劇団フライングステージ第43回公演『LIFE,LIVE ライフ、ライブ』(2017/11/12 下北沢offoffシアター)

渋谷区と世田谷区で始まり、全国の複数の自治体にも広がっている同性パートナーシップ申請(宣誓)をめぐる、3部作の3作目。2015年上演の1作目『Firiend,Freiends 友達、ともだち』、2016年上演の2作目『Family,Familiar 家族、かぞく』に共通する登場人物達のその後を描いた本作は、友達、恋人、夫婦、親子、そしてそのどれにもあてはまらない関係も含めた様々な「つながり」のあり方について、「問いと答え」を同時に喚起していた。観終わった後、せつないけれど温かい気持ちになったのは、登場人物達が皆時に揺れながら、時に迷いながらも、それでも誰かとつながろうとするその気持ちには正直であろうとしていたからなのかもしれない。


1.紙一枚の重さ
主人公が「ゲイの行政書士」であるから当然とは言え、劇中ではさまざまな書類の名前が登場した。同性パートナーシップ申請、住民票、遺言状…。「紙切れ1枚」と言えばそれまでだが、その1枚に縛られたり、支えられたりする人間模様はセクシャルマイノリティであるかどうかに関わらず、誰の人生にも訪れるさまざまな岐路を浮かび上がらせていた。こだわりすぎるのは滑稽だが、軽んじるには重い――恋人や家族との関係で葛藤しつつも、屈託のない明るさとともに粛々と仕事を進める主人公の佇まいは、「うまく生きること」の絶妙なバランス感覚を体現しているようでもあった。
会社のホームぺージに「ゲイの行政書士」と書かれたことで、なし崩し的にカミングアウトすることになっても、それが物語の「山場」ではなく「きっかけ」に位置づいている点に、時代の流れとも言うべき、セクシャルマイノリティと彼らを取り巻く世間の変化を感じた。


2.親の横顔
物語の後半、ゲイの息子を持つ二人の母親(ミーちゃん、ケイちゃん)の存在が物語をより多面的にしていた。この一連の3部作では親の横顔や心情が、主人公のゲイ達以上に奥行を持って描かれていると感じる。
息子が「ゲイの行政書士」であること(と、それを知らされていなかったこと)に動揺する母親(ミーちゃん)と、ゲイの息子を自死で失った母親(ケイちゃん)が結託して一芝居打って「ゲイの行政書士」の息子の本音を引き出す場面は、官公庁に提出する書類や権利義務・事実証明の書類では扱えない、不確かだけれど最も必要な「つながり」を描き出していた。「母親の面倒を見る」という息子の言葉を母親はちゃっかり録音していたというのが、この場面のオチだったけれども、個人的には録音はしなくても良かったんじゃないかと思った。書類も音声記録もなく、何も証明するものがないとしてもそれを信じればいいんじゃないかと思ったから。


3.他人のため/自分のため
セクシャルマイノリティを含めて人を孤立させないためのNPO法人(その名も「ノット・アローン」)や彼らが運営する子ども食堂、ゲイのカップルが被虐待児を養子に迎える養育里親など、同性パートナーシップ申請(宣誓)以外にも、この物語には新しい「つながり」のあり方がいくつも登場していた。「誰かとつながりたい」という至極プライベートで利己的な欲求が、「誰かのためになる」という公共の福祉を通して実現されるということ。
思えば物語の中で、主人公は何度も「自分のためより他人のため(他人のためより自分のため)」という言葉を発していた。「自分のため」と「他人のため」。利己と利他――この2つのベクトルが交差するところに、新しい家族の形のあり方が模索されているところがとても示唆的だと思った。そして、それはちょうど、劇場で配布されたパンフレットの中の、劇団の主宰者である関根信一さんのこんな言葉に重なった。

