェに落とし込まれがちな物語ではあるけれど、主人公をスターダムに押し上げた映画スタジオの裏側と晩年のジュディの姿のリアルな描写によって、その物語はクリシェでは割り切れない、複雑で多面的な人物像を描いていた。

 

 静かな虐待
映画は、ジュディの亡くなる半年前のロンドン公演の日々を軸に展開しつつ、トラウマのフラッシュバックのように差し挟まれる少女時代の回想が、薬とアルコールと不眠症でついにはステージをまともに務められなくなってしまう最晩年の彼女の姿を説明していた。
少女時代の場面はすべて、映画の撮影所のシーンで、彼女が撮影所という「檻の中の鳥」だったことを象徴していた。そんな生活への怒りからプールに飛び込んだジュディは解放された表情を見せるものの、それがセットの小さなプールであることが、むしろ彼女の「逃れられなさ」を強調していた。

薬物によって食事と睡眠をコントロールされながら長時間労働を強いられる姿は、「虐待」と言えるものだった。けれど、それは明確な暴力や暴言によってではなく、静かに遂行されていた。ジュディのささやかな反抗に対して、映画スタジオのプロデューサーであるメイヤーは紳士的な態度と諭すような言い回しによって、撮影所以外では彼女は無価値な存在で居場所がないのだという「呪いの言葉」をかけていた。その巧妙な脅しによって、ジュディが謝罪と感謝の気持ちを述べる姿は、虐待と洗脳は一つのことなのだと伝えていた。

映画の終盤、撮影の都合で2か月早まった「16歳の誕生日」に用意された偽物のバースデーケーキとそっくり本物のケーキを前に、嬉しさで胸がいっぱいなのか、食べ方が分からないのか、身体が受け付けないのか、そのいずれでもある様子で、ゆっくりとほんの一かけらのケーキを口に運ぶジュディの姿は、失われた少女時代のほんのわずかの回復とともに、それを完全に取り戻すことの困難を象徴していた。

 

 賢明な母親

映画は、少女時代に背負った負の財産(薬物とアルコールへの依存、不眠症)によって早逝した悲劇の女優という物語をなぞりつつも、彼女のもう一つの顔もまた描いていた。それは、子どもに対する「母親としてのジュディ・ガーランド」の姿だった。
楽屋すらない巡業の開演前に子どもの衣装を整える場面、子ども達を残してロンドンに発つ前のクローゼットの中で抱き合う場面、そして電話ボックスで父(離婚した夫)と暮らす選択を娘から告げられる場面――浮き沈みの激しいステージ上の姿とは裏腹に、母親としてのジュディは一貫して優しく愛情深い態度を貫いていた。

特に印象的だったのは、彼女が子ども達の欲求を決して否定せずに満たそうとしていた姿だった。娘ローナがルームサービスで「ハンバーガーとポテト」を注文した場面と、「眠れない」と起き出してきた息子ジョーイにホットミルクを作ってあげる場面――少女時代の回想では、ダイエットのためにハンバーガーとポテトを食べさせてもらえず、「眠れない」という訴えに大人の都合で睡眠薬を与えられていたこととは対照的に、母親としてのジュディは、彼女が少女時代に受けた仕打ちを子どもに繰り返すことのない、適切な関わりのできる母親だったことが描かれていた。

娘ローナが父親(離婚した夫)の家で暮らしたいと告げる場面は、この映画の中でも最も絶望に満ちた場面であったけれど、涙を押し殺して子ども達の選択を受け入れるジュディの姿は、彼女が「賢明な母親」であったことを証明していた。

別の言い方をするならば、少女時代のジュディが与えられなかったもの(食べたい物を食べる、眠りたい時に寝る、居心地の良い場所で暮らす)を、彼女は自分の子ども達には与えることができていたのだということ。娘ローナが自分にとってヘルシーな暮らし方(母親とではなく父親と暮らす)を選択できたことは、ジュディがそのように選択できる力を娘に育てたのだとも言える。それはちょうど、ステージに上がることの緊張や不安に押しつぶされそうになる母親ジュディとは対照的に、二番目の夫との娘である、若きライザ・ミネリの「(ショーには)不安を感じないの」という屈託のない笑顔からも傍証されていた。

この映画がジュディ・ガーランドの名誉に資するものであるとするならば、その一部は、彼女が「賢明な母」であったことを描いた点にあるのだといえる。

 

 ファンからの贈り物

スターの伝記的映画の中でも、この映画のように、ファンの存在と彼らの力を描いた映画は珍しいのではないかと思う。「希望」というものの得難さがモチーフであるかのようなジュディ・ガーランドの生涯において、ファンの存在が、「彼女の人生には確かに希望があった」ということを証明していた。特に、ロンドン公演に通いつめ楽屋口で入待ち出待ちをするゲイのカップルの姿は、「ファンの人生」におけるスター(推し)の存在のかけがえのなさを体現していた。ジュディから食事に誘われた時の、当てにしていたレストランが閉まっていた時の、そして自作のオムレツが失敗した時の、彼らの狼狽ぶりと慌てっぷりは、スターに対するファンの愛情と尊敬の純粋さと深さを愛おしくかつリアルに映画いていた。

