『YETI vs CROMAGNON』

ザ・クロマニヨンズの7枚目のアルバム『YETI vs CROMANON』。1曲目“突撃ロック”の冒頭で<永遠です/永遠です/永遠です/突撃ロック>と断言して、最後の“燃え上がる情熱”の終わりで<燃え上がる情熱で 命駆け抜ける>と締めくくる。前作『ACE ROCKER』、前々作『Oi! Um bobo』と同じく全開で疾走するロックンロールアルバム。けれど、このアルバムにはどことなく肩の力が抜けていて、どことなくケロっとしている印象がある。ロックンロールが「限りなく特別なもの」であると同時に「限りなく当たり前なもの」であるかのように。クロマニヨンズのアルバムというのは、そういう彼らの「ロックンロール観」の提示でもある。そして、そのロックンロール観は、肩の力が抜けている印象を与える時ほど実は頑なに研ぎ澄まされている気がする。

例えば、雑誌のインタビューでの、震災直後のロックンロールをめぐるメディアの状況を振り返ってのヒロトの発言。

ネットとかいろんなメディアで、『今こそロックが頑張って、ロックが元気になる時代だ』みたいな文章を見た時に、死にたくなったんです。こんなことでしか元気になれないロックンロールなら、僕が生きている間、一度も元気になってほしくないと思う。たくさんの人が死んで不幸な目にあって、そんなことでもなければ、原発がひっくり返らなければ元気になれないロックンロールなら、元気にならないほうがいじゃない。そんなものなら捨ててしまおうよ。でも、原発なんかに関係なく、僕には毎日、毎朝、毎晩、ロックンロールは最高に元気なんですよ。
(『Rolling Stone 日本版』2013年2月号)

有事であろうとなかろうと、いつだってロックンロールは最高に元気で最高に素晴らしいということ。クロマニヨンズのロックンロールはそのことを、ただそのことだけを体現しようとしている。だから、ロックンロールは「復興」であれ「脱原発」であれ、それがどんなに重要な事であろうともその手段になるべきではないということ。ロックンロールが自分自身であり人生そのものであるようなアーティストにとって「ロックが元気になる時代」というフレーズは、趣味の悪い冗談を通りこして気味の悪いイデオロギーに聞こえたのかもしれない。“突撃ロック”に続く<イチッ! ニッ! サンッ! シッ! ゴッゴッゴー!!>(黄金時代)、<マッハ マッハ マッハ マッハ/マッハでゆくぜ>(人間マッハ)というばかばかしいほどに単純明快な疾走は、そんな趣味の悪い冗談を、気味の悪いイデオロギーをするりとかわして走り去っていくようだ。そこには具体的な政治的・社会的事象についての言葉は何ひとつない。けれど「ロックンロール(自分/人生)を大義名分の手段にはしない」というそのメッセージは、とても「政治的」でとても「社会的」で、そしてとてもアナーキーだ。

今回のアルバムの中では、個人的には、ヒロト作の“涙の俺1号”とマーシー作の“団地の子供”が印象深かった。それぞれの自己像(セルフイメージ)が投影された歌詞に2人の個性が感じられる。“メキシコの星”のルチャドールにも通じるようにヒロトは自分を劇画的なヒーローになぞらえる。マーシーは団地や夏といった少年時代の思い出の風景のなかに自分を置く。けれど、彼らはどちらもそれぞれにしっかりと「独り」でいる。そんな「独り」と「独り」が出会って、アルバム後半の“炎”で<僕等はただの友達じゃない/もうただの友達じゃないんだ>というフレーズに流れ込んでいくところが何とも言えず爽快で感動的だ。
この2曲とマーシーの詩情溢れる“南から来たジョニー”は、ライブで聞くのがすごく楽しみだ。今回のアルバムは、ライブで聞くと印象が変わったり、音源で聞くよりももっと胸に迫ってきたりする曲が多い気がする。きっとそんな気がする。

YETI vs CROMAGNON(初回生産限定盤)(DVD付)

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