忌野清志郎 『ネズミに捧ぐ詩』

死後新たに見つかった、30代後半の清志郎が綴ったノートから成るこの本を読んで、清志郎に再会したと同時に初めて出会ったような、そんな気持ちになった。
読み始めてほんの数ページで、20代の清志郎が綴ったノートから成る『十年ゴム消し』から受けた印象とほどんと変わらないことに気が付いて、少し可笑しくなった。「あぁ、清志郎はやっぱり清志郎だなぁ(笑)」と思った。もし仮に彼が最晩年に綴ったノートがあって、それを読んだとしても、きっと清志郎に対する印象は変わらない気がする。不遇な売れないバンドマンであれ、稀代のロックスターであれ、清志郎は生涯「変わらない人」だったと思う。けれど、この本にはそんな清志郎の「変わらなさ」が孕んだある大きな変化も記されていた。

本の帯には「詩と日記による私小説」とある。私小説を意図して書かずとも、自分の想いをその想いのままに言葉にするだけでそこに自然と「文学」が立ち上がるところが清志郎なのだということ。「選ばれし者」の自意識で不遜に振る舞いつつ愛する人に無邪気に甘え、法律や道徳に憤りつつ飄々と折り合いをつけるその姿は、時に太宰治私小説の主人公のようであり、時にアラン・シリトーの悪漢小説の主人公のようでもある。
印象的だったのは、そして思わず笑ってしまったのは、「遺産」という日記のなかの、父親の遺品を整理して貯金通帳を見つけ、税理士に相続税が1000万だと知らされた後のくだり。

 その税金で、奴らはいったいったい何をするんだろう?
 原子力発電所でもぶったてるんだぜ。知らないうちに。
 ジェット戦闘機を仕入れたりな。冗談じゃねえよな。病院も足りねえっていうのにさ。国民に順番にポルシェを買ってあげればいいのに。そうすりゃみんな運転がうまくなって事故も減るのにな。
 親から子に受けつがれるささやな財産にどうして税金を払うんだろう? ぼく、とっても不思議だな……。親父はそれを望んでいたのかな? 1000万円分のマリファナを吸ってみたいなー。
 1000万あれば、ずっとロンドンで暮らせるのに。
 まあ、しょうがねえさ。俺にはよくわからない仕組みがあるんだろ。そして、それは法律で決められていて、法律違反は交通違反みたいに、バツを受けるんだろ。イモなポリ公が俺をとっ捕まえに来るんだろ。親父はそれを望まないさ。おふくろは、俺を犯罪者にはしたくなかったはずさ。
 いいってことよ。気にすんなよ。俺たち国民は太っ腹だぜ。えらくはねえけど、えらい人達のお役に立つのさ。はははは……。
 (ダツ税したい。いつか、きっとしてやる……)

「税金」「原子力発電所」「ジェット戦闘機」に対する反発を、「ポルシェ」や「マリファナ」と同列に語るところが「いかにも清志郎」という感じがする(「脱税」を「ダツ税」と書くところも)。体制や権威に従うフリをして隠れて舌を出すその姿は「反権力」「反体制」的でありつつも、「正義」を笠に着たり「被害者意識」に訴えたりすることがない。その幼きエゴイズムを貫く姿はどこか颯爽としていて軽やかでさえある。
この本に収められたノートとほぼ時期を同じくして製作された『COVERS』も、きっとそんな清志郎流の「幼き政治意識」によるものだったと感じる。『COVERS』はもっと純粋に「痛快な」作品とし聞かれるべきだったのだということ。政治的な立場の違い問わず、その痛快さを面白がる以上に「反戦」や「反原発」というモチーフの深刻さによって受け止められたことは、清志郎にとっては予期せぬ誤算だったかもしれない。

そして、この本のハイライトはやはり、父親の死後に親戚のおばさんから「生みの母」である実母の存在を知らされた清志郎の変化。その名もまさに「HAPPY」という詩で、清志郎はこんなふうに書いている。

ああ、何ていう気持ちなんだろう!
初めて恋人に会ったような気持ち
そう、初めて恋人ができたような気持ち
いや、それとはちょっと違うかな?
でも、恋人の写真みたい
なんだか、そんな気持ち
今まで見たどんな写真より、いい写真

37年近く生きてきて
とにかく初めての気持ちなんだ
とっても幸福な気持ち
だけど、涙がどんどん出てきちゃうのさ
気がつくと、ぼくの目に涙があふれてる
涙が流れ落ちるんだ
その可愛い顔が見えなくなっちゃうんだ
とても不思議だ。初めてだよ、こんなの
世界で一番可愛い顔なんだ

この詩に綴られている、実母に出会った清志郎の心情は、まるで聖母に出会ったキリスト者のようだ。そして、その喩えはあながち大袈裟でも間違ってもいない気がする。

実母の写真をポケットの写真に入れて持ち歩き、ツアー初日の暗い客席にちらつく彼女の笑顔に心を奪われ、実母の存在を周囲に話すことに難しさを感じつつも「だが、俺はみんなに言いたいんだ。世界中にこの幸せを見せてあげたいんだ。そして、世界が平和になればいい」(大阪Days)と言う――そんな清志郎の姿は、ある日突然信仰に目覚めた人のようだ。実母の存在を知った後「いけない事だと気づいたんだよ」、「何が大切かってことが初めてわかった僕なのさ」(女たち)と、ツアー先の女性達との関係を清算しようとする清志郎は、まるで信仰のために悪行を悔い改める人のようだ。
清志郎は「無宗教」だった。けれど、清志郎が綴った実母との出会いは、「宗教的」と形容することがしっくりくるような気がしてしまう。ただし、清志郎の場合には、それがいわゆる「宗教的転回」とは対照的に、これまでと違う自分に変化するというよりも、自分の才能や生き方への確信をより深めるように作用したところが興味深かった。「俺はそのへんの奴らと決定的に違う、特別製なんだよ」(君への忠告)と、周囲に馴染まない自分、世間の常識とそりの合わない自分を価値づけ、それを赦す啓示となっていた点が。その変化の仕方に、「あぁ、清志郎はやっぱり清志郎だなぁ」と感じた。

本の最後のページには清志郎の直筆で「1988.4.13(つづく)」とある。1988年6月に『COVERS』の発売中止騒動があり、そして1991年にRCサクセションは無期限で活動を休止した。実母との出会いによって自分の表現により強い確信とエネルギーを得た清志郎が、世間やバンドとうまく歯車がかみ合わなかったことは皮肉なことだと思う。けれど、その渦中にあっても、そしてそれ以降もなお生涯を通して「清志郎らしく」あり続けた清志郎は、やはり「選ばれた奴」(君への忠告)だったのだと思う。

ネズミに捧ぐ詩

ネズミに捧ぐ詩