劇団フライングステージ第45回公演『アイタクテとナリタクテ 子どもと大人のフライングステージ』(2019/11/2 下北沢OFF・OFFシアター)

1992年の旗揚げ以来、劇団フライングステージのお芝居の中で最も幼い主人公、小学生達の物語。お得意のメタシアターの手法で描きだされた物語は、可愛らしくも、「愛とは」「家族とは」そして「自分とは」――というこれまでの作品群に通低する一貫した問いを投げかけていた。「ゲイの劇団」である劇団フライングステージのお芝居が、セクシャリティによって限定されない普遍性を持つのは、それらを問いかける「問う力の強さ」ゆえなのだろうと思う。

 

1.20年後の子ども
主人公は小学6年生の3人。学芸会で上演する『人魚姫』でお姫様になりたい男の子(翔)と王子様に会いたい男の子(悠生)、そして「お父さん」が二人いる男の子(大河)。そして彼らを取り巻く大人達――これらが現実世界と乖離しない設定となり得るところに、2019年の日本の現実が反映されていた。

LGBTのG、男の人が好きなわけ?」などと覚えたての知識で会話する小学生の彼らの屈託のなさが、長きにわたるセクシャルマイノリティへの差別・偏見との闘いを経てのものでもあることを思うと、「理想」が現実になるということは、日常の風景として実現するのだということを改めて感じた。そして、そんな歴史など知らない子ども達の姿が、そのことをより一層強調しているように感じた。
そして、主人公の一人大河の父親「高橋大地」という名前をどこかで聞いたことがあるような・・・と感じたおぼろげな記憶の予感は、物語後半の台風の夜の場面で点が線になって繋がった。2006年に上演された、1979年10月を描いた『ムーンリバー』の主人公「高橋大地」が、今回の主人公の一人大河の父親なのだと。

ムーンリバー』のラジオで偶然耳にした「ゲイ」という言葉に動揺する中学生と、『アイタクテとナリタクテ』で学校の性教育としてLGBTを学ぶ小学生という対比は、この20年間におけるセクシャルマイノリティに対する社会の認識やLGBTに関る状況の変化を如実に示していた。それはまた、小学生の3人を演じる俳優陣の時に演技からはみ出している印象さえ与えるあどけなさと、彼らを取り巻く大人達を演じる俳優陣の安定感のある演技との対比にも重なって、印象的だった。

 

2.子どもと台風
主人公の大河は、台風の夜が「大好きなんだ」と言い、水があふれる河を「いい眺めだよ」と言う。台風が接近すると胸躍るのは子どもの特権なのかもしれない。と同時に、風が吹き荒れ、泥水が渦を巻いて溢れ出す光景は、性に目覚め始めた幼い子どもの中に渦巻く欲望とそれに伴う混乱の暗喩のようでもあった。

劇中、度々繰り返される「わかんない」という言葉。「わかんない」という時にこそ大きな声を出す小学生の彼らの姿には、自分の中にある発見されつつある欲望に気づき始めた戸惑いや焦りが表れていた。
そして、一連の台風の夜の場面は、台風の夜一緒にトランプをする人のことを、台風の夜に濁流に足を滑らせた自分を捕まえてくれる人を「家族」と名付ければいいのだと、こんがらがった問いに明快な答えを告げているようでもあった。


3.子どもの政治
学芸会で『人魚姫』を上演することになり、その人魚姫役に「男の子」の翔が立候補したことから動き出した物語は、6年2組の子ども達なりの、アンデルセンの原作ともディズニーの『リトル・プリンセス』とも異なる結末を迎えた。その絶妙な落としどころが、原作の人魚姫のように自分の姿を変えずとも大切な物を失わずとも、自分の姿のままで自分の大切な存在を抱きしめられるというハッピーエンドの可能性を示していた。これがおそらく、6年2組版『人魚姫』を通してこの物語が伝えようとした重要なメッセージの一つだったのだろう。

また、6年2組版『人魚姫』の結末は、子ども達なりの思案による「子どもの政治」の結果でもあったことが興味深かった。だからこそ、一つだけ欲を言えば、翔に対抗して人魚姫役に立候補してその役を得た同じクラスの陽菜が、翔に(地上に行ってからの)人魚姫を「やりなよ」と言い出した理由が知りたかった。「(翔の人魚姫を)私が見たいの」という陽菜の強引な主張は、不登校になった翔への思いやりのようでいて、翔の悠生への恋心を誤解したゆえのおせっかいのようでいて、腐女子の欲望をほのめかしているようでもあった。

