劇団フライングステージ 第40回公演『Friend, Friends 友達、友達』(2015/11/01 下北沢OFF・OFFシアター)

この『Firiend, Friends 友達、友達』には、これまで私が観てきた劇団フライングステージのお芝居には登場しなかった人達が何人も登場した。それは新鮮な驚きであるだけでなく、舞台の上に浮かび上がった彼らと彼らが相対する人達との対比が、2015年の日本におけるセクシャルマイノリティや結婚、家族をめぐるさまざまな問いにもなっていた。


1.父親
劇団フライングステージのお芝居で「父親」を見たのは初めてだった。しかも、それは動かざる岩のような、揺るぎない壁のような父親で、とても驚いた。と同時に、そんな父親とそんな父親が象徴する世間に向き合える強さを、フライングステージのお芝居に登場するゲイの青年はいつの間にか身に付けていたのだと、感慨深い気持ちにもなった。
その強さは「逞しさ」というよりは「しなやかさ」を感じさせ、「社会正義」というよりは「プライベートな欲求」を志向するような佇まいだった。ぺろっと舌を出すように「ゲイである」ことをカミングアウトし、無理解な父親の言葉にぷいっと家を飛び出す主人公の雅人の姿(とはいえ、その後もゲイの恋人や友人を連れて実家を出たり入ったりする姿)は、息子のカミングアウトに狼狽する父親の姿とは対照的だった。
セクシャルマイノリティが声を上げるとき、うろたえるのは、変化を迫られるのは父親であり、世間の方なのだということ――劇の冒頭のカミングアウトの場面は、この物語のモチーフになっている同性間のパートナシップ証明書が現実となった2015年の日本の変化を象徴しているように感じた。


2.ホームレス
物語は、日本で初となる同性カップルの結婚に相当する関係を認める、渋谷区の「同性パートナーシップ条例」をひとつの軸として展開していた。この条例をタテに不動産屋と交渉する主人公の雅人とその恋人の尚之とは対照的に、パートナーと死別したことでホームレスになった二郎は、同じ渋谷区の宮下公園でホームレス締め出しという区の施策に直面する。
パートナシップ証明書の発行をモチーフとするならば、物語の舞台は世田谷区でも良かったのかもしれない。けれど、世田谷区ではなく渋谷区を物語の舞台に選んだ背景には、作・演出の関根さんの明確な意図があるのだと思った。同じ行政区における、セクシャルマイノリティに対する進歩的な取り組みとホームレスに対する不寛容な取り組みの対比は、社会的少数者(マイノリティ)における、可視化され受け入れられる者と不可視化される排除される者との「分断」を浮かび上がらせていた。
このお芝居の後に観た、同劇団によるカリフォルニア州での同性婚を禁止とする住民投票を覆す法廷を描いたドラマリーディング『8』では、結婚、パートナーシップは誰に対しても平等に与えられるべき権利として主張されていた。けれど、その権利の「揺るぎなさ」の手前で、住居と仕事、せめて携帯電話の使用料を払い続けられるだけの経済力もままならない存在の「脆さ」もまた確実に存在するということ。そして、その「脆さ」を引き起こす貧困や格差は、パートナーシップ証明書に象徴される「多様性(ダイバーシティ)」の実現とどう切り結ぶのだろうか、と考えさせられた。問いは重い。
また、ホームレスの二郎が、雅人や尚之との同居を持ちかけられても何度も断るその姿に、ふと、ホームレスというのは「持っていない人」なのではなく「受け取れない人」なのかもしれないと思った。個人的には二郎の「受け取れなさ」の背後にある、パートナー失った喪失感や、パートナーであることを主張できなかった自己否定感のようなものを、もう少し物語の中で展開してほしいと思った。そんな気持ちもあって、二郎が、亡くなった恋人耕司の霊と(霊感のあるレズビアンの友理を介して)会話する場面は、今回のお芝居の中で一番心に残った。優しい場面だった。


3.レズビアンカップ
物語の後半、パートナーシップ証明書に関して雅人と尚之の相談相手となった、子持ちのレズビアンカップル友里と英子の存在は、パートナーシップや結婚が意味するものの幅を広げていた。
「永遠の愛の証し」としてパートナーシップを結ぼうとするゲイのカップルと、子育てなどの「実利的な必要性」による手段としてそれを選択したレズビアンカップルの共存は、ロマンチック・ラブだけでは語り得ない「結婚という制度」の意味を問いかけているように感じた。ゲイのカップルの2人がチェックのシャツをペアルックのように着て並んでいる隣で、レズビアンカップルの2人が全く異なるテイストの服を着ていた(1人はヒッピーっぽいフォークロア調、もう1人はタートルにパーカー、ジーンズ姿)ところが、2組のカップルの結婚に対する考え方を端的に象徴しているようでもあった。
そして、物語に登場する4組のカップル(ゲイのカップル2組、レズビアンカップル1組、ヘテロセクシャルカップル1組)全てが登場したラストシーン。プロポーズであることは同じでも、そこには4組それぞれに違ったプロポーズ、そして「幸せ」があった。「幸せ」であることは同じでも「それぞれに違う幸せ」があるということ。幸せの色や形を縛らないことが、幸せの一つの本質なのかもしれない、と思った。


付記
役者さんの中では、父親役の若林正さんの存在感は言わずもがなとして、耕司役の中嶌聡さんが印象的だった。亡くなった人というのはあんなふうにさりげなく飄々と見守っていてくれるのかもしれないと思った。だから、個人的には、物語の終盤、亡くなった耕司の17歳の甥っ子(ゲイ)が、耕司のパートナーだった二郎と一緒に住むというくだりは、無くてもよかったかな…と思う。愛する人とかつて一緒に住んでいた家で、できれば「2人きりで」ゆっくりと「喪の作業(mourning work)」をさせてあげたいと思った。愛する人を思いながら生活することは、孤独ではないのだから。



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