ザ・クロマニヨンズツアー レインボーサンダー2018-2019(2019/02/23 千葉市民会館)

とてもとても、本当に本当に、いいライブだった。

新作『レインボーサンダー』は、そのタイトルが意味するように、CDで聞いた印象の何倍も曲調がカラフルだった。そしてソングライターとしてもプレイヤーとしても、それを誇示するというよりはバンドとして楽しみながらあっさり実現できてしまっているところがただただ凄いと思った。“ミシシッピ”に“ファズトーン”、“モノレール”とギターが印象的な曲が多い新作の中、“サンダーボルト”が深く心に突き刺さった。

サンダーボルト 呼んでみたけど
名前のように 呼んでみるけど
サンダーボルト 稲妻でした
二度と会えない 稲妻でした


突き抜けていく 突き抜けていく
突き抜けたきり もう それきり

ロックンロールに出会ったという奇跡――思えば、もう何曲も何曲も、ヒロトはそのことを歌い続け、問い続けている。自分の人生に起きた奇跡について考え続け、そして辿り着いた答えが、<二度と会えない 稲妻でした><突き抜けたきり もう それきり>と、過ぎ去ったものを見送るような過去形で歌われているところに、何とも言えない、切なさを通り越してこみ上げてくる何かがあった。マーシーのギターソロは、そんな言葉にならない気持ちに寄り添うように優しかった。この曲を歌いながらヒロトは、満面の笑みを浮かべながら泣いていて、感極まって涙を浮かべながら笑っていた。歌い終わって拭った目元に光っていたのは汗だけではなかった。

ロックンロールに出会い、人生を変えられた人間は数え切れないほどいる。この日会場を埋め尽くしたファンも皆そうなのだといえる。けれど、そのことを「奇跡」と感じ、その意味を純粋に問い続けている人間は、ほとんどいないのだということ。多くのロックミュージシャンとヒロトを分かつ分水嶺があるとしたら、「ロックという奇跡」に降伏するかどうかということなのかもしれない。「ロックという奇跡」に半ば降伏するということは、ただそれに圧倒され、見送るしかないのだということ。
サンダーボルトを歌っている時、マイクを握り締めた右手とは対照的に、床に向いたヒロトの左手は蛸の足がうごめくように動き続けていた。何かを掴もうと必死であがき続けているような、その左手は、何かとても象徴的な気がした。“生きる”の<いつか どこか わからないけど/なにかを好きになるかもしれない/その時まで 空っぽでもいいよ>というフレーズがシンクロするような気がした。ヒロトは何も掴んでいなかった。徒手空拳だった。

新作『レインボーサンダー』の曲以外には、“グリセリン・クイーン”“エイトビート”“エルビス(仮)”そして“タリホー”と、完璧なセットリストだった。
ライブ後、<二度と会えない 稲妻でした><突き抜けたきり もう それきり>というフレーズは、まさにクロマニヨンズそのものであるような気がした。でもそれを言葉にすると切なさに押しつぶされそうになるから、ファンは皆「最高!」「最高!」と繰り返すばかりなのかもしれない。
だから、クロマニヨンズは最高すぎて、とても切ない。

ザ・クロマニヨンズセットリスト(2019/2/23)
おやつ
生きる
人間ランド
ミシシッピ
ファズトーン
サンダーボルト
グリセリン・クイーン

エイトビート
時のまにまに
恋のハイパーメタモルフォーゼ
荒海の男
東京フリーザ
三年寝た
ペテン師ロック
エルビス(仮)
雷雨決行
ギリギリガガンガン
GIGS(宇宙で一番スゲェ夜)


―encore―
突撃ロック
タリホー
ナンバーワン野郎!