いずれによせ、自分の欲望に気づき、認めたその先にある、分かり合えない(かもしれない)他者との折り合いの付け方という、「政治」の練習試合としての学芸会の過程をもう少し見てみたかった気がした。陽菜役が近年の劇団フライングステージのお芝居に欠かせない存在感を放っている木村佐都美さんだからこそ、そう思ったというのもある。


4.変わる子ども/変わらない子ども
台風の夜の場面での大河の父親である高橋大地の告白は、この物語が作・演出(そして校長先生役)の関根信一さんのライフヒストリーと交差するものであることを示唆していた。いじめられっこだった中学生から大人になり役者となった高橋大地はこう語る――「違う人間になろうとしても、どんどん自分になるんだよ。俳優ってそういうものなんだ」。
今回の物語の主人公達は皆、1年後いや半年後にはもう体も心も、この物語の彼らではなくなっているだろう。「成長」という名前の物語が彼らを呑み込んでいくだろう。そのような「変わる存在としての子ども」を描きつつ、いつまでも変わらない存在として「心の奥に留まり続ける子ども」もまたいるのだといういうこと。そしてそれが、この台詞の「どんどん自分になる」時の「自分」なのかもしれないと思った。演じることは違う人間になることを通して自分になるということならば、成長するということは大人になることを通して「子どもの自分」に再会するこのなのかもしれない、と思った。

だから、小学生を主人公にしたこの物語の副題は、「子どものためのフライングステージ」ではなく、「子どもと大人のフライングステージ」だったのだろう。

 

付記
久しぶりに来た下北沢の駅前はすっかり変わっていた。けれど、OFF・OFFシアターの階段は以前と同じだった。終演後にその階段を下りるとき、ふと、もう何年も前に羽矢瀬智之さんが終演後に階段の踊り場に立っていた姿を思い出した。もうその場所にはいないのだけれど、でもやっぱりその場所にいるような、そんな気がした。

 f:id:ay8b:20191103205730j:plain
http://flyingstage.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-861c49.html

『ロケットマン』

エルトン・ジョンの自伝的半生を描いた映画『ロケットマン』を観た。エルトン・ジョンの名曲の数々をミュージカル仕立てで織り込んだ華やかさとは裏腹に、見終わった後に何とも言えない切なさと静かな強さが心に芽生えてくるような、そんな映画だった。

1.「ステージから降りる」という物語

モチーフや時代背景、監督といった共通点により、QUEENを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』と比較する声が多いのは当然の成り行きかもしれない。私にとってはそれぞれの映画の冒頭の場面の違いが鮮烈だった。

それぞれの映画の冒頭、フレディ・マーキュリーはライブエイドのステージに向かい、エルトン・ジョンは依存症者の自助グループのミーティングに向かう。何万人もの聴衆が待つスタジアムのステージへの階段を軽やかに駆け上がるフレディ・マーキュリーと、ほんの10数名が待つ薄暗い部屋に続く廊下を渇望と焦燥の塊のようになって歩くにエルトン・ジョン。この対比が象徴するように、『ボヘミアンラプソディ』がロックスターが「ステージに上がる」ことをクライマックスとした物語なのだとすれば、『ロケットマン』はむしろロックスターが自らの意志で「ステージから降りる」ことをクライマックスにした物語だった。

ロックスターにとってステージを降り「自分の問題」に向き合うことが実は、ステージ上で何万人もの聴衆を湧かせることよりも困難であったというこの物語は、機能不全家族で育つ子どもの傷の深さと依存症からの回復の過酷さを示していた。それは同時に、ショービジネスの世界でスターダムを駆け上がることのリスクを映し出してもいた。そして、だからこそ、ロックスターは悲しく、美しいのだということも。

 

2.感情の麻痺

この映画を「依存症」に焦点を当てて観るならば、その回復における重要なポイントが丁寧に描かれていることに気づかされる。機能不全家族の子どもであり、依存症当事者のエルトンジョンが制作総指揮でなければ描けなかったであろうと思える場面がいくつもあった。そして、そのことに関連して印象深かったのはエルトン・ジョンがステージに向かう場面だった。

