フラワーカンパニーズ 「ロスタイム」

去年の秋にリリースされた『新・フラカン入門』に収録の新曲“ロスタイム”。ミディアムテンポのどこか懐かしい軽やかな曲調とは裏腹に、その歌はこんな歌詞で始まる――。

ドーナツ盤の真ん中 レコード針じゃ鳴らせないところに 迷い込んで一人
どれだけ喉をしぼっても 声にならない 抜け出せなくて 息苦しい

光学ディスクの時代さえも過去になりかけて、形のないデータとして歌が行き交うこの時代にと「ドーナツ盤」と歌い出すところが、さりげなく印象に残る。そして、「ドーナツ盤の真ん中」というフレーズは、かつて擦り切れるほど繰り返し聞いた音楽が終わりを告げてしまったことの隠喩のようで、過ぎ去ってしまった時間と決して明るくはない現在を浮かび上がらせる。そんな風景と心情が淡々と、飄々と歌われるからこそ、繰り返しこの曲を聞きたくなる。

そしてサビの歌詞。

でっか後悔背負って いっぱい罪をしょいこんで
急ぐしかないんだろう? おおミドルエイジ
まだもう少し 空しさの先へ

去年10月のワンマンライブで初めてこの曲を聞いたとき、この「空しさの先へ」というフレーズがちょっと衝撃だった。「さらっと残酷なことを歌っている」と思った。
“深夜高速”から10年近く経って、<生きててよかった そんな夜を探している>と歌ったその先、<もっともっと もっともっと見たことない場所へ>と歌ったその先に待っていたものが「空しさ」だとしたら、それはひどく残酷なことだと思った。けれど、それが弱音ではなく、静かな決意として聞こえるところがフラカンの唯一無二なところだと思った。「空しさ」の中にはまり込むのではなく<空しさの先へ>進もうとすることが、中年(ミドルエイジ)の証しなのかもしれない。
元少年の歌”で<大人だって泣くぜ 大人だって恐いぜ/大人だって寂しいぜ 大人だってはしゃぐぜ>と歌っているように、大人と子どもは違うことよりも同じことの方が多いのかもしれない。けれど、もし大人にできて子どもにできないことがあるとすれば、それは「空しさ」を引き受けるということなのかもしれない。

タイトルの「ロスタイム」という言葉は、歌詞には登場しない。それは「失われた時間」でありつつ、子ども時代を振り返ることでも、青春ごっこを続けることでもなく、たとえ空しくとも残された「今」を生きるという意味なのだと思った。

ロックンロールは長生きしすぎてしまったのかもしれない。フラカンは、そんな「ロックンロールの老い」から目を逸らすことなく歌う。フラカンが歌う「ロックンロールの老い」は、いまだ誰も聞いたことのない「新しいロックンロール」でもある。