レインボーサンダー(特典なし)

レインボーサンダー(特典なし)

THE YELOOW MONKEY SUPER『メカラウロコ・29 FINAL』(2018/12/28 日本武道館)

アンコールで吉井和哉が歌った「毛皮のコートのブルース」がこの日のライブを象徴していた。曲に込められた吉井和哉の深い思入れや「イエローモンキー」というバンドの根っこにある世界観を感じつつ、全身黒の喪服のようないでたちで「Happy Birthday」と歌う吉井和哉の姿が、この日のライブそのもののような気がした。祝っていると同時に悼んでいるような、祝祭と喪失を同時に経験しているような、そんなアンビバレンツな感情を経験したライブだった。そのアンビバレンツをバンドが、吉井和哉が明確にねらっていたというよりも、結果的に微妙に引き裂かれ感のあるライブになってしまったような気がした。
今回のライブタイトルに「FINAL」とあることについて、吉井和哉はライブ冒頭のMCでは「心配しなくていいから」とあまり深い意味はないような発言をしていたが、ライブ終盤では「メカラウロコ」という(バンドの苦闘の歴史を愛でるような)コンセプトのライブは今回で終わりにするのだと語っていて、どことなく「歯切れの悪い」ものを感じた。
また、吉井和哉は、再終結後はイエローモンキーではなく、イエローモンキースーパーを名乗っっているのだとも言っていた。新曲の‟天道虫”の迫力とスケール感は、活動休止前より高いステージにバンドが足をかけていることを感じさせるに十分だった。
愛着があるとても良く似合う服だけれどいつの間にかサイズが合わなくなってしまった服をどう着こなせなばいいのかと戸惑っているような、そんな印象を残すライブだった。披露された「服」があまりに完璧であるがゆえに葛藤が深まるライブだった。

2001年の活動休止前の最後のアルバムとなった『8』の‟ジュディ”から始まったライブは、確信犯的なセットリストだった。アルバムの中でも他の曲に比べて日の目を見ない隠れた名曲や一筋縄ではいかないバンドの美意識を共有させるような曲で構成されたセットリストだった。その本編を、バンドの歴史の中でおそらく最も厳しい季節だった『PUNCH DRUNKERED TOUR』の113本全てのライブで演奏した‟離れるな”で締めくくったことには、大きな意味があったのだと思う。重い歌だった。

MCでバンドの過去や未来に言及した吉井和哉は「不穏」「過酷」といった言葉を何度か口にしていた。アンコールの最後、長いメカラウロコの歴史の最後に演奏された新曲‟I don't know”は、向かい風を予感させるような、というよりもすでに吉井和哉が向かい風を感じていることを感じさせる歌だった。再集結して3年。来年の春に再集結後初のオリジナルアルバムをリリースして、いよいよイエローモンキーとして、より高い所へ向かい風の中を進んでいくことを感じさせる歌だった。そして、その歌は一度聞いただけで胸に強く刺さるような曲だった。だから、この日のライブについて正直なところ「いいライブだった」とは言えないけれど、このバンドに対する信頼や愛情は揺るがないと思った。

THE YELLOW MONKEYセットリスト(2018/12/28)
ジュディ
サイキックNo.9
A HENな飴玉
OH! GOLDEN BOYS
SOTNE BUTTERFLY
DEER FEELING
GIRLIE
This is for You
Donna
仮面劇
月の歌
遥かな世界
I CAN BE SHIT, MAMA
薬局へ行こうよ
天道虫(新曲)
甘い経験
SUCK OF LIFE
離れるな


―encore―
毛皮のコートのブルース
街の灯
真珠色の革命時代(Pearl Light Of Revolution)
おそそブギウギ〜アバンギャルドで行こうよ
悲しきASIAN BOY
I don't know(新曲)

another sunny day 2018(b-flower/The Laundries/For Tracy Hyde/DJ:明山真吾)(2018/10/13 KOENJI HIGH)

20年以上の時を経てb-flowerのライブを観ているということ以上に、そのライブに「20年」という時間やその間の空白を感じないことが驚きだった。b-flowerの音楽は、その演奏は「みずみずしい棘」のままだった。かつてとキーの高さの変わらない八野英史のボーカルは、今もなお「告発(プロテスト)の美しさ」を滲ませていた。