フライングステージを続けてきた理由、実は僕にはとても個人的なものがあります。それは演劇を始めた若い頃、そういう劇団があってほしいと思ったからです。「自分はゲイじゃない」と言いながら海外のゲイプレイに出演する俳優さんたち、そうではなくて、「あ、僕はゲイですけど何か?」と言えるようなカンパニー。その上でいろいろな作品を作りだしていくことができたら。

「そういう劇団があってほしいから」(※)という個人的な理由に根差しながらも、根差しているからこそ、劇団フライングステージのお芝居は、それを超えて「誰かのため」にも届くのだと思う。
劇団フライングステージは今年で25周年を迎えた。後世に「日本のセクシャルマイノリティ史」ということが論じられるとき、この劇団の存在意義と影響について誰かが言及するのだろう。だとしたら、その時に、この劇団の発端が「そういう劇団があってほしいと思ったからです」という個人的な理由であることがしっかりと記されてほしいと思う。その理由はとても素敵なことで、とても勇気のあることだと思うから。


※今から15年前、劇団フライングステージが10周年を迎えた際の、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭の公式サイトでのインタビューでも、関根さんは同様のことを語ってた。
http://rainbowreeltokyo.com/2002/2002_03/07_fs01.html

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『オトトキ DOCUMENTARY of THE YELLOW MONKEY』(2017/11/11)

公開初日に銀座の映画館で観た。同じバンドのドキュメンタリー映画ではあっても、2013年に公開された『パンドラ ザ・イエローモンキー PUNCH DRUNKERD TOUR THE MOVIE』とは異なる感触と印象を残す映画だった。
2016年に「再集結」したザ・イエローモンキーの1年間を追ったドキュメンタリー映画。復活のアリーナツアー「SUPRER JAPAN TOUR 2016」からホールツアーの「SUBJECTIVE LATE SHOW」、年末の「メカラウロコ・27」、「COUNT DOWN JAPAN2016-2017」まで、ライブとリハーサルや楽屋での様子、メンバーと関係者のインタビューで構成されたこの映画が映し出していたもの、それは「家族」と「仕事」だった。どちらの言葉もロックバンドのドキュメンタリー映画のモチーフらしくないようでありながらも、この映画が意識的にも無意識的にも一貫して浮かび上がらせていたのは、「家族としてのロックバンド(ロックバンドという家族)」「仕事としてのロックバンド(ロックバンドという仕事)」だった。
だから、この映画は、ザ・イエローモンキーというバンドの世界観とは裏腹に「エロス」をほとんど感じさせない。その点に多少の物足りなさを感じないわけではなかった。けれど、この映画の中にあったバンドの現在地が、長い時をかけて、さまざまな季節を潜り抜けてたどり着いたものであることを思い、そして、その時間にはファンとしての自分自身の時間も重なっていたことを思ったとき、安堵と郷愁が入り混じったような気持ちになった。

アリーナツアーの終盤、2016年の7月にエマとアニーの父が永眠するという状況に直面しても、ツアーを続行しライブに臨み、そしてやり遂げるバンドの姿は、ステージの上に立つという「仕事」の宿命を示していた。と同時に、ステージ上がる直前にアニー、エマ、そして吉井和哉をハグするヒーセの姿は「家族としてのロックバンド」の救いを示してもいた。映画の中で吉井和哉自身の言葉で語られていたように、「兄弟」=「家族」という喩えに何ら違和感のないメンバーの関係性がそこにはあった。そして、その構図は、2016年の大晦日紅白歌合戦への出演を果たした直後の「COUNT DOWN JAPAN 2016-2017」のステージで突如声が出なくなった吉井和哉と、彼を囲むメンバーやスタッフの姿にも見て取れた。
また、横浜アリーナでの「YOKOHAMA SPECIAL」のライブで、熱狂する観客の渦に呑み込まれるように“SPARK”を歌った吉井和哉が、リハーサルで客席の間をどこまで進めるかを柵の位置とともに確認していた姿は、興奮や衝動以上に準備と計算を感じさせるものだった。しかし、だからといってあのライブの感動が薄れるわけでも嘘になるわけでもなかった。吉井和哉のその姿は、ファンの期待と自分に課された役割を、求められる以上に成し遂げようとするロックスターの自覚と意志を感じさせるものだった。
そんなふうにして、「家族」と「仕事」を縦糸と横糸にして編まれる物語は、ロックバンドの興奮や華やかさよりも、イエローモンキーとして生きる彼らの冷静さと真摯さを強く印象づけるものだった。