例えば、初めてのアメリカ「トルバドール」でのショーの直前、緊張でトイレに閉じこもっていたものの意を決してステージに向かう場面。ド派手な衣装に身を包み虚ろな表情でドラッグを吸引した後、ステージに踊り出ていく場面。ドジャースタジアム公演で、心身ともに瀕死の状態ながら小道具のバットを手にした瞬間、スイッチが入ったように表情を変え堂々とステージに登場する場面――いずれの場面でも、ステージに立ったエルトン・ジョンは直前までのネガティブな感情を一切見せず、水を得た魚のように、まさに「翼の生えたブーツ」を履いたように飛び跳ねていた。

けれど同時に、バックステージからステージに向かう過程を描いたこれらの場面は、エルトン・ジョンにとってステージに上がることは「感情を麻痺」させることだったことを示唆していた。アルコール、コカイン、セックス、買い物・・・そこで得ているのは快楽ではなく「感情の麻痺」なのだという、依存症の専門書に書いてある通りのことが、強く思い出された。同時に、エルトン・ジョンをロックスターにしたのは、その音楽的才能だけでなく、親との関係において幼い頃から自分の感情を押し殺すことに慣れていたことでもあったのかもしれないと思った。だから、エルトン・ジョンの目を見張るような奇抜なメガネや衣装は、エンターテイメントのサービス精神であると同時に、自分からも他者からも自分の感情を隠す仮面であり鎧であるように思えた。

映画冒頭の自助グループのミーティングでの自己紹介の中で、エルトン・ジョンは数々の依存症を挙げた後で、「癇癪持ち(anger managemnt)」と付け加えていた。彼にとって感情とは、「麻痺させる」か「爆発させるか」の二者択一しかなかったのだということを、依存症とは感情の問題でもあることを、伝えていた。

物語の終盤で、更正施設を訪ねてきた盟友のバーニーからまだピアノを弾かないのかと尋ねられ、「無能であること」ではなく「感情が戻ってくること」の恐怖が指摘される場面は、依存症の回復は依存対象を断つことであると同時に自分の感情を認め、受け入れることだと伝えていた。だから、自助グループでのミーティングの場面で、エルトン・ジョンは終始涙ぐんでいた。自分の心の深いところから湧き上がってくる悲しみを味わうように泣いていた。そしてその涙が次第に穏やかな涙へと変化していることが印象的だった。

 

3.「毒になる親」への答え

押しも押されぬ大スター、億万長者となった後でも、エルトン・ジョンは親の前では子どもの頃と同様に強張った表情をしていた。決して彼のニーズに応えることのない親への怒りが失望そして悲しみへと変化するその姿は、それらの感情が親の前では押し殺されているがゆえに余計に胸を締め付けられるものだった。特に、公衆電話から母親に自分が同性愛者であることをカミングアウトする場面の、今にも泣き出しそうな、怯えたような表情は、エルトン・ジョンにとって親という存在がいかに「恐ろしい何か」であったことを伝えていた。「なぜ自分は親から愛されないのか」という問いが、彼の人生の根源にある悲しみであり、苦しみであったことが痛いほど伝わってきた。この場面のタロン・エジャトンの演技は、「迫真」という言葉、あるいは「演技」という言葉すら超えた何かを感じさせるものだった。

映画の終盤、自助グループでのミーティングにおいて、エルトン・ジョンは彼の人生の「重要な他者」一人ずつと対話する。祖母、母親、父親、継父、真の愛情では結ばれなかったマネージャーのジョン、作詞家で生涯の盟友バーニーそして、幼き日の自分(本名のレジー・ドワイト)。

この場面で、家にピアノを置いていたこと、母親の趣味ゆえにエルビスプレスリーを教えリーゼントを許したこと、無関心ゆえに我が子が音楽の道に進むことに干渉しなかったことーーこれら以外には、「毒になる親」でしかなかった両親を前にして、大人になったエルトン・ジョンが幼き日の自分(本名のレジー・ドワイト)を抱きしめた瞬間が、この映画のハイライトであり、そして「なぜ自分は親から愛されないのか」という問いに対する答えなのだと思った。 

「父親にハグしてほしい」というささやかであるけれど決して叶うことのなかった幼き日のエルトン・ジョンの願いを叶えたのは、親でも恋人でも盟友でもなく、大人になった彼自身だったということ。幼き日の自分を抱きしめるエルトン・ジョンと、大人になった自分に抱きしめられる少年レジー・ドワイト。その二人の姿は、こう伝えているようだった。