セットリストが良かった。ライブ冒頭の「お久しぶりです」と「はじめまして」の挨拶のような奥ゆかしさが、3曲目の“始まる、もしくはそこで終わる”を境に脱ぎ捨てられて、感傷でも感慨でもなく、b-flowerの言葉とメロディそれ自体に感動する瞬間が何度もあった。それは、b-flowerが2018年の「今」のバンドなのだと確認する瞬間でもあった。

八野英史はいくつかの曲の前に、曲を作った当時の問題意識や歌に込めた思いを語っていた。“臨海ニュータウン”について「人間と自然」というような大きなテーマについて考えていたことを語ったそのすぐ後で、「ネオアコのくせに(苦笑)」と自嘲して言い放ったその言葉がとても印象的だった。
あれだけの美しい言葉とメロディを紡ぐ才能を持ちながらも、八野英史は「自分の才能に酔う」ということがあまりないアーティストなのかもしれないと思った。ふと、「詩人は哲学者ほどにも言葉を信用しない」という昔どこかで読んだ一節を思い出した。
時に、この種の表現者が抱える「厳しさ」は表現することのブレーキになるのかもしれない。けれど、ライブ終盤で披露された新しい2曲“自由になりたい”や“SPARKLE”の開放感からは、むしろ今のb-flowerがバンドとしてアクセルを踏んでいることが伝わってきた。前に進もうという意志というか、覚悟のようなものさえ感じた。

そして、本編最後に演奏されたのは“君がいなくなると淋しくなるよ”ーー私がb-flowerの曲の中で一番好きな曲のひとつ。この曲をライブで聞けたこと自体が感動であったけれど、その演奏の素晴らしさがそれ以上に感動的だった。繊細が力強さを携え、力強さが繊細を宿した演奏はそれ自体がひとつの世界観でありひとつの価値のようだった。曲の終わりに向けて文字通り躍動しながらギターをかき鳴らす横顔はとても眩しく、美しかった。

ギターボーカルがハンドマイクで歌うとそれだけでどきどきする…という自分の個人的な性癖(的な何か)を差し引いても素晴らしかった“日曜日のミツバチ”や、全バンドでセッションしたまさに<清らかで激し>かった“天使のチェインソー”も含め、アンコールもとても良かった。
“永遠の59秒”で<これから時を 日々の暮らしを/笑って行ければいいね>と歌った八野英史の表情は、おそらく今回のライブ中で最も高音域を歌うという以上の熱さを帯びていて、胸が熱くなった。
とてもいいライブだった。

b-flowerセットリスト(2018/10/13)

つまらない大人になってしまった
始まる、もしくはそこで終わる
ペニーアーケードの年
North Marine Drive
冷蔵庫に捨てる
臨海ニュータウン
地の果てより発つ
自由になりたい(新曲)
SPARKLE(新曲)
君がいなくなると淋しくなるよ


―encore―
日曜日のミツバチ
永遠の59秒
天使のチェインソー(with The Laundries ,For Tracy Hyde)

劇団フライングステージ第44回公園『お茶と同情』(2018/08/11 下北沢OFF・OFFシアター)

同性パートナーシップ申請(宣誓)、レインボーパレード、一橋大学アウティング事件、国会議員による「LGBTは生産性がない」発言――近年の同性婚を扱った連作と同様に、あるいはそれ以上に「2018年の日本」を強く意識した物語。そして、さりげなく織り込まれた夏目漱石の『こころ』が伏線となって、物語に奥行きと余韻を与えていた。