だから、バンドにとっての母胎といえる渋谷ラ・ママでの観客のいない4人だけのライブは、観客がいないがゆえに「仕事」に徹しきれず、メンバー同士が楽屋で見せ合う「家族」のような表情を垣間見せる不思議な空気に包まれていた。次は観客を入れて演りたいという吉井和哉の言葉も含めて、彼らにとってのライブの本質が「show(ショー)」なのだということを再確認した気がした。と同時に、渋谷ラ・ママで演奏していた頃から「変わったもの」が当然あるにしても、ロックバンドとしての「変わらないもの」を今でもイエローモンキーが持ち続けていることも感じられた気がした。

個人的には、ライブ演奏をもっと長く観たかった曲(“Farther”など)が何曲もあったこと、12月の東京ドームのライブへと連なるメンバーの想いも聞きたかったことなど、いくつか思うところもあった。でも、やっぱり、観て良かったと思った。約17年ぶりとなる東京ドームのライブで、ザ・イエローモンキーがどんな表情でどんなふうにステージに立つのか、楽しみになった。

ザ・イエローモンキー『THE YELLOW MONKEY IS HERE.NEW BEST』

2013年にリリースされたファン投票によるベストアルバム『イエモン―FAN'S BEST SELECTION―』の収録曲を、再集結したザ・イエローモンキーが新たにレコーディングし直したベストアルルバム『THE YELLOW IS HERE』。タイトル通り、イエローモンキーが現在進行形としてのロックバンドであることを、「イエローモンキーここに在り」ということを証明したアルバムになっている。リリースを知った当初は、正直に言うと、過去のベストアルバムを新たに録音し直すということの意味を掴みあぐねる感じがあった。けれど、このアルバムを一聴して、このアルバムの意味がすとんと胸に落ちた。
このアルバムを聞くと、ザ・イエローモンキーが、「ザ・イエローモンキー」の最も熱烈なファンであり、最も厳しい批評家であるということが伝わってくる。その深い愛情と鋭い批評性によって「名曲」を単なる名曲ではなく、2017年の現在に活動するバンドの「今の曲」にしているところに、このアルバムの意味があるのだと思う。「懐かしさ」や「感傷」を押しのけて、新しい「興奮」や「感動」が胸を満たしていくところに、このアルバムの意味がある。

再集結後のツアータイトルに掲げられていた「SUPER」の言葉通り、長いキャリアを経てビルドアップして研ぎ澄まされた歌唱力と演奏力によって、どの曲もその魅力と説得力を増している。特に吉井和哉の歌唱力は、2004年の解散前に比べて段違いの安定感と表現力を増している。“JAM”の、力強いようでありながら幼さゆえの純粋さと怯えさえも湛えた歌声は、曲中のあの少年に出会い直したような感動を呼び起こす。
“悲しきASIAN BOY”や“パール”“楽園”“JAM”などの、ほぼ原曲のアレンジ通りにストレートなバンドの演奏を聞かせる曲は、バンドによる楽曲への深い敬意ともに、「ロックバンド」としてのイエローモンキーの逞しさと色気を改めて感じさせる。その一方で、“太陽が燃えている”や“追憶のマーメイド”などの、ストリングスやホーンセクションを豪華に取り入れた曲は、そのアーティスティックな復讐心(特に“追憶のマーメイド”)にニヤリとさせられるとともに、歌謡曲的なキャッチ―さを持ちながらもあくまでエレガントであるところにこのバンドの奥行があるのだと気づかされる。

特に印象的だったのは、“真珠色の革命時代―PERAL LIGHT OF REVOLUTION―”。繊細なストリングスの、細い光の糸が暗闇にすうっと線を引くように始まるイントロを聞いただけで、この曲をこのバンドがどれほど大切にしているかが伝わってくる。サビで繰り返される「Sally, I love you」のフレーズを聞いて、この曲が収められたデビューアルバム『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE(夜行性のかたつむり達とプラスチックのブギー)』がリリースされた15年後、フジロックフェスティバルでの挫折に傷付いた吉井和哉の心を癒したであろうOASISの“Don't Look Back In Anger”でも「Sally」という名前が歌われている(So Sally can't wait〜)ことを思い、不思議な「縁」を感じた。ライブでの、メカラウロコ楽団が奏でる美しいストリングスのアウトロとは対照的な、高揚感がピークに達したところであっけなく幕切れを迎える曲の終わり方が、心の中に言いようもない感傷と感動をかき立てる―余韻は心の中に。

そして、イエローモンキーのバンドヒストリーだけでなく日本のロック史上の名盤でもある『SICKS』の収録曲である“天国旅行”と“花吹雪”。このアルバムでこの2曲を聞いて抱いた感想は、対照的であるようでいて実は同じことを言っている感想だった。“天国旅行”を聞いて「あの『SICKS』の演奏を超える演奏があったのか」と思った。“花吹雪”を聞いて「この演奏を持ってしても『SICKS』のあのテイクは超えられないなんて…」と思った――どちらにしても『SICKS』はやはり奇跡的なアルバムであり、その「奇跡」に比肩しているという点に再集結したイエローモンキーの凄さがあるということ。言い方を変えるならば、『SICKS』の楽曲を新たにレコーディングして原曲に負けないだけの自信と気概があるからこそ、このバンドは再集結したのだということ。

それにしても…と思う。かつて、このバンドが、その後四半世紀を経てもなお新たにレコーディングする価値のある楽曲を生み出し、そしてそれをかつて以上の力強さと美しさで演奏しているということに、驚きと尊敬を感じずにはいられない。
感謝と尊敬と、そして、期待を込めて、12月の東京ドームのライブを待ちたいと思う。

フラワーカンパニーズ「フラカン28号SPECIAL」(2017/04/22 日比谷野外大音楽堂)

フラカン野音」というと思い出すのは、48年ぶりの大寒波(!)に襲われた4年前の野音でのライブid:ay8b20130428。本当に寒かった…、でもとても印象深いライブだった。そして、ライブが始まる直前になって強く雨が降り出した今回のライブも印象深いライブになった。雨が降ったから、というだけではない。いい歌をたくさん聞くことができたから。

雨脚が強まる状況を逆手にとるかのように‟真冬の盆踊り”で始まったセットリストが、とても良かった。「2015年12月の武道館ライブで演奏されなかったフラカン名曲集」という感じがした。
中盤の‟日々のあぶく”と‟靴下”*1――虚しさ、寂しさ、侘しさ、そんなどうにもならない、歌にさえなりそうもない気持ちを歌にするということ。何がどうなるわけでもないけれど、でも、そんな気持ちこそが「自分」というものが存在することのささやかな証拠なのだとしら、それを見捨てないことにも意味はあるのかもしれない…とか、そんなことを考えた。‟靴下”での竹安さんのギターソロが素晴らしかった(長くないよ…竹安)。

そして、イントロが始まった瞬間に「うわぁ」と心の底から嬉しさと涙がこみ上げてきた‟口笛放浪記”。フラカンのライブに行くようになってもう10年以上になるけれど、ライブで聞くのはおそらくこれが2回目。私がフラカンの中で一番好きな曲の一つ。雨が降っていることも気にならないぐらい、むしろ雨の中でこの曲を聞いたことが感動に拍車をかけたと思えるぐらい、本当に良かった。

失くしたものだけ覚えてる 足りないものだけ数えてる
さびしい自分に立ち止まり むくんだ手足を温めてる

終電車を見送って 素足で夢を歩いている
いけどもいけどもきりはなく 今いる場所さえわからない

そんな‟口笛放浪記”の感動に匹敵するほどだったのが、アンコールの1曲目で披露された新曲の‟ハイエース”。初め聞いたけれど、1度聞いただけで、曲が終わる前に「名曲」だということがわかるほどいい曲だった。曲名の通り、‟深夜高速”の続編でもありアンサーソングでもあった。けれど、そこにはハッピーエンドも答えもなくて、むしろ、それらがないということを引き受けながらも、走り続けるということを歌った歌だった。言葉も曲(メロディと展開)もアレンジもすべてがバッチリとハマっていた。うまく説明できないけれど、この歌があることで、フラカンもそのファンも「これから先」を続けていくことができるんだろうと思えた。バンドとファンにとって心臓でもあり背骨でもあるような曲がまた一つ増えた。そして、今年リリースされるという次のアルバムはきっといいアルバムになると思った。

結局、雨は止まなかった。でも、会場を出て、日比谷公園の建物の軒先や地下鉄の駅でレインコートを脱いだりしているファンはみんな笑顔だった。それがこの日のライブがいいライブだったことを物語っていた。
雨が降らないライブの方が良いけれど、でも雨のライブもなかなか捨てたもんじゃない――この「ライブ」を「人生」に置き換えてみる。フラカンが歌っているのも、こういうことなんじゃないかと思った。だから、フラカンの歌は優しく、強いのだと思う。

次回、2年後の野音は晴れますように(笑)。

真冬の盆踊り
脳内百景
三十三年寝太郎BOP
Mr.LOVE DOG
チェスト
夜空の太陽
すべての若さなき野郎ども
感じてくれ
口笛放浪記
あまくない
日々のあぶく
靴下
大人の子守唄
虹の雨あがり
最後にゃなんとかなるだろう
ホップ ステップ ヤング
終わらないツアー
消えぞこない


―encore1―
ハイエース(新曲)
とどめをハデにくれ(Theピーズカヴァー)
TEEN AGE DREAM


―encore2―
東京タワー
ロックンロール

*1:かつてスピッツと対バンした時に、草野マサムネが‟靴下”が好きだと言ったら、「‟ロビンソン”と交換してください!」と言って両バンドのファンを凍りつかせた圭介さんを思い出す。

ザ・クロマニヨンズTOUR BINBOROLL 2016-2017(2017/04/02 千葉市民会館)

ヒロトマーシー、そして彼らの音楽に対しては、もう尊敬と感謝しかない――というのが、心の底からの正直な気持ちだけれど、クロマニヨンズのライブを観ると、そんな気持ちすらどうでもよくなってしまう。そんな気持ちさえも超える「今・ここ」での感激や感動がある。彼らの音楽で出会ったから現在に至るまでの決して短くはない時間の流れや厚みさえ蹴散らしてしまうような、「爆発する現在」が、クロマニヨンズのライブにはある。
どの曲もハイライトではあったけれど、宇宙のただ中にるような美しい照明と相まって、“ナイアガラ”“焼芋”“誰がために”の流れは圧巻だった。歌われている情景や心情の素朴さがむしろ異次元の入り口になっているような奥行と迫力が、CDの演奏をはるかに超えていた。ツアーで磨き上げられたこの演奏が、次のツアーでは必ずしも聞けるわけではないと思うととても惜しいけれど、また同じにようにかっこいい新しい歌が現われるところが、クロマニヨンズの凄さだと思う。
ライブが終わって、会場の外に出ると咲き始めた桜が白く夜空に浮かんでいた。<ああ 桜 咲いたまま もう 春を忘れそう>という“光線銃”歌詞を思い出した。桜が咲いていることを忘れてしまうような興奮と、桜が咲いていることにふと立ち止まりたくなるような感傷の両方が心に残るライブだった。いいライブだった。

ザ・クロマニヨンズセットリスト(2017/04/02)
俺今日バイク
光線銃
マキシマム
デトマソパンテーラを見た
ハードロック
もれている
モーリー・モーリー
欲望ジャック
ゴー・ゲバ・ゴー
ナイアガラ
焼芋
誰がために
ピート
ペテン師ロック
エルビス(仮)
突撃ロック
エイトビート
雷雨決行
ギリギリガガンガン
大体そう


―encore―
笹塚夜定食
紙飛行機
ナンバーワン野郎!

b-flower 『the very best of b-flower』

かつて、10代でロックと出会って間もなくして、「自分の好きな音楽について自分が書いた文章が音楽雑誌に掲載されること」が、私の夢になった。そして、20歳の春、『rockin'on JAPAN』という雑誌に、あるバンドについて書いた私の文章が掲載された。その文章は、b-flowerというバンドの『ペニーアーケードの年』というアルバムについて書いたものだった。
それからずっと、自分の好きな音楽について文章を書くことは、私の夢であり続けている。だから、自分の好きなバンドやアーティストについての文章を書いてブログを更新するたびに、私は夢を叶えている。そして、20歳のあの春から長い月日が流れ、今こうしてb-flowerのベスト盤について文章を書くことで、私はまた一つ夢を叶えることになる。


1. 揺るぎない個性と進化(深化)
出会いは、偶然ラジオから流れてきた“April Rain”。イギリスのインディーズギターバンドやネオアコースティック直系のメロディと、英米文学をも髣髴とさせる文学的な歌詞というバンドの魅力もさることながら、その奥に透けて見える「自分達の美意識は1ミリも譲らない」という静かな意志に「ロック」を感じた。繊細で美しい音楽であること自体による「世界」に対するプロテスト――その印象は、このベスト盤を通して改めてb-flowerの歩みに触れて、より確かなものになった。そして、ほぼリリース順に配置された曲順による2枚組のこのベスト盤を聞くと、揺るぎない個性を保ちながら進化(深化)を遂げてきたバンドの姿が浮かび上がってくる。
主に本作Disc1収録の1stEP『日曜日のミツバチ』(1990)から3rdアルバム『World's End Laundry』(1993)までは、バンド名の由来である詩人リチャード・ブローティガンや、1stアルバムの表題曲“ペニーアーケードの年”の下敷きとなっているスティーブン・ミルハウザーの小説『In The Penny Arcade』にも通じる、文学的な想像力によって「ここではないどこか」を夢見るような世界観が色濃い。けれど4thアルバム『Groccery Andromeda』(1995)から兆した変化は、Disc2収録の5thアルバム『CLOCKWISE』(1996)以降にはっきりと表れてきた。『CLOCKWISE』以降には、「繊細で文学的なギターバンド」というイメージに囚われずにバンドの元々の音楽性の幅広さを生かし、その音楽によって現実から逃避するよりもむしろそれを自分なりに描いていこうとするしなやかな力強さがある。そして、その力強さの奥には、現実の日常的なありふれてさえいる風景を「文学」として成り立たせてしまう詩才がある。“臨海ニュータウン”のコンビナートに沈む夕日や“明星”の川の土手を走るバスは、見慣れた風景の中に発見する美しさと優しさが、舟の錨のように、自分というちっぽけな存在をこの世界につなぎとめてくれるのだと告げているようだ。

向こうの土手を バスが1台
うろこ雲から 星がのぞいて


涙がこぼれそうさ すべてが愛しくて
川の泥に眠る 古い思い出のように
(明星)

Disc2の終盤に収められた2ndアルバム収録の“動物園へ行こうよ”の2014年ヴァージョンが、「逃避の歌」に聞こえないのは、そうしたバンドの進化(深化)に重なっているように思う。“日曜日のミツバチ”の印象が強い人にこそ、本作のDisc2を聞いてほしいと思う。


2. 詞の中の野性(野生)
このベスト盤を聞いて、改めて八野英史の詩才について考えた。心が揺れるフレーズをあげればきりがない。その中でも改めて印象に残ったのは、声優の国府田マリ子に提供した“コバルト”(セルフカヴァー)の中このフレーズ。

耳たぶをぶつけあって笑ったり 恋の深みを泳ぐよ
いつかは実る花のようにね 花のようにね
くちびるの端っこでキスをして 揺れる景色を見ている
僕らは蒼い風のようにね 風のようにね
(コバルト)

その可憐なメロディとアレンジも含めて、うまく言葉にならないまま「見事だなぁ」と溜息をつくしかなかった。それほどに、静かに感動した。
八野英史の詞は、ロマンチックではあるけれど、感覚的というよりは写実的で、抽象的というよりは具体的なのだと、発見した。特に、自然や身体という野性(野生)――移ろいやすく微細で周縁的なそれら――が詞の中にさりげなく織りこまれることで、その風景が微かに生々しく感じられところに、テクニックを超えた詩才というものを感じる。そして、その詞と同じく、あるいはそれ以上に「歌う」メロディとバンドのアレンジが、b-flowerの音楽を<嘘みたいにキレイな色>(永遠の59秒)にしている。


3. 美しい曇り空
b-flowerのCDジャケットは、これまでもずっとその音楽のイメージを端的に象徴するような印象的なものばかりだった。そして、今回のベスト盤のジャケット。一目見て「あぁ、b-flowerだ!」と感激した。遊園地と、曇り空――b-flowerには曇り空がよく似合う。b-flowerの音楽に出会ったことで、私は「曇り空の美しさ」を感じるようになった。
思えば、2ndアルバム『太陽を待ちながら』のジャケットや表題曲だけでなく、“日曜日のミツバチ”や“動物園へ行こうよ”など、b-flwerの曲では、曇り空が印象的に描かれている。

寒そうな冬の海 今はもう 君と僕ふたりきり
変わらないスピードで 言葉交わしては
明るい灰色の空を見る
(North Marine Drive)

この詞にあるように、b-flowerの歌う曇り空は、単なる灰色の空ではないということ。明るい青空ばかりではないという苦い現実と、その空の向こうに太陽があるという信頼と、その空の向こうから再び太陽が顔をのぞかせるという予感――b-flowerは、これらを美しく、驚くほど繊細で鮮やかな色使いで歌うことができるバンドなのだということ。その意味でも、やはりこのバンドは唯一無二の存在だと思う。


この文章の冒頭で、私は、この文章を書くことで「また一つ夢を叶えることになる」と書いた。そして、この文章は私にとっては「一つの夢」であると同時に「一つの奇跡」でもあるように感じている。長い時間を通して、b-flowerの音楽が変わらずに私の心に届くということ――その「奇跡」に心から感謝したい。


http://www.breast.co.jp/theverybestofbflower/

*****

2017年1月13日、b-flowerのメンバー岡部亘さんが急逝されました。どう受けとめてよいか分からず、何をどう言葉に表してよいかも分かりません。バンドメンバーや関係者の方々の心情を思うと、胸が塞がれるような気持ちです。今はただ、b-flowerの音楽に出会えたこととその音楽からもらった感動について岡部さんに感謝するばかりです。岡部亘さんのご冥福をお祈りいたします。

THE YELLOW MONKEY SUPER メカラ ウロコ・27(ライブビューイング)(2016/12/28 シネマイクスピアリ)

ほぼ毎年武道館で見届けていたこの日のライブを、今年はライブビューイングで見た。
開演前の武道館の会場には、席に着くとスクリーンに映し出された武道館の会場には、デビッド・ボウイの“ジギー・スターダスト”が流れ、ステージ上ではパッヘルベルの“カノン”の弦楽奏が演奏され、ライブを前にした興奮以上に、得たいの知れない切なさが押し寄せてくる。「年の瀬」という時期も含めて、イエローモンキーの武道館公演というのは、来し方行く末に思いを馳せる時のような、何とも言えない透明な感情を呼び起こす。

1曲目の“MORALITY SLAVE”に始まって、続く“DRASTIC HOLIDAY”の演奏が始まった時点で、このライブはちょうど20年前のまさに今日武道館で行われた「メカラ ウロコ・7」を意識したというよりも、それをSUPERに進化させて再現するという意図のライブなのだと思った。バンド結成時からブレイク前の3rdアルバム『jugar harad pain』までの繊細で複雑な美意識と、それをファンに突き付けて問うという「試し行動」のような屈折した愛情に貫かれたコンセプト。本編の最後に「フリージアの少年」を持ってきたことにも、その思いが強く表れていた。そのせいか、吉井和哉の表情には、かつてのイエローモンキーの時にそうであったような、ロックスターらしい「底意地の悪さ」が感じられもして、「あぁ、そうだった、こういう表情で歌っていたんだった」と少し懐かしくなったりもした。それは「アーティスティックな復讐心」を秘めた表情だった。
武道館で観れなかったことは残念ではあったけれど、ライブビューイングで観たことで、とても印象的な吉井和哉の表情に涙がこみ上げてきた場面があった。
ひとつは“聖なる海とサンシャイン”。<人が海に戻ろうと流すのが涙なら抑えようないね/それじゃあ何を信じ合おうか>と歌った吉井和哉の表情は今にも泣き出しそうというよりもすでに泣き顔で、「愛を乞うひと」だと思った。そしてもう1つは“SUCK OF LIFE”の最後<YOUR LIFE>と歌い切った後の、勝ち誇ったようでいて今にも負け惜しみを口にしそうな、相反する感情を湛えた表情。こういう複雑な、けれど同時に心に刻まずにはいられない表情を見せるから、吉井和哉は「ずるい」と思う。けれど、その「ずるさ」こそがステージでは花として映えるのだということ。

今回のライブで個人的に一番良かったのは、中盤の“パンチドランカー”。演奏の前に「バンドにとってのチャンピオンベルトのような曲」と紹介された通り,無敵で圧倒的なロックンロールだった。この曲からライブの潮目が変わったと思えた。それまでの回顧的で復讐心を湛えた雰囲気が、挑戦的で闘争心を感じさせる雰囲気になった気がした。復讐と挑戦――どちらも、「ザ・イエローモンキーの歩み」というひとつのことの2つの側面であるけれど、個人的には、再集結後に「SUPER」となった今のイエローモンキーには、復讐よりも挑戦が、リベンジよりもチャレンジが似合う気がした。もうこのバンドは、「被害妄想」の似合わない地点にいるように思ったから。

ライブ後、「特報」として来年の東京ドーム公演が発表された。やはり、2001年の1月8日の東京ドームでの活動休止前のラストライブを思い出さざるを得ない。けれど、新たに臨む東京ドームでのライブは、2001年の東京ドームのリベンジでありつつも、新たなチャレンジであり、新しいイエローモンキーを生み出すライブになってほしいと思う。

THE YELOOW MONKEY セットリスト(2016/12/28)
MORALITY SLAVE
DRASTIC HOLIDAY
FAIRY LAND
SCOND CRY
FINE FINE FINE
VERMILION HANDS
聖なる海とサンシャイン
FOUR SEASONS
SHOCK HEARTS
RED LIGHT
セルリアの丘
パンチドランカー
SWEET&SWEET
太陽が燃えている
SUCK OF LIFE
FATHER
フリージアの少年


―encoe―
This Is For You
真珠色の革命時代(Pearl Light Of Revolution)
Subjective late show
砂の塔
おそそブギウギ〜アバンギャルドで行こうよ
悲しきASIAN BOY