劇団フライングステージ第44回公園『お茶と同情』(2018/08/11 下北沢OFF・OFFシアター)

同性パートナーシップ申請(宣誓)、レインボーパレード、一橋大学アウティング事件、国会議員による「LGBTは生産性がない」発言――近年の同性婚を扱った連作と同様に、あるいはそれ以上に「2018年の日本」を強く意識した物語。そして、さりげなく織り込まれた夏目漱石の『こころ』が伏線となって、物語に奥行きと余韻を与えていた。

1.眩しさと後ろ暗さ
母校の高校にやってきた教育実習生・藤原大地が全校生徒に向けた自己紹介の中で、自分はゲイであることを告げたいと言い出したことから始まる物語。「生徒に悪影響を与えるから」「教科書にLGBTは載っていない」などもっともらしい理由をつけて反対する教師達の意見は、正論を主張しているようでありながら防衛的で、何かに怯えているようでもあった。自分に嘘をつかず、自分らしく生きたいと主張するゲイの青年のまなざしはとても明るく眩しい。その明るさと眩しさは、人の心にある闇や影を白く照らし、人がその闇や影に隠している後ろ暗い秘密を暴いてしまうのかもしれない。「眩しくて目を背ける」ということもまた偏見や差別の土壌なのかもしれないと考えさせられた。教育実習生・藤原の生徒へのカミングアウトを頑なに拒む副校長・野崎憲一郎の大声は、自分と対立する他者の意見をかき消していると同時に、自分の内なる声(弱さや怯え)をかき消しているような、そんな気がした。
だから、ゲイであることを隠している40代の高校教師・浅野謙吾の「みんながカミングアウトしなくてもいいんじゃないか」「カミングアウトしない生き方もあるんじゃないか」という問いかけは、カミングアウト自体に対してというよりも、心の奥に容易には折り合いのつけられない想いを抱えて生きざるを得ない生き方を認めて欲しいという主張のようだった。
自分の生きる道を堂々と淀みなく主張する教育実習生・藤原と、自分の考えや生き方について口篭り、戸惑う高校教師・浅野との対比は、「世代」ということを考えた。


2.カミングアウトとアウティング
物語の重要なテーマの一つは「カミングアウト」であり「アウティング」だった。自分がゲイであることを他者に暴露されることを「アウティング」とするならば、酒場で養護教諭・池内知美が、校長室でレズビアンマザーの保護者・中野友里が「うっかり」と「てっきり」によって、高校教師・浅野がゲイであることを告げてしまう場面もまた「アウティング」として解釈可能だった。
物語の中では「守秘義務」「秘密」という言葉が幾度か登場した。明確な悪意によってというだけでなく、無邪気な興味や、思いやりによってさえも、秘密が秘密でなくなる瞬間があるということ。とはいえ、なし崩し的にカミングアウトせざるを得ない状況になった時に、むしろ腹をくくってゲイであることを明らかにする高校教師・浅野や、男子生徒・庄司拓実の姿に、「2018年の日本」が映し出されているようでもあった。


3.こころとこころとこころ
教育実習生・藤原が公開授業で取り上げたのは夏目漱石の『こころ』だった。原作の『こころ』の先生とKと僕、劇団フライングステージによる男性同士の恋愛物語として解釈した『新・こころ』の先生とKと僕、そしてこの物語での高校教師・浅野と亡くなった浅野の恋人・春日と教育実習生・藤原――3つの物語が入れ子になって物語の縦糸として、「2018年の日本」に留まらない普遍的なテーマを浮かび上がらせていた。
その中で、浅野が「分かるようになった」と語った『こころ』における「先生」の自死の理由に「あぁ、なるほど」と心の膝を打った。自分を「先生」と慕う若い世代に出会うことで、自分の中にある「とりかえしのつかない」何かと直面せざるを得なくなるという絶望。と同時に、そんな「先生」に対する若い世代(教育実習生・藤原)からの「死んじゃだめですよ」という言葉の率直さが希望でもあると思った。