また、ジュディを診察した医師から『オズの魔法使い』のドロシーに憧れていたことを告白される場面。医師の告白に対して「男の子はみんな、おさげ髪が好きなのよ」とかつての自分の人気を「記号として消費されたもの」であるかのように自嘲するジュディ。その後に医師が続けた「犬を大切にしていたから」という言葉を聞いて、診察台に腰かけたジュディが虚を突かれたような表情で足を内股気味にだらんと投げだした姿が姿がとても印象的だった。その姿はまるで「そんなこと言われたのは初めてだわ」と困惑する少女のようだった。

スターが見せていないつもりの、あるいは隠してさえいるつもりの、役柄を超えた、仮面の奥にあるスターの本性を、ファンというものは直観で見抜いているのだろう。ファンとは、スター自身以上にスターを理解しているものなのかもしれない。そして、そうした「理解」もまた、スターがファンから受け取る愛情の一つなのかもしれない。その意味でこそ「ファンはスターの鏡」となり得るのかもしれない。

 

彼女が掴んだ希望
映画のラスト、度重なるトラブルにより契約が打ち切られたロンドン公演のステージ袖で、ジュディは「1曲だけ歌いたい」とステージに上がる。強いられ、騙され、めだめすかされてではなく、自らが望んでステージに向かう彼女の姿に、少女時代の回想が重なる。ジュディの記憶では「ふられた」相手である、ミュージカル映画の相手役ミッキーの誘いを断って、出番の終わったステージに向けられる拍手喝采に微笑むジュディ。その笑顔は、彼女の少女時代の全てが悲劇だったわけではなく、映画やショーの中で彼女自身が掴んだ希望も確かにあったことを伝えていた。
だからこそ、最後に歌われた“Over The Rainbow”の歌唱シーンは、圧巻であると同時に、この歌唱の半年後に訪れた彼女の人生の終わりのとのコントラストを強めていた。葬送曲のような静かなエンドロールは、希望と絶望の両方を舌の上にのせて味わうような、なんともいえない美しさと切なさの余韻に満ちていた。

f:id:ay8b:20200309234346j:plain

映画『ジュディ 虹の彼方に』公式サイト

ザ・クロマニヨンズ ツアー PUNCH 2019-2020 (2020/02/19 千葉市民文化会館)

通算13枚目のオリジナルアルバム『PUNCH』を引っ提げての全58本に及ぶ全国ツアーのホールライブ初日。新作でヒロトが<アア ヤヨイ マヂカ リリィ>(リリィ)と歌う声が頭の中で再生されて、まさに今の季節にぴったりだと思いながら、会場に向かった。
ライブ前のサウンドチェックの時点で、ドラムの音もベースの音もギターの音も、とにかく重くて鋭い。つまり、かっこいい。

『PUNCH』と同様にライブの1曲目は“会ってすぐ全部”。サビで歌われる<ブルースをかきわけて パンクロックが行く>というフレーズ通りの疾走感の一方で、かきわけたはずのブルースもまた顔をのぞかせる感触が新作のアルバムの作風に重なった。
ライブ中は駆け抜けるロックンロールのカッコよさに圧倒されていたけれど、ライブが終わってみると、ホールならではの演出も相まって、ミディアムテンポの曲の余韻が後を引いていた。特にマーシー作の“小麦粉の加工”や“整理された箱”、“長い赤信号”は、日目に留まることさえないような日常の風景を繊細な言葉と爆音のギターで忘れがたい光景のように切り取っていた。

小麦粉の加工所から水蒸気
季節の恐竜が首をもたげる
(小麦粉の加工)

こぼれ落ちるレモネード
痩せた駱駝の背中に
英雄のほほえみ
(長い赤信号)

言葉だけなぞれば、それはビートニクスの詩のようでもあり自由律俳句のようでもあり、さらには作者不明の童謡のようでもあるけれど、爆音のステージから聞こえてくるのは紛れもないロックンロールだった。


2月27日、クロマニヨンズの公式ウェブサイトで、「2月26日新型コロナウィルス感染症対策本部より政府に要請された方針に基づき」として、5公演の延期が発表された。
ふと、前作の『Rainbow Thinder』の“サンダーボルト”を彷彿とさせる、ヒロトが一つ一つの言葉を噛みしめるように歌った“リリィ”で、<春はまた やってくる 同じ顔をした 別の春>と歌っていたことを、思い出した。同時に、先行シングルの“クレーンゲーム”の<やる事やるだけ 生活のドアホ>という日常を抱きしめつつ蹴飛ばす勇ましさも思い出した。

今年の春はどんな春になるのだろうかと考えながら、クロマニヨンズの「変わり続ける変わらなさ」に、今年もまた会えたことに感謝したいと思った。

 ザ・クロマニヨンズセットリスト(2020/02/19)
会ってすぐ全部
怪鳥ディセンバー
ケセケセ
デイジー
ビッグチャンス
小麦粉の加工
あったかい
底なしブルー
クレーンゲーム
ガス人間
整理された箱
リリィ
長い赤信号
単ニと七味
生きる
どん底
雷雨決行
ギリギリガガンガン
ナンバーワン野郎!
ロケッティア

 

―encore―
突撃ロック
ギリギリガガンガン
クロマニヨン・ストンプ