心の底から変わってほしいと願ったけれど、自分の親は変えられない。けれど、自分は変わることができる。
喉から手が出るほどほしいと願ったけれど、自分の親からはもらえない。けれど、大人になった自分が与えることができる。

このことは、エルトン・ジョンの人生の中で数少ない、彼への変わらぬ「愛情」を保ち続けたバーニーが、更正施設での面会の別れ際に「自分で立ち直れ」とエルトン・ジョンに言い残して立ち去る姿と符号するように思えた。

 

4.ロックスターのイノセンス

エルトンジョンの名曲で華やかに彩られたミュージカルシーンも、稀代のエンターテイナーぶりを見せ付ける圧巻のライブシーンも素晴らしかった。けれど、それらと並んで、あるいはそれ以上に、若き日のエルトンとバーニーが互いの歌詞とメロディを交わし、「あの名曲」が誕生する瞬間の美しさが印象的だった。

夢が叶う瞬間、奇跡が起きる瞬間というのは、実はとてもさりげない控えめな表情でやってくるのかもしれないということ。

そして、この映画の中で私の一番お気に入りの場面は、初めてのアメリカに着いたエルトン・ジョンとバーニーが、車の中から「タワーレコード」の看板を見てキョロキョロする場面だ。うまく言えないけれど、そういうイノセンスと地続きだからこそ、どんなに大きなステージに立っても、どんなに派手な衣装を着ても、ロックスターは遠くならず、いつも私達のそばにいるのだと思う。だから、エルトン・ジョンの歌はいつも聴衆にこう語りかけているのだろう――「これは君の歌だ(this is your song)」、と。

f:id:ay8b:20190924015458j:plain

https://rocketman.jp/

THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2019-GRATEFUL SPOONFUL-(2019/7/7 さいたまスーパーアリーナ)

 “天道虫”で派手に幕を開けたライブだった。テーマの異なる4種類のセットリストのうち、今回は「ハート」のセットリストだった。タイトルに「LOVE」とある曲が多く歌われたけれど、そういう歌ほど、セックスと真正面から向き合う反面、愛と真正面から向き合うことに葛藤していて、「吉井和哉にとっての愛」の妙を感じた。

6月に横浜アリーナで観た「ダイヤ」のセットリストのライブと比べて、曲が変わるだけでなく、同じ曲であっても曲順が違うことで曲の印象が大きく変わることが新鮮だった。特に「ダイヤ」で1曲目だった“この恋のかけら”がライブの最後に歌われることで、曲が訴えかけてくるものが「問い」である以上に「答え」であるようなそんな気がした。「答えがない」ということを引き受けるという決意という意味での「答え」とでもいうような。だから、今のイエローモンキーは「安心」して観ていられる。

2曲目“ARLIGHT”の<何よりもここでこうしてることが奇跡と思うんだ>という歌詞がまさにそうであったように、恋人同士の歌であると同時に、バンドのことを歌っていると思える歌がいくつもあった。だからなのか、アリーナクラスにライブの演出の一翼を担うステージ上方と左右の大型スクリーンに、吉井和哉だけでなくエマ、ヒーセ、アニーが映し出される度に何ともいえない安心感・安定感のようなものが伝わってきた。3人の存在感がツアーごと、ライブごとに増してより一層「バンド」になっていることがイエローモンキー再集結の意味であり成果なのだと思った。

今回のライブは2階席最前列で、座席番号が「99」だった。ステージを真正面に見るその席からは、視界が何にも遮られずにステージだけでなくアリーナ席全体も観ることができた。特に、ライブの開始で流れる<砂漠にガソリン撒き散らし・・・>の歌が始まるとともに、真っ暗に暗転したアリーナ席の只中に音響や舞台演出のブースが、何台も並ぶディスプレイの灯りとともに浮かび上がった瞬間の、その光景がとても印象的だった。それは宇宙船のコックピットのようでもあり、有人飛行の宇宙船を打ち上げる地上管制塔のようでもあった。そして、その中にいる20人弱の人影の微動だにしない姿は、目の前に繰り広げられる「ショー」がもはや「失敗できないもの」の域にあるのだということを感じさせるものだった。
その一方で、吉井和哉がライブ中盤で語ったMCがとても印象的だった――「昨日ライブを観に来た、(今はもうバンドをしていない)かつてのバンドをしていた友人が、僕らのライブを見て『もう一度バンドがしたくなった』と言ってくれたことが、そんな感想がとても嬉しかったです」。このMCが象徴するように、どんなにスケールが大きくなろうとも、むしろスケールが大きくなればなるほどステージに浮かび上がるのは、生身の「ロックバンド」であることなのかもしれないと思った。後戻りできない時間の流れの中にあって、一分一秒確実に老いていく生身の身体を生きているという「ロックバンド」であることを、最新のハイテクノロジーの舞台演出を通して確認するということ。それは、ちょうど、ロンドンのハイドパークでローリング・ストーンズのライブを見た吉井和哉が2013年7月7日の七夕に、メンバーに「また僕と一緒にバンドをやってくれませんか」とメールを送ったというエピソード*1にも通じていることなのかもしれないと思った。

再集結後のイエローモンキーは「ロックバンドというドラマ」ではなく「ロックバンドという奇跡」を生きている、見せているーーそう思う瞬間がいくつもあるライブだった。本編終盤の“SUCK OF LIFE”で最後に吉井和哉が歌い上げる「LIFE」という言葉の意味の重さを感じずにはいられなかった。そんなライブだった。

ロックバンドが美しいのは、彼らが「不死身の花」ではない、からなのだろう。

THE YELLOW MONKEYセットリスト(2019/7/7)
天道虫
ALRIGHT
Love Communication
Love Homme
楽園
Love Sauce
Stars
パール
Changes Far Away
SO YOUNG
Ballon Ballon
追憶のマーメイド
Titta Titta
LOVE LOVE SHOW
SUCK OF LIFE
I don't know

 

―encore―
Horizon
バラ色の日々
悲しきASIAN BOY
この恋のかけら

*1:このエピソードが若干の「歴史の修正」を伴うものであったことがアンコールの“バラ色の日々”のイントロで暴露されたけれど、ファンがさしてたじろがないという(笑) 。

THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2019-GRATEFUL SPOONFUL-(2019/6/11 横浜アリーナ)

19年ぶりのオリジナルアルバム『9999』と同じく“恋のかけら”で幕を開けたライブは、「30周年」という時の流れを感じさせないというよりも、時の流れを味方につけたバンドだけが醸し出す「円熟」と「新鮮」が同居したライブだった。ロックバンドとして「脂が乗っている」とはこういうことを言うのだろうと思った。

照明やプロジェクションマッピングなど最新の舞台演出のテクノロジーを活かしたライブであったけれど、そうしたテクノロジーの進歩に見合うスケールのライブ(動員、演奏力ともに)をこの2019年にできるということが、イエローモンキーが「選ばれている」と同時に「背負っている」バンドなのだと感じさせた。

ライブ中盤の“Changes Far Away”だったか、吉井和哉は映画『ボヘミアン・ラプソディ』のフレディ・マーキュリーのように腕を振りかざしていた。その瞬間が象徴するように、ライブ中何度も「映画みたいだ」と思う瞬間があった。宝石のように光を反射するステージも、大型スクリーンに映し出されるメンバーの姿も、どの瞬間も映画のワンシーンのようだった。もはやイエローモンキーは存在自体が「映画」で、バンドの演奏以外の演出は不要でさえあるのかもしれないと思った。そう思っても不思議なないくらいその演奏は、歌は、初めてライブで聞く曲も何度もライブで聞いている曲も胸に強く響いてきた。「映画みたいだ」と思うのと同じくらい、何度も涙がこみ上げてきた。

今回のツアーでは、テーマの異なる4種類のセットリストが各ライブにトランプのマークで割り振られていて、この日は「ダイヤ」だった。吉井和哉は「イエローモンキーの中でも宝石のような曲を集めました」と言っていた。その言葉の通り、水面、ガラス、鏡、瞳――といった光を反射してキラキラとした切ない何かを思い浮かべるような曲で構成されたセットリストは、新作『9999』とそれ以外の曲とのバランスが絶妙だった。特に、“天国旅行”から“Changes Far Away”へという死からの再生を彷彿させる流れと、その“Changes Far Away”から間髪入れずに“JAM”へ繋ぐ流れは圧巻だった。『9999』の曲と並ぶことでバンドの代表曲の印象が変わることがとても新鮮だった。と同時に、このことは、『9999』の曲がどれも代表曲に比して遜色のないタフさを秘めていることを感じさせるものだった。

今回のライブでは、吉井和哉のボーカリストとしての存在感と同じくらい、エマ、ヒーセ、アニーの存在感を感じた。「ロックバンド」というものの不思議さを思った。家族のようだけれどどんな人間関係にも喩えられない何かがあり、そこにあるのは友情だとしても友情だけでは続けられない何かがある――その「何か」がロックバンドにしかない美しさや切なさの本質なのかもしれないと思った。そしてその「何か」こそが、吉井和哉が人生を捧げると誓ったものなのだということ。

アッシュがかった茶色の髪とラベンダーのボウタイブラウスの吉井和哉はとても美しかった。そして、とてもいいライブだった。

THE YELLOW MONKEYセットリスト(2019/6/11)
恋のかけら
ロザーナ
熱帯夜
砂の塔
Breaking The Hyde
聖なる海とサンシャイン
Tactics
天国旅行
Changes Far Away
JAM
Ballon Ballon
SPARK
Love Homme
天道虫
バラ色の日々
悲しきASIAN BOY

 

-encore-
Titta Titta
太陽が燃えている
SUCK OF LIFE
I don't know

歴史と交わるということ、あるバンドの「甘美な挫折」に寄せて

永井純一(2019)「第7章 フジロック、洋邦の対峙」書評(『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか』,南田勝也編著,花伝社,pp.210-243)

 

1997年7月26日、2人のオーディエンスの経験

私が初めてザ・イエローモンキーのライブを見たのは、1997年7月26日のフジ・ロック・フェスティバルだった。当時まだこのバンドのファンではなかったけれど、大雨をかろうじてしのいでいたテントに知人2人を残して、雨降り止まぬ「地獄絵図」のような野外のステージに一人で向かったのは、イエローモンキーのライブを見たいと思ったからだった。「“悲しきASIAN BOY”が聞けたらいいな」ぐらいの軽い気持ちだった。私はこの日のライブを見てこのバンドのファンになったわけではなかった。この日のライブはその悪天候ゆえに私にとって「音楽を聞く」とか「ライブを見る」という体験にはなり得なかった。「見た」のではなく、その日、その場所、その瞬間に私は「いた」だけだった。けれど、私はそれで十分満足だった。

1997年のフジロックから数年後に知り合ったイエローモンキーファンの友人も、フジロックでのイエローモンキーのライブを見ていた。見知らぬ外国人のオーディエンスとともに「アメージング!」などと言いながら大いに盛り上がった後、ライブ後に振り返ったら誰も盛り上がっていなかった、と友人は笑いながら話してくれた。私はこの話がとても好きだ。

 

観点(図式)としての歴史

あの日、あの場所、あの瞬間にイエローモンキーのライブを目撃した一人一人の経験の総和が「歴史」になるのではない。歴史は、過去を捉える観点(図式)があって初めて何かを語り出す。というよりも、過去を捉える観点(図式)それ自体が歴史というものなのだろう。永井純一による「第7章 フジロック、洋邦の対峙」は、フジロックでのイエローモンキーの「失敗劇」(p.218)を、「洋楽の壁に挑む邦楽」という観点(図式)から描き出している。

本章で「事故」(p.219)「不運」(p.221)などと形容しているように、フジロックでのイエローモンキーの「失敗劇」は、その原因の99%は悪天候といういかんともしがたい偶然の要因によるものだといえる。けれど、その偶然が歴史の「必然」でもあったことを、「主催者と運営の問題」「バンドとライブ・パフォーマンスの問題」「オーディエンスの問題」(p.219)という主に3つの側面から、当事者達の言葉から複眼的にに展開した論考はとても興味深かった。

中でも、フジロック後の、ロック雑誌誌上やインターネット上でのイエローモンキーに対するバッシングの背後に「洋楽/邦楽」という差違のみならずオーディエンスにおける「男性/女性」というジェンダーバイアスがあったことの指摘は、非常にうなずけるものだった。今にして思えばひどいが、当時としてはそれが洋楽ファンに広く共有された気分であったことの示唆は、1997年におけるバンドとファンの無意識を的確に浮かび上がらせている。個人的な体験ではあるが、大学時代からロック、特に洋楽を聞いていると言うとしばしば「お兄さんの影響?」などと言われたこと、「私にいるのは、音楽の趣味の違う、THE  ALFEE好きの姉なのだけれど・・・」と心の中でつぶやいたことを久しぶりに思い出した。

 

あの日のセットリスト

本章では、フジロックのイエローモンキーの「失敗劇」の要因の一つであるセットリストについて、「10曲中7曲がアルバム曲」(p.224)だったことが指摘されている。イエローモンキーのオリジナリティであり商業的成功の鍵でもある「歌謡ロック」(p.224)的なシングルヒット曲を排した選曲が、オーディエンスに受け入れられなかったという指摘は、ファンでないオーディエンスよりもむしろ、イエローモンキーファンの方が深く頷くところである。けれど、それは本書で引用されている「メンバーとファンだけが共有するストーリーと自意識で着飾らせてしままった」(p.224)という『ロッキング・オン・ジャパン』編集長の山崎洋一郎氏の言葉とは少し異なる意味を帯びていると私は感じている。

フジロックでのイエローモンキーのセットリストは、言い換えれば「ファンとさえストーリーが共有できないような、吉井和哉の屈折した自意識で防衛した」ものだったと思う。あの日の選曲の大半は単にアルバム曲というだけではなく、バンドのブレイク以前の退廃的でコンセプチュアルな曲(男娼を歌った“SUCK OF LIF”、日本兵が少女売春婦を買う“A HENな飴玉”“RED LIGHT”)で、しかもブレイク後のライブでも演奏される機会が少ない古参ファン以外には馴染みの薄い曲だった。また、フジロックの半年前にリリースされ、バンドの評価を洋楽ファンにもアピールするものへと高めた『SICKS』からの演奏された曲も、いずれも詞もメロディも重々しい曲(自己批判的さえある“TVのシンガー”、自死を思わせる“天国旅行”)だった。イエローモンキーを十分に知らない洋楽ファンだけでなく、ロックフェスの大舞台で洋楽勢に挑むイエローモンキーの勇姿を見届けようとしたファンにも背を向けているようなセットリストだった。そんなどっちつかずのセットリストには、吉井和哉の「洋楽の壁」に対する怯えと、それと表裏一体の「歌謡ロックでの成功」における自己卑下が無意識下で反映されていたように感じる。

本章ではフェスにおけるセットリストの重要性に触れた後、「イエローモンキーほどのバンドをもってしても、その選択を誤るほど日本のバンドはフェスに慣れておらず」(p.226)とある。けれど、イエローモンキーファンの実感としては、「(当時の)イエローモンキーだからこそ、吉井和哉だからこそ、選択を誤ったのだ」と思う。けれど、そんな「めんどくさい」バンドであったからこそこのバンドに深く惹きつけられた、という両義性もまたファンにとってはひとつの真実だった。

 

2016年のサマーソニック

フジロックでの「失敗劇」も影響して2004年に解散したイエローモンキーは、2016年に再集結した。そして、その年の8月にサマーソニック2016に出演し、ヘッドライナーとなったレディオヘッドと同じ、最も大きなマリンステージに登場した。このライブを、今度はイエローモンキーのファンとして、私は見た。

そのセットリストは、約20年前のフジロックのセットリストとは対照的に、10曲中8曲がシングル曲でうち7曲は“BURN”や‟バラ色の日々”など解散前のバンド黄金期のヒット曲だった。そしてライブの最後はバンドの代表曲である1996年リリースの“JAM”で締めくくられた。その中でも最も印象深かったのは、誰も予想し得なかった、1曲目の“夜明けのスキャット”だった。1969年に大ヒットし、イエローモンキーが1995年リリースのシングル“嘆くなり我が夜のFantasy”のカップリング曲としてカヴァーしたこの曲が、原曲の由紀さおりとのデュエットで、ほぼ原曲通りのアレンジで演奏された。豪奢な白いドレスを纏った由紀さおりの肩を抱きながら歌う吉井和哉の姿には、かつての、1997年のフジロックにおける「歌謡ロック」に対する葛藤はなかった。「歌謡ロック」どころか「歌謡曲」そのもので、洋楽がヘッドライナーを飾るロックフェスに登場するという確信犯ぶりは、フジロックでぶつかった「洋楽の壁」を乗り越えた姿であると同時に、「洋楽の壁」という呪縛から解放された姿のようにも見えた。「洋楽の壁」を参照枠とせずとも成立し得るバンドのオリジナリティと演奏力に対する自信を手にしたからこそ、イエローモンキーは再集結したのかもしれないと思った。

けれど、本章を読んで、おそらく状況はより重層的であったのだと気づかされた。2016年のサマーソニックのイエローモンキーのライブが体現していた姿には、本章の後半で指摘されている「オーディエンスの成熟」や「演奏志向(サウンド志向)」(pp.234-235)という変化にも多いに関係していたのだと感じた。2016年のサマーソニックのイエローモンキーのライブでは、途切れることなくオーディエンスがマリンステージのアリーナに入り続け、曲に合わせて両手を捧げる観客の波がアリーナの後ろにまで広がっていった。その光景が象徴していたこの日のライブの「成功劇」の背景には、フェスを取り巻く時代的変化にバンドが適応していたことも少なからず関係していたと思う。

さらに言えば、サマーソニックへの出演も含め、再集結後にこれまで以上にスケールアップしているイエローモンキーの活動(東京ドーム公演、ATLANTIC/Warner Music Japanとのタッグによる全世界配信)からは、バンドにとっての「フジロックでの挫折」の意味が変容したようにも感じる。イエローモンキーは、フジロックでの挫折への「復讐(リベンジ)」という物語を手放し、フジロックでの挫折をバンドヒストリーの1コマに消化して新たな物語を「構成」するという選択をしたように感じる。2013年公開のドキュメンタリー映画『パンドラ』で、1998年から1999年にかけての日本全国113本に及ぶ長大な『PUNCH DRUNKERD TOUR』に至る経緯として、フジロックでの無残なバンドの姿を織り込んだのは、バンドがあの挫折を、悪夢を受容したことの現れだったのかもしれないと思う。

 

歴史と交わるということ

「誰も短い一生を思わず、長い歴史の流れを思いはしない。言わば、因果的に結ばれた長い歴史の水平の流れに、どうにか生きねばならぬ短い人の一生は垂直に交わる」(小林秀雄,「歴史」,1960)--1997年の7月26日、あの日、イエローモンキーは、日本の洋楽受容という長い歴史の水平の流れに、垂直に交わり、無残に敗れた。けれど、挑戦のないところに失敗はなく、冒険のないところに挫折はないとするならば、その姿には挑戦し、冒険する者だけが許される美しさもまたあったのだろう。そして、それは、南田勝也が序章で指摘する「甘美」(p.16)とも言い換えられるのかもしれない。

 

付記:Don’t Look Back in Anger

フジロックから10年後の2007年、吉井和哉OASISの“Don’t Look Back in Anger”に、オリジナルの日本語詞をつけてカヴァーした。その中で吉井和哉はこんなふうに歌っている。「1997年の10月はロンドンにいた/ケンジントンで流れたこの歌が大好きさ」――フジロックでの挫折後の「1997年の10月」の吉井和哉の、それから10年後に「1997年」と歌う吉井和哉の心にはどんな風景があったのだろうかと、本章を読んでふと考えた。そして、フジロックでの挫折を「怒りに転嫁(Look Back in Anger)」しなかったことが、それを誰のせいにもしなかったことが、吉井和哉のその後のアーティストとしての歩み、そしてイエローモンキーの再集結への道を拓いたのかもしれないと思った。

 

私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史

私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史

  • 作者: 南田勝也,?橋聡太,大和田俊之,木島由晶,安田昌弘,永井純一,日高良祐,土橋臣吾
  • 出版社/メーカー: 花伝社
  • 発売日: 2019/03/20
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

  

 

10年目の5月2日に

忌野清志郎が亡くなって10年、10年目の5月2日になる。清志郎の訃報を知った時のことは今でも鮮明に覚えている。夜のニュース番組で速報として伝えられたこと、ほどなくして友人から電話がかかってきたこと。電話口で友人が泣いていたこと。その時は「悲しい」というより「不思議だなぁ」という気持ちの方が強かった。そして、それは今でもあまり変わらないような気がする。心のどこかでずっと「清志郎が死ぬなんて不思議だなぁ・・・」と思っている自分がいる。

この10年間に、清志郎について書いた2つの文章を読み返してみた。どちらも清志郎の死後に書いた文章ではあるけれど、おそらく、きっと清志郎が生きていたとしても、私は同じことを書いただろうと思う。その死によって、私の中の清志郎像は変わることはなかったのだと思う。その意味で、清志郎は正直でタフな表現者だったのだと思う。

 

1つは、2010年の7月に出版されたおおくぼひさこさんの写真集『BOYFRIEND』。

 被写体としての清志郎の存在感だけでなく、写真家であるおおくぼひさこさんと被写体である清志郎との距離感が印象的だった。 

おおくぼさんの撮る清志