1.眩しさと後ろ暗さ
母校の高校にやってきた教育実習生・藤原大地が全校生徒に向けた自己紹介の中で、自分はゲイであることを告げたいと言い出したことから始まる物語。「生徒に悪影響を与えるから」「教科書にLGBTは載っていない」などもっともらしい理由をつけて反対する教師達の意見は、正論を主張しているようでありながら防衛的で、何かに怯えているようでもあった。自分に嘘をつかず、自分らしく生きたいと主張するゲイの青年のまなざしはとても明るく眩しい。その明るさと眩しさは、人の心にある闇や影を白く照らし、人がその闇や影に隠している後ろ暗い秘密を暴いてしまうのかもしれない。「眩しくて目を背ける」ということもまた偏見や差別の土壌なのかもしれないと考えさせられた。教育実習生・藤原の生徒へのカミングアウトを頑なに拒む副校長・野崎憲一郎の大声は、自分と対立する他者の意見をかき消していると同時に、自分の内なる声(弱さや怯え)をかき消しているような、そんな気がした。
だから、ゲイであることを隠している40代の高校教師・浅野謙吾の「みんながカミングアウトしなくてもいいんじゃないか」「カミングアウトしない生き方もあるんじゃないか」という問いかけは、カミングアウト自体に対してというよりも、心の奥に容易には折り合いのつけられない想いを抱えて生きざるを得ない生き方を認めて欲しいという主張のようだった。
自分の生きる道を堂々と淀みなく主張する教育実習生・藤原と、自分の考えや生き方について口篭り、戸惑う高校教師・浅野との対比は、「世代」ということを考えた。


2.カミングアウトとアウティング
物語の重要なテーマの一つは「カミングアウト」であり「アウティング」だった。自分がゲイであることを他者に暴露されることを「アウティング」とするならば、酒場で養護教諭・池内知美が、校長室でレズビアンマザーの保護者・中野友里が「うっかり」と「てっきり」によって、高校教師・浅野がゲイであることを告げてしまう場面もまた「アウティング」として解釈可能だった。
物語の中では「守秘義務」「秘密」という言葉が幾度か登場した。明確な悪意によってというだけでなく、無邪気な興味や、思いやりによってさえも、秘密が秘密でなくなる瞬間があるということ。とはいえ、なし崩し的にカミングアウトせざるを得ない状況になった時に、むしろ腹をくくってゲイであることを明らかにする高校教師・浅野や、男子生徒・庄司拓実の姿に、「2018年の日本」が映し出されているようでもあった。


3.こころとこころとこころ
教育実習生・藤原が公開授業で取り上げたのは夏目漱石の『こころ』だった。原作の『こころ』の先生とKと僕、劇団フライングステージによる男性同士の恋愛物語として解釈した『新・こころ』の先生とKと僕、そしてこの物語での高校教師・浅野と亡くなった浅野の恋人・春日と教育実習生・藤原――3つの物語が入れ子になって物語の縦糸として、「2018年の日本」に留まらない普遍的なテーマを浮かび上がらせていた。
その中で、浅野が「分かるようになった」と語った『こころ』における「先生」の自死の理由に「あぁ、なるほど」と心の膝を打った。自分を「先生」と慕う若い世代に出会うことで、自分の中にある「とりかえしのつかない」何かと直面せざるを得なくなるという絶望。と同時に、そんな「先生」に対する若い世代(教育実習生・藤原)からの「死んじゃだめですよ」という言葉の率直さが希望でもあると思った。


4.打ち上げ花火
学校を舞台にしていることもあってか、今回のお芝居には、劇団フライングステージの物語にしばしば登場しかつ親密性を象徴する「食事」の場面はなかった(酒場での飲酒の場面はあったけれども)。その代わり、物語の最後は、主人公達が皆で隅田川で花火を見る場面だった。5年前に上演された『OUR TOWN わが町 新宿2丁目』の最後の場面を思い出した。
夜空に打ち上げられた花火を愛しい人と手を繋いで見上げるということ――そんなささやかな幸せの光景が、静かな祈りのように感じられたのは、思い出す限り生き続ける死者達もまたその夜空の上から花火を見下ろしているからなのだろうと思う。


付記
役者さんがどれもはまり役と思える存在であったのは言わずもがなとしても、個人的には木村佐都美さん演じるBLを愛する腐女子高校生・内藤彩花が強烈な存在感を放っていた。「尊みしかない!」と言い切る盲信・猛進ぶりが、愛おしかった。

http://flyingstage.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/44-tea-and-symp.html

ay8b.hatenablog.com
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吉井和哉 15th Anniversary Tour 2018‐Let's Go Oh! Honey−(東京国際フォーラム 2018/06/23)

いいライブだった。「ソロアーティスト」としての、「独りの表現者」としての吉井和哉の音楽の魅力に出会い直し、見つめ直すような、そんな感慨深い瞬間の連続だった。

東京国際フォーラム吉井和哉のライブ見るのは3度目だった。それはいつも梅雨の紫陽花の季節だった。2011年7月1日のライブで‟球根”を歌う吉井和哉を見て「あぁ、この人には涙がいっぱい詰まっているんだなぁ」と吉井和哉に対して初めてそんなふうに思えたこと。2015年7月15日のライブで会場を間違えて開演20分前にNHKホールに到着して、渋谷から有楽町へ向かうタクシーの窓から見た柔らかにオレンジに染まった東京の街がきれいだったこと――そんなことを思い出しながら、会場を埋め尽くしたそれぞれのファンにもまた同じように「吉井和哉との思い出」があるということを想った。
セットリストは、先日リリースされたこの15年間のソロ活動のベストアルバム的なセットリストというよりも、「ソロアーティストとしての吉井和哉のベストとは何か」と問い直した上で、ファンともその問いを共有しようとしているかのようだった。それは「意外」でありながら「予想以上」「期待以上」のセットリストだった。アレンジを大きく変えたことでメロディの良さやオリジナリティがより際立った‟CALIFORNIAN RIDER”や‟母いすゞ”が印象に残りつつ、個人的に白眉だったのは‟血潮”と‟HEARTS”だった。
ライブ1曲目の‟シュレッダー”と本編ラストを飾った‟BLIEVE”を始め、本人のMC通り、吉井和哉のソロの楽曲には「別れの歌」が多い。‟血潮”と‟HEARTS”もまた「別れの歌」であるけれど、これらは同時に「旅立ちの歌」でもある。失ったものの悲しみの確かさと大きさに比べて、旅立ちの希望の不確かさに心が折れそうになるけれど、それでも歌の中の彼らは<さよなら いつも 怯えたいた私>(血潮)、<次の場所へ さよならごめん 迷わず飛べ>(HEARTS)となけなしの勇気と決意を滲ませる。その姿が「強さ」よりも「美しさ」を、「明るさ」よりも「切なさ」を感じさせるのは、その歌声のせいなのだと思う。

ライブ前半のMCで、吉井和哉は自分の歩みを振り返って「失敗しないと学べない人間で、失敗しても学ばない人間で…たくさんの人にご迷惑をおかけしました」と頭を下げて謝った。ライブでアーティストに謝られるのは初めてだった。でもそれが「吉井和哉らしい」とも思った。その言葉は本心なのだろうと思う。けれどその言葉は、ファンに許しを乞うためのものというよりも、それを口にすること自体が今の吉井和哉にとって必然なのだろうと思った。ライブの終盤、またソロアルバムを作ろうとしていること、一から始めるような気持であるということを言っていたこととも重なって、ふと「棚卸し」「埋め合わせ」という言葉が思い浮かんだ。

ライブ中、吉井和哉はザ・イエローモンキーのことを「あの大型バンド」と言っていた。バンド名を素直に言わないところに、吉井和哉のイエローモンキーに対する「意識」があるのだと思った。そして、セットリストが進むにつれ、今後吉井和哉のソロライブではイエローモンキーの曲を演奏することはないのかもしれないということに気付いた。昨年12月の圧巻だったザ・イエローモンキーの東京ドーム公演を思い出しながら、イエローモンキーのライブがより「SHOW(ショー)」であり「エンターテイメント」だとしたら、吉井和哉のソロライブはより「LIVE(ライブ)」であり文字通り「人生そのもの」であるというような対照と、それがこれからの吉井和哉の活動の両輪になっていくというイメージが浮かんだ。それらは互いに映し出し合いながら、それぞれの存在感を際立たせていくのかもしれないと思った。

アンコールのラスト、ライブの最後を飾ったのは、新曲の‟Island”。曲に込めた思いはおろか、それが新曲であることもさえも告げずに歌い始めた姿に、この曲に対する吉井和哉の自信と思い入れを感じた。ワンコーラス目が終わったところで自然と拍手が湧き起こったのは、その歌がその自信と思い入れ以上のものを客席に届けていたからだと思う。ステージの後ろのスクリーンには、曲想に沿った美しい映像とともに歌詞の断片が映し出されて、その文字がそのまま心に刺さってくるようだった。そして、<迷子になった大人>としての葛藤や絶望を歌いながらも、それらに呑み込まれることなく確かな言葉とメロディを掴む吉井和哉表現者としての握力を改めて感じた。CDでは儚げな祈りのように聞こえたその歌は、ライブでは、失ったことや間違ったことの後悔と失うことや間違うことの予感を背負いつつも前に進むことをあきらめないという力強い宣言のようにも聞こえた。

また、ひとつ「吉井和哉との思い出」が増えたと思えたライブだった。

吉井和哉セットリスト(2018/06/24)
シュレッダー
Do The Flipping
WEEKENDER
CALIFORNIAN RIDER
ヘヴンリー
CALL ME
いすゞ
HATE
クランベリー
点描のしくみ
LOVE & PEACE
血潮
ONE DAY
(Everybody is)Like a Starlight
BELIEVE


―encore―
BEAUTIFUL
ルビー
VS
ビルマニア
WINNER
HEARTS
Island

『SOUNDTRACK〜Beginning & the End〜』

吉井和哉のソロデビュー15周年に合わせてリリースされた、2015年のソロライブ音源と新曲からなるベストアルバム的1枚。
アルバムジャケットの吉井和哉の表情は、何と形容したらいいのだろうかと迷った。
遠くを見ているようで目の前の誰かを凝視しているような、何か重大な告白をしかけているようで沈黙を貫いているような――そのアンヴィバレンツな表情こそが15年を経て吉井和哉が辿り着いた境地であり、メッセージなのだということ。寂しそうなその表情は、寂しさを隠さないという意味で強さもまた湛えていると思った。
新曲の“Island”は、アルバムタイトルの『SOUDTRACK』に呼応するかのように、まるでこの曲自体が映画のエンドロールであるようだ。一つの物語の終わりに際して感じる安堵と寂寥と感傷に満ちたこの曲は、これまでの吉井和哉のどの曲にも似ていない。けれど同時に、これまでの吉井和哉の歩みがあってこその、吉井和哉にしか歌えない曲でもあると思った。この曲は吉井和哉のキャリアの一つの区切りを示す重要な曲になるという予感がした。
この曲はアルバムの1曲目を飾る、<行かなきゃ 僕はいつか行かなきゃ/やるべきことの続きに>と歌う“MY FOOLOSH HEART”のアンサーソングのようでもある。けれど、ギターとともに穏やかに歌い出される“Island”が描くのは、今もなおたどり着く場所を探し続けているという告白であり、いつかたどり着けますようにという祈りだった。
血まみれの女神達よ聴いてください/この嘘みたいな現実を生き抜くための歌を>や<カラダのど真ん中に十字架突き刺して/夜空に天使呼びたいんです/あの宗教画みたいに>という、自分を超えた見えざる力に臆面もなく願いを訴える歌詞は、「Island(島)」という言葉とともに、吉井和哉のこれまでの詩作にはないもので、とても強い印象を残す。
長い時間がかかっても一歩一歩歩み続ければいつかたどり着く地続きの場所ではなく、海と空を超えなくては辿り着けない「島」に想いをはせるということ。この境地に、華やかなロックスターやベテランアーティストとしてではない、50代を迎えた一人の人間としての吉井和哉の葛藤と覚悟を感じた。それはちょうどアルバムジャケットのあの表情にも重なるものでもある。
だから、この曲は、心のとても深い場所で歌われていて、聞き手の心のとても深い場所に届く歌になっている。

願いは風の中 祈りは空 海へ
涙は砂に溶け 光が乾かして
心が疲れたら 歌でも歌いながら
あの日蒔いた種が育った
名前のない島へ行こう
(Island)

またひとつ、心を抉り心を支える曲に出会えたことに、吉井和哉に感謝したいと思う。

THE YELLOW MONKEY SUPER BIG EGG 2017(2017/12/09・10 東京ドーム)

素晴らしいライブだった。
この「素晴らしい」という言葉が、これまでのイエローモンキーのライブと同じ基準によるものではなく、その基準自体が更新されたような感覚があったという意味で「素晴らしい」ライブだった。2001年1月以来、活動休止、解散そして再集結を経た「約17年ぶり」という感傷や感慨以上に、驚きと新しい感動があった。
再集結後のアリーナツアー、そして今回の東京ドーム2daysのライブ名に「SUPER」という言葉を付していることの意味がすとんと腑に落ちるライブだった。「ザ・イエローモンキーで、ザ・イエローモンキーを超えていく」という覚悟と手応えを感じたライブだった。

ドーム中央の花道の真ん中の卵がパンっとはじけて現れた4人が演奏した“WELLCOME TO MY DOGHOUSE”。たった4人のシンプルな演奏にもかかわらず5万人を惹きつけるに十分な存在感だったことがまず驚きでもあり感激だった。その後の、花道からステージに移動した後の“嘆くなり我が夜のFantasy”や“I LOVE YOU BABY”なども、原曲そのままのストレートな演奏がすっかりスタジアムライブの演奏になっていた。
もちろん、曲ごとに計算され作り込まれた照明や効果プロジェクションマッピングなどの効果は絶大だった。けれど、そうした舞台演出のテクノロジーがあれば「東京ドームのライブ」として成立するわけではないのだということ。それを手段にして実現したいライブ像(ビジョン)とそれを実現するための力(パワー)がなければ、それは成立し得ないのだということ。2001年1月のイエローモンキーの東京ドームのライブにはなかったビジョンとパワーが今回のライブにはあった。
「東京ドームでライブをすること」と「東京ドームに見合うライブをすること」という2つがあるとしたら、今回のライブは完全に後者にだった。バンド自身がそれを意識してライブ望んでいることが、セットリスト、演奏、演出のすべてから感じられるライブだった。さらに言えば、1日目は中盤までどこか硬さのあった吉井和哉のパフォーマンスが、2日目にはライブ冒頭のMCでの「(東京ドーム)の勝手がわかってきた」という言葉通り、ライブの始めから東京ドームでのライブに対する自由奔放さと自信を感じさせるものにさえなっていた。

だから、今回のライブでは、演奏がスタジアムライブ級にスケールアップしたというだけでなく、スタジアムライブで演奏されることで曲自体がその趣を変えたと思える曲もいくつかあった。前半のハイライトとなった“天国旅行”から“真珠色の革命時代 (Pearl Light Of Revolution)”。曲の世界観に忠実にかつ迫力をもって突きつけたような“天国旅行”の後、ステージを覆っていた砂嵐を映し出す幕が上がり、美しい弦楽奏ともに現れた満点の星空に切り替わった“真珠色の革命時代”。それは、ガラス細工のように繊細なグラムロックの美意識を内包しつつも、朝日から夕日までを映す大海原の映像が示唆していたようによりスケールの大きな名曲に変質しているような感覚を覚えた。
ライブで何度も聞いていた曲が趣を変え、今までとは違うライブの体験となったのは、本編の「第2部」とも言える中盤の演出過剰とも思える“太陽が燃えている”から“LOVELOVESHOW”の流れだった。これらの曲の見せ方(魅せ方)に、「東京ドームでのイエローモンキー」がどうあるべきか、ということに対するバンドとしての一つの答えがあったような気がした。
特に、メンバーを映すスクリーンに重なる炎の映像が激しすぎて笑わざるを得ない“太陽が燃えている”とともに、「演出が強すぎて歌が入ってこない(笑)」というこれまでにないライブ体験になった“LOVE LOVE SHOW”が強烈だった。イントロと同時にステージの左右に開脚した赤いハイヒールの女性の脚が膨れ上がり、「世界のおねえさん」として何十人もの外国人モデルが花道に登場した“LOVE LOVE SHOW”は、まるでローリング・ストーンズのスタジアムライブでの“Honky Tonk Woman”のようだった。それは、ロックバンドのスタジアムライブにおけるエンターテイメント性とイエローモンキーらしさの融合への挑戦を感じさせた。
と同時に、「美女を侍らせて歌う」という同じシチュエーションであっても、ミック・ジャガーとは対照的にどこか女性に遠慮がちで女性に弄ばれている佇まいになるところが、吉井和哉のロックスターとしての独特の存在感だと思った。外国人モデルがマネキンのように微動だにせず、曲のアウトロとともにビジネスライクに花道を降りていく姿(と、彼女達に取り残される吉井和哉)まで計算しての演出だったとすれば、やはり吉井和哉は「ロックスター吉井和哉」のことをとてもよく分かっているのだと思う。

1日目も2日も“JAM”の前のMCで、来年には新しいアルバムのレコーディングを開始すると言った。それがこのバンドを再集結した「最大のミッション」だという言葉を聞いて、とても嬉しい気持ちになった。同時に新作の制作を「夢」ではなく「使命(ミッション)」という言葉で表すことの意味を考えた。例えばこのライブで“砂の塔”と“BURN”が続けて歌われた時、印象に残ったのは“砂の塔”の方だったというように、再終結後に発表した新曲がライブでも大きな存在感を見せていたことを思うと、新しいアルバムには大きな期待を感じた。
そして、その後に歌われた“JAM”は、強く胸に響いた。聞きながら、2001年1月と2004年12月に同じこの会場で同じ曲を聞いたことを思い出していた。それは苦くせつない経験だったけれど、それさえも今この瞬間につながる必然のように思えた。吉井和哉、そしてザ・イエローモンキーに感謝したいと思った。

2日目のライブの終盤で“SO YOUNG”を歌う吉井和哉の声は何度か上ずっていた。けれど、それは気にならなかった。スクリーンに映る吉井和哉の目に涙が光っているように感じたから。この曲の中では、<あの日僕らが信じたもの/それはまぼろしじゃない>と歌われる。約17年前のあの日信じてはいたけれど実現できなかったもの、そして約17年前のあの日には想像さえできなかった未来が、今回の東京ドームのライブにはあった。
本当に素晴らしいライブだった。

THE YELLOW MONKEYセットリスト(2017/12/09・10)
WELCOME TO MY DOGHOUSE
パール
ロザーナ
嘆くなり我が夜の Fantasy
I Love You Baby(12/09)
TVのシンガー(12/10)
サイキックNo.9
SPARK
天国旅行
真珠色の革命時代〜Pearl Light Of Revolution〜
Stars
SUCK OF LIFE
バラ色の日々
太陽が燃えている
ROCK STAR
MY WINDING ROAD
LOVE LOVE SHOW
プライマル。
ALRIGHT
JAM
SO YOUNG
砂の塔
BURN
悲しきASIAN BOY