4.打ち上げ花火
学校を舞台にしていることもあってか、今回のお芝居には、劇団フライングステージの物語にしばしば登場しかつ親密性を象徴する「食事」の場面はなかった(酒場での飲酒の場面はあったけれども)。その代わり、物語の最後は、主人公達が皆で隅田川で花火を見る場面だった。5年前に上演された『OUR TOWN わが町 新宿2丁目』の最後の場面を思い出した。
夜空に打ち上げられた花火を愛しい人と手を繋いで見上げるということ――そんなささやかな幸せの光景が、静かな祈りのように感じられたのは、思い出す限り生き続ける死者達もまたその夜空の上から花火を見下ろしているからなのだろうと思う。


付記
役者さんがどれもはまり役と思える存在であったのは言わずもがなとしても、個人的には木村佐都美さん演じるBLを愛する腐女子高校生・内藤彩花が強烈な存在感を放っていた。「尊みしかない!」と言い切る盲信・猛進ぶりが、愛おしかった。

http://flyingstage.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/44-tea-and-symp.html

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吉井和哉 15th Anniversary Tour 2018‐Let's Go Oh! Honey−(東京国際フォーラム 2018/06/23)

いいライブだった。「ソロアーティスト」としての、「独りの表現者」としての吉井和哉の音楽の魅力に出会い直し、見つめ直すような、そんな感慨深い瞬間の連続だった。

東京国際フォーラム吉井和哉のライブ見るのは3度目だった。それはいつも梅雨の紫陽花の季節だった。2011年7月1日のライブで‟球根”を歌う吉井和哉を見て「あぁ、この人には涙がいっぱい詰まっているんだなぁ」と吉井和哉に対して初めてそんなふうに思えたこと。2015年7月15日のライブで会場を間違えて開演20分前にNHKホールに到着して、渋谷から有楽町へ向かうタクシーの窓から見た柔らかにオレンジに染まった東京の街がきれいだったこと――そんなことを思い出しながら、会場を埋め尽くしたそれぞれのファンにもまた同じように「吉井和哉との思い出」があるということを想った。
セットリストは、先日リリースされたこの15年間のソロ活動のベストアルバム的なセットリストというよりも、「ソロアーティストとしての吉井和哉のベストとは何か」と問い直した上で、ファンともその問いを共有しようとしているかのようだった。それは「意外」でありながら「予想以上」「期待以上」のセットリストだった。アレンジを大きく変えたことでメロディの良さやオリジナリティがより際立った‟CALIFORNIAN RIDER”や‟母いすゞ”が印象に残りつつ、個人的に白眉だったのは‟血潮”と‟HEARTS”だった。
ライブ1曲目の‟シュレッダー”と本編ラストを飾った‟BLIEVE”を始め、本人のMC通り、吉井和哉のソロの楽曲には「別れの歌」が多い。‟血潮”と‟HEARTS”もまた「別れの歌」であるけれど、これらは同時に「旅立ちの歌」でもある。失ったものの悲しみの確かさと大きさに比べて、旅立ちの希望の不確かさに心が折れそうになるけれど、それでも歌の中の彼らは<さよなら いつも 怯えたいた私>(血潮)、<次の場所へ さよならごめん 迷わず飛べ>(HEARTS)となけなしの勇気と決意を滲ませる。その姿が「強さ」よりも「美しさ」を、「明るさ」よりも「切なさ」を感じさせるのは、その歌声のせいなのだと思う。

ライブ前半のMCで、吉井和哉は自分の歩みを振り返って「失敗しないと学べない人間で、失敗しても学ばない人間で…たくさんの人にご迷惑をおかけしました」と頭を下げて謝った。ライブでアーティストに謝られるのは初めてだった。でもそれが「吉井和哉らしい」とも思った。その言葉は本心なのだろうと思う。けれどその言葉は、ファンに許しを乞うためのものというよりも、それを口にすること自体が今の吉井和哉にとって必然なのだろうと思った。ライブの終盤、またソロアルバムを作ろうとしていること、一から始めるような気持であるということを言っていたこととも重なって、ふと「棚卸し」「埋め合わせ」という言葉が思い浮かんだ。

ライブ中、吉井和哉はザ・イエローモンキーのことを「あの大型バンド」と言っていた。バンド名を素直に言わないところに、吉井和哉のイエローモンキーに対する「意識」があるのだと思った。そして、セットリストが進むにつれ、今後吉井和哉のソロライブではイエローモンキーの曲を演奏することはないのかもしれないということに気付いた。昨年12月の圧巻だったザ・イエローモンキーの東京ドーム公演を思い出しながら、イエローモンキーのライブがより「SHOW(ショー)」であり「エンターテイメント」だとしたら、吉井和哉のソロライブはより「LIVE(ライブ)」であり文字通り「人生そのもの」であるというような対照と、それがこれからの吉井和哉の活動の両輪になっていくというイメージが浮かんだ。それらは互いに映し出し合いながら、それぞれの存在感を際立たせていくのかもしれないと思った。

アンコールのラスト、ライブの最後を飾ったのは、新曲の‟Island”。曲に込めた思いはおろか、それが新曲であることもさえも告げずに歌い始めた姿に、この曲に対する吉井和哉の自信と思い入れを感じた。ワンコーラス目が終わったところで自然と拍手が湧き起こったのは、その歌がその自信と思い入れ以上のものを客席に届けていたからだと思う。ステージの後ろのスクリーンには、曲想に沿った美しい映像とともに歌詞の断片が映し出されて、その文字がそのまま心に刺さってくるようだった。そして、<迷子になった大人>としての葛藤や絶望を歌いながらも、それらに呑み込まれることなく確かな言葉とメロディを掴む吉井和哉表現者としての握力を改めて感じた。CDでは儚げな祈りのように聞こえたその歌は、ライブでは、失ったことや間違ったことの後悔と失うことや間違うことの予感を背負いつつも前に進むことをあきらめないという力強い宣言のようにも聞こえた。

また、ひとつ「吉井和哉との思い出」が増えたと思えたライブだった。

吉井和哉セットリスト(2018/06/24)
シュレッダー
Do The Flipping
WEEKENDER
CALIFORNIAN RIDER
ヘヴンリー
CALL ME
いすゞ
HATE
クランベリー
点描のしくみ
LOVE & PEACE
血潮
ONE DAY
(Everybody is)Like a Starlight
BELIEVE


―encore―
BEAUTIFUL
ルビー
VS
ビルマニア
WINNER
HEARTS
Island

『SOUNDTRACK〜Beginning & the End〜』

吉井和哉のソロデビュー15周年に合わせてリリースされた、2015年のソロライブ音源と新曲からなるベストアルバム的1枚。
アルバムジャケットの吉井和哉の表情は、何と形容したらいいのだろうかと迷った。
遠くを見ているようで目の前の誰かを凝視しているような、何か重大な告白をしかけているようで沈黙を貫いているような――そのアンヴィバレンツな表情こそが15年を経て吉井和哉が辿り着いた境地であり、メッセージなのだということ。寂しそうなその表情は、寂しさを隠さないという意味で強さもまた湛えていると思った。
新曲の“Island”は、アルバムタイトルの『SOUDTRACK』に呼応するかのように、まるでこの曲自体が映画のエンドロールであるようだ。一つの物語の終わりに際して感じる安堵と寂寥と感傷に満ちたこの曲は、これまでの吉井和哉のどの曲にも似ていない。けれど同時に、これまでの吉井和哉の歩みがあってこその、吉井和哉にしか歌えない曲でもあると思った。この曲は吉井和哉のキャリアの一つの区切りを示す重要な曲になるという予感がした。
この曲はアルバムの1曲目を飾る、<行かなきゃ 僕はいつか行かなきゃ/やるべきことの続きに>と歌う“MY FOOLOSH HEART”のアンサーソングのようでもある。けれど、ギターとともに穏やかに歌い出される“Island”が描くのは、今もなおたどり着く場所を探し続けているという告白であり、いつかたどり着けますようにという祈りだった。
血まみれの女神達よ聴いてください/この嘘みたいな現実を生き抜くための歌を>や<カラダのど真ん中に十字架突き刺して/夜空に天使呼びたいんです/あの宗教画みたいに>という、自分を超えた見えざる力に臆面もなく願いを訴える歌詞は、「Island(島)」という言葉とともに、吉井和哉のこれまでの詩作にはないもので、とても強い印象を残す。
長い時間がかかっても一歩一歩歩み続ければいつかたどり着く地続きの場所ではなく、海と空を超えなくては辿り着けない「島」に想いをはせるということ。この境地に、華やかなロックスターやベテランアーティストとしてではない、50代を迎えた一人の人間としての吉井和哉の葛藤と覚悟を感じた。それはちょうどアルバムジャケットのあの表情にも重なるものでもある。
だから、この曲は、心のとても深い場所で歌われていて、聞き手の心のとても深い場所に届く歌になっている。

願いは風の中 祈りは空 海へ
涙は砂に溶け 光が乾かして
心が疲れたら 歌でも歌いながら
あの日蒔いた種が育った
名前のない島へ行こう
(Island)

またひとつ、心を抉り心を支える曲に出会えたことに、吉井和哉に感謝したいと思う。

THE YELLOW MONKEY SUPER BIG EGG 2017(2017/12/09・10 東京ドーム)

素晴らしいライブだった。
この「素晴らしい」という言葉が、これまでのイエローモンキーのライブと同じ基準によるものではなく、その基準自体が更新されたような感覚があったという意味で「素晴らしい」ライブだった。2001年1月以来、活動休止、解散そして再集結を経た「約17年ぶり」という感傷や感慨以上に、驚きと新しい感動があった。
再集結後のアリーナツアー、そして今回の東京ドーム2daysのライブ名に「SUPER」という言葉を付していることの意味がすとんと腑に落ちるライブだった。「ザ・イエローモンキーで、ザ・イエローモンキーを超えていく」という覚悟と手応えを感じたライブだった。

ドーム中央の花道の真ん中の卵がパンっとはじけて現れた4人が演奏した“WELLCOME TO MY DOGHOUSE”。たった4人のシンプルな演奏にもかかわらず5万人を惹きつけるに十分な存在感だったことがまず驚きでもあり感激だった。その後の、花道からステージに移動した後の“嘆くなり我が夜のFantasy”や“I LOVE YOU BABY”なども、原曲そのままのストレートな演奏がすっかりスタジアムライブの演奏になっていた。
もちろん、曲ごとに計算され作り込まれた照明や効果プロジェクションマッピングなどの効果は絶大だった。けれど、そうした舞台演出のテクノロジーがあれば「東京ドームのライブ」として成立するわけではないのだということ。それを手段にして実現したいライブ像(ビジョン)とそれを実現するための力(パワー)がなければ、それは成立し得ないのだということ。2001年1月のイエローモンキーの東京ドームのライブにはなかったビジョンとパワーが今回のライブにはあった。
「東京ドームでライブをすること」と「東京ドームに見合うライブをすること」という2つがあるとしたら、今回のライブは完全に後者にだった。バンド自身がそれを意識してライブ望んでいることが、セットリスト、演奏、演出のすべてから感じられるライブだった。さらに言えば、1日目は中盤までどこか硬さのあった吉井和哉のパフォーマンスが、2日目にはライブ冒頭のMCでの「(東京ドーム)の勝手がわかってきた」という言葉通り、ライブの始めから東京ドームでのライブに対する自由奔放さと自信を感じさせるものにさえなっていた。

だから、今回のライブでは、演奏がスタジアムライブ級にスケールアップしたというだけでなく、スタジアムライブで演奏されることで曲自体がその趣を変えたと思える曲もいくつかあった。前半のハイライトとなった“天国旅行”から“真珠色の革命時代 (Pearl Light Of Revolution)”。曲の世界観に忠実にかつ迫力をもって突きつけたような“天国旅行”の後、ステージを覆っていた砂嵐を映し出す幕が上がり、美しい弦楽奏ともに現れた満点の星空に切り替わった“真珠色の革命時代”。それは、ガラス細工のように繊細なグラムロックの美意識を内包しつつも、朝日から夕日までを映す大海原の映像が示唆していたようによりスケールの大きな名曲に変質しているような感覚を覚えた。
ライブで何度も聞いていた曲が趣を変え、今までとは違うライブの体験となったのは、本編の「第2部」とも言える中盤の演出過剰とも思える“太陽が燃えている”から“LOVELOVESHOW”の流れだった。これらの曲の見せ方(魅せ方)に、「東京ドームでのイエローモンキー」がどうあるべきか、ということに対するバンドとしての一つの答えがあったような気がした。
特に、メンバーを映すスクリーンに重なる炎の映像が激しすぎて笑わざるを得ない“太陽が燃えている”とともに、「演出が強すぎて歌が入ってこない(笑)」というこれまでにないライブ体験になった“LOVE LOVE SHOW”が強烈だった。イントロと同時にステージの左右に開脚した赤いハイヒールの女性の脚が膨れ上がり、「世界のおねえさん」として何十人もの外国人モデルが花道に登場した“LOVE LOVE SHOW”は、まるでローリング・ストーンズのスタジアムライブでの“Honky Tonk Woman”のようだった。それは、ロックバンドのスタジアムライブにおけるエンターテイメント性とイエローモンキーらしさの融合への挑戦を感じさせた。
と同時に、「美女を侍らせて歌う」という同じシチュエーションであっても、ミック・ジャガーとは対照的にどこか女性に遠慮がちで女性に弄ばれている佇まいになるところが、吉井和哉のロックスターとしての独特の存在感だと思った。外国人モデルがマネキンのように微動だにせず、曲のアウトロとともにビジネスライクに花道を降りていく姿(と、彼女達に取り残される吉井和哉)まで計算しての演出だったとすれば、やはり吉井和哉は「ロックスター吉井和哉」のことをとてもよく分かっているのだと思う。

1日目も2日も“JAM”の前のMCで、来年には新しいアルバムのレコーディングを開始すると言った。それがこのバンドを再集結した「最大のミッション」だという言葉を聞いて、とても嬉しい気持ちになった。同時に新作の制作を「夢」ではなく「使命(ミッション)」という言葉で表すことの意味を考えた。例えばこのライブで“砂の塔”と“BURN”が続けて歌われた時、印象に残ったのは“砂の塔”の方だったというように、再終結後に発表した新曲がライブでも大きな存在感を見せていたことを思うと、新しいアルバムには大きな期待を感じた。
そして、その後に歌われた“JAM”は、強く胸に響いた。聞きながら、2001年1月と2004年12月に同じこの会場で同じ曲を聞いたことを思い出していた。それは苦くせつない経験だったけれど、それさえも今この瞬間につながる必然のように思えた。吉井和哉、そしてザ・イエローモンキーに感謝したいと思った。

2日目のライブの終盤で“SO YOUNG”を歌う吉井和哉の声は何度か上ずっていた。けれど、それは気にならなかった。スクリーンに映る吉井和哉の目に涙が光っているように感じたから。この曲の中では、<あの日僕らが信じたもの/それはまぼろしじゃない>と歌われる。約17年前のあの日信じてはいたけれど実現できなかったもの、そして約17年前のあの日には想像さえできなかった未来が、今回の東京ドームのライブにはあった。
本当に素晴らしいライブだった。

THE YELLOW MONKEYセットリスト(2017/12/09・10)
WELCOME TO MY DOGHOUSE
パール
ロザーナ
嘆くなり我が夜の Fantasy
I Love You Baby(12/09)
TVのシンガー(12/10)
サイキックNo.9
SPARK
天国旅行
真珠色の革命時代〜Pearl Light Of Revolution〜
Stars
SUCK OF LIFE
バラ色の日々
太陽が燃えている
ROCK STAR
MY WINDING ROAD
LOVE LOVE SHOW
プライマル。
ALRIGHT
JAM
SO YOUNG
砂の塔
BURN
悲しきASIAN BOY

劇団フライングステージ第43回公演『LIFE,LIVE ライフ、ライブ』(2017/11/12 下北沢offoffシアター)

渋谷区と世田谷区で始まり、全国の複数の自治体にも広がっている同性パートナーシップ申請(宣誓)をめぐる、3部作の3作目。2015年上演の1作目『Firiend,Freiends 友達、ともだち』、2016年上演の2作目『Family,Familiar 家族、かぞく』に共通する登場人物達のその後を描いた本作は、友達、恋人、夫婦、親子、そしてそのどれにもあてはまらない関係も含めた様々な「つながり」のあり方について、「問いと答え」を同時に喚起していた。観終わった後、せつないけれど温かい気持ちになったのは、登場人物達が皆時に揺れながら、時に迷いながらも、それでも誰かとつながろうとするその気持ちには正直であろうとしていたからなのかもしれない。


1.紙一枚の重さ
主人公が「ゲイの行政書士」であるから当然とは言え、劇中ではさまざまな書類の名前が登場した。同性パートナーシップ申請、住民票、遺言状…。「紙切れ1枚」と言えばそれまでだが、その1枚に縛られたり、支えられたりする人間模様はセクシャルマイノリティであるかどうかに関わらず、誰の人生にも訪れるさまざまな岐路を浮かび上がらせていた。こだわりすぎるのは滑稽だが、軽んじるには重い――恋人や家族との関係で葛藤しつつも、屈託のない明るさとともに粛々と仕事を進める主人公の佇まいは、「うまく生きること」の絶妙なバランス感覚を体現しているようでもあった。
会社のホームぺージに「ゲイの行政書士」と書かれたことで、なし崩し的にカミングアウトすることになっても、それが物語の「山場」ではなく「きっかけ」に位置づいている点に、時代の流れとも言うべき、セクシャルマイノリティと彼らを取り巻く世間の変化を感じた。


2.親の横顔
物語の後半、ゲイの息子を持つ二人の母親(ミーちゃん、ケイちゃん)の存在が物語をより多面的にしていた。この一連の3部作では親の横顔や心情が、主人公のゲイ達以上に奥行を持って描かれていると感じる。
息子が「ゲイの行政書士」であること(と、それを知らされていなかったこと)に動揺する母親(ミーちゃん)と、ゲイの息子を自死で失った母親(ケイちゃん)が結託して一芝居打って「ゲイの行政書士」の息子の本音を引き出す場面は、官公庁に提出する書類や権利義務・事実証明の書類では扱えない、不確かだけれど最も必要な「つながり」を描き出していた。「母親の面倒を見る」という息子の言葉を母親はちゃっかり録音していたというのが、この場面のオチだったけれども、個人的には録音はしなくても良かったんじゃないかと思った。書類も音声記録もなく、何も証明するものがないとしてもそれを信じればいいんじゃないかと思ったから。


3.他人のため/自分のため
セクシャルマイノリティを含めて人を孤立させないためのNPO法人(その名も「ノット・アローン」)や彼らが運営する子ども食堂、ゲイのカップルが被虐待児を養子に迎える養育里親など、同性パートナーシップ申請(宣誓)以外にも、この物語には新しい「つながり」のあり方がいくつも登場していた。「誰かとつながりたい」という至極プライベートで利己的な欲求が、「誰かのためになる」という公共の福祉を通して実現されるということ。
思えば物語の中で、主人公は何度も「自分のためより他人のため(他人のためより自分のため)」という言葉を発していた。「自分のため」と「他人のため」。利己と利他――この2つのベクトルが交差するところに、新しい家族の形のあり方が模索されているところがとても示唆的だと思った。そして、それはちょうど、劇場で配布されたパンフレットの中の、劇団の主宰者である関根信一さんのこんな言葉に重なった。

フライングステージを続けてきた理由、実は僕にはとても個人的なものがあります。それは演劇を始めた若い頃、そういう劇団があってほしいと思ったからです。「自分はゲイじゃない」と言いながら海外のゲイプレイに出演する俳優さんたち、そうではなくて、「あ、僕はゲイですけど何か?」と言えるようなカンパニー。その上でいろいろな作品を作りだしていくことができたら。

「そういう劇団があってほしいから」(※)という個人的な理由に根差しながらも、根差しているからこそ、劇団フライングステージのお芝居は、それを超えて「誰かのため」にも届くのだと思う。
劇団フライングステージは今年で25周年を迎えた。後世に「日本のセクシャルマイノリティ史」ということが論じられるとき、この劇団の存在意義と影響について誰かが言及するのだろう。だとしたら、その時に、この劇団の発端が「そういう劇団があってほしいと思ったからです」という個人的な理由であることがしっかりと記されてほしいと思う。その理由はとても素敵なことで、とても勇気のあることだと思うから。


※今から15年前、劇団フライングステージが10周年を迎えた際の、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭の公式サイトでのインタビューでも、関根さんは同様のことを語ってた。
http://rainbowreeltokyo.com/2002/2002_03/07_fs01.html

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『オトトキ DOCUMENTARY of THE YELLOW MONKEY』(2017/11/11)

公開初日に銀座の映画館で観た。同じバンドのドキュメンタリー映画ではあっても、2013年に公開された『パンドラ ザ・イエローモンキー PUNCH DRUNKERD TOUR THE MOVIE』とは異なる感触と印象を残す映画だった。
2016年に「再集結」したザ・イエローモンキーの1年間を追ったドキュメンタリー映画。復活のアリーナツアー「SUPRER JAPAN TOUR 2016」からホールツアーの「SUBJECTIVE LATE SHOW」、年末の「メカラウロコ・27」、「COUNT DOWN JAPAN2016-2017」まで、ライブとリハーサルや楽屋での様子、メンバーと関係者のインタビューで構成されたこの映画が映し出していたもの、それは「家族」と「仕事」だった。どちらの言葉もロックバンドのドキュメンタリー映画のモチーフらしくないようでありながらも、この映画が意識的にも無意識的にも一貫して浮かび上がらせていたのは、「家族としてのロックバンド(ロックバンドという家族)」「仕事としてのロックバンド(ロックバンドという仕事)」だった。
だから、この映画は、ザ・イエローモンキーというバンドの世界観とは裏腹に「エロス」をほとんど感じさせない。その点に多少の物足りなさを感じないわけではなかった。けれど、この映画の中にあったバンドの現在地が、長い時をかけて、さまざまな季節を潜り抜けてたどり着いたものであることを思い、そして、その時間にはファンとしての自分自身の時間も重なっていたことを思ったとき、安堵と郷愁が入り混じったような気持ちになった。

アリーナツアーの終盤、2016年の7月にエマとアニーの父が永眠するという状況に直面しても、ツアーを続行しライブに臨み、そしてやり遂げるバンドの姿は、ステージの上に立つという「仕事」の宿命を示していた。と同時に、ステージ上がる直前にアニー、エマ、そして吉井和哉をハグするヒーセの姿は「家族としてのロックバンド」の救いを示してもいた。映画の中で吉井和哉自身の言葉で語られていたように、「兄弟」=「家族」という喩えに何ら違和感のないメンバーの関係性がそこにはあった。そして、その構図は、2016年の大晦日紅白歌合戦への出演を果たした直後の「COUNT DOWN JAPAN 2016-2017」のステージで突如声が出なくなった吉井和哉と、彼を囲むメンバーやスタッフの姿にも見て取れた。
また、横浜アリーナでの「YOKOHAMA SPECIAL」のライブで、熱狂する観客の渦に呑み込まれるように“SPARK”を歌った吉井和哉が、リハーサルで客席の間をどこまで進めるかを柵の位置とともに確認していた姿は、興奮や衝動以上に準備と計算を感じさせるものだった。しかし、だからといってあのライブの感動が薄れるわけでも嘘になるわけでもなかった。吉井和哉のその姿は、ファンの期待と自分に課された役割を、求められる以上に成し遂げようとするロックスターの自覚と意志を感じさせるものだった。
そんなふうにして、「家族」と「仕事」を縦糸と横糸にして編まれる物語は、ロックバンドの興奮や華やかさよりも、イエローモンキーとして生きる彼らの冷静さと真摯さを強く印象づけるものだった。

だから、バンドにとっての母胎といえる渋谷ラ・ママでの観客のいない4人だけのライブは、観客がいないがゆえに「仕事」に徹しきれず、メンバー同士が楽屋で見せ合う「家族」のような表情を垣間見せる不思議な空気に包まれていた。次は観客を入れて演りたいという吉井和哉の言葉も含めて、彼らにとってのライブの本質が「show(ショー)」なのだということを再確認した気がした。と同時に、渋谷ラ・ママで演奏していた頃から「変わったもの」が当然あるにしても、ロックバンドとしての「変わらないもの」を今でもイエローモンキーが持ち続けていることも感じられた気がした。

個人的には、ライブ演奏をもっと長く観たかった曲(“Farther”など)が何曲もあったこと、12月の東京ドームのライブへと連なるメンバーの想いも聞きたかったことなど、いくつか思うところもあった。でも、やっぱり、観て良かったと思った。約17年ぶりとなる東京ドームのライブで、ザ・イエローモンキーがどんな表情でどんなふうにステージに立つのか、楽しみになった。

ザ・イエローモンキー『THE YELLOW MONKEY IS HERE.NEW BEST』

2013年にリリースされたファン投票によるベストアルバム『イエモン―FAN'S BEST SELECTION―』の収録曲を、再集結したザ・イエローモンキーが新たにレコーディングし直したベストアルルバム『THE YELLOW IS HERE』。タイトル通り、イエローモンキーが現在進行形としてのロックバンドであることを、「イエローモンキーここに在り」ということを証明したアルバムになっている。リリースを知った当初は、正直に言うと、過去のベストアルバムを新たに録音し直すということの意味を掴みあぐねる感じがあった。けれど、このアルバムを一聴して、このアルバムの意味がすとんと胸に落ちた。
このアルバムを聞くと、ザ・イエローモンキーが、「ザ・イエローモンキー」の最も熱烈なファンであり、最も厳しい批評家であるということが伝わってくる。その深い愛情と鋭い批評性によって「名曲」を単なる名曲ではなく、2017年の現在に活動するバンドの「今の曲」にしているところに、このアルバムの意味があるのだと思う。「懐かしさ」や「感傷」を押しのけて、新しい「興奮」や「感動」が胸を満たしていくところに、このアルバムの意味がある。

再集結後のツアータイトルに掲げられていた「SUPER」の言葉通り、長いキャリアを経てビルドアップして研ぎ澄まされた歌唱力と演奏力によって、どの曲もその魅力と説得力を増している。特に吉井和哉の歌唱力は、2004年の解散前に比べて段違いの安定感と表現力を増している。“JAM”の、力強いようでありながら幼さゆえの純粋さと怯えさえも湛えた歌声は、曲中のあの少年に出会い直したような感動を呼び起こす。
“悲しきASIAN BOY”や“パール”“楽園”“JAM”などの、ほぼ原曲のアレンジ通りにストレートなバンドの演奏を聞かせる曲は、バンドによる楽曲への深い敬意ともに、「ロックバンド」としてのイエローモンキーの逞しさと色気を改めて感じさせる。その一方で、“太陽が燃えている”や“追憶のマーメイド”などの、ストリングスやホーンセクションを豪華に取り入れた曲は、そのアーティスティックな復讐心(特に“追憶のマーメイド”)にニヤリとさせられるとともに、歌謡曲的なキャッチ―さを持ちながらもあくまでエレガントであるところにこのバンドの奥行があるのだと気づかされる。

特に印象的だったのは、“真珠色の革命時代―PERAL LIGHT OF REVOLUTION―”。繊細なストリングスの、細い光の糸が暗闇にすうっと線を引くように始まるイントロを聞いただけで、この曲をこのバンドがどれほど大切にしているかが伝わってくる。サビで繰り返される「Sally, I love you」のフレーズを聞いて、この曲が収められたデビューアルバム『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE(夜行性のかたつむり達とプラスチックのブギー)』がリリースされた15年後、フジロックフェスティバルでの挫折に傷付いた吉井和哉の心を癒したであろうOASISの“Don't Look Back In Anger”でも「Sally」という名前が歌われている(So Sally can't wait〜)ことを思い、不思議な「縁」を感じた。ライブでの、メカラウロコ楽団が奏でる美しいストリングスのアウトロとは対照的な、高揚感がピークに達したところであっけなく幕切れを迎える曲の終わり方が、心の中に言いようもない感傷と感動をかき立てる―余韻は心の中に。

そして、イエローモンキーのバンドヒストリーだけでなく日本のロック史上の名盤でもある『SICKS』の収録曲である“天国旅行”と“花吹雪”。このアルバムでこの2曲を聞いて抱いた感想は、対照的であるようでいて実は同じことを言っている感想だった。“天国旅行”を聞いて「あの『SICKS』の演奏を超える演奏があったのか」と思った。“花吹雪”を聞いて「この演奏を持ってしても『SICKS』のあのテイクは超えられないなんて…」と思った――どちらにしても『SICKS』はやはり奇跡的なアルバムであり、その「奇跡」に比肩しているという点に再集結したイエローモンキーの凄さがあるということ。言い方を変えるならば、『SICKS』の楽曲を新たにレコーディングして原曲に負けないだけの自信と気概があるからこそ、このバンドは再集結したのだということ。

それにしても…と思う。かつて、このバンドが、その後四半世紀を経てもなお新たにレコーディングする価値のある楽曲を生み出し、そしてそれをかつて以上の力強さと美しさで演奏しているということに、驚きと尊敬を感じずにはいられない。
感謝と尊敬と、そして、期待を込めて、12月の東京ドームのライブを待ちたいと思う。