『夕方のピアノ』

自傷行為で傷つけられた腕をアップにしたジャケットに、痛々しさと生々しさだけでなく「美しさ」を感じることに動揺する。
のどかに寄り添う公園の赤いブランコが、近づいてみれば不気味に「はなればなれ」であることを切り取った『友達を殺してまで。』のジャケットを思い出す。日常の味気ない風景を何か深遠な「ほのめかし」に満ちた風景に変えてしまう絶妙のセンス。
神聖かまってちゃんには、そんな一筋縄ではいかない複雑さ、奥行きがある。4000枚限定でリリースされたシングル“夕方のピアノ”を聞いて、改めてそう思う。けれどそれは、中原中也の詩のようなタイトルを持つ曲が<死ねよ佐藤>というあからさまな叫びで満ちているからという理由ではなく。

儚げなピアノにのせて繰り返される<死ねよ佐藤>のフレーズ。その声が大きくなればなるほど<佐藤>の影が濃くなっていくように感じる。曲が進むにつれて、明日も明後日ももしかすると永遠に、佐藤が<知らない嘘をついて>やってくるという不安がつのっていく。嫌な予感が避けられない予言になって僕を押しつぶしていくように。

だから、その幼い叫び声は「呪文」を唱えているようにも聞こえる。
それが「呪い」であれ「魔法」であれ、呪文を唱えるとき、人は自分の手では自分の望むように現実を変えられないということを知っている。思い知らされている。<死ねよ佐藤>という呪文は佐藤が死なないことを言い当てている。終盤の<ぼくも死ね!!>という叫びは、非力な自分への苛立ちだろうかあきらめだろうか。

ネットによる配信やライブでの無鉄砲で無軌道と思える言動の一方で、の子の歌う心情や風景の奥底にはなんともいえない「弱さ」がある。
それは、いじめの被害者としての弱さという以上に、自分ではない誰かに翻弄される者としての。夕暮れの帰り道でロックンロールに心を撃ちぬかれ、一緒に掃除当番をした「あなた」に心の奥までちりとられる、そんな純粋な「弱さ」が神聖かまってちゃんの音楽には、ある。

ビートルズは「助けて」と歌った。「弱さ」を歌うことはロックンロールの正統なのかもしれない。だから、もし“夕方のピアノ”が「過激」なのだとしたら、それは誰かを傷つけることを歌っているからではなく、傷ついた自分を隠していないからなのだと思う*1

神聖かまってちゃんの音楽は泣き顔を隠さない。むしろ「強く泣け」と訴える。誰もが振り返らずにいられないほど強く、誰もが立ち止まらずにはいられないほど激しく泣け、と迫ってくる。

夕方のピアノ

夕方のピアノ

*1:その意味で、新たに撮られたPVは、この曲に対する「分かりやすい誤解」をなぞってしまっていて、平坦なものになってしまっていると思う。この曲のモチーフは誰かを傷つけること(誰かにに凶器を向けること)にあるのではないと思う。むしろその対極ではないか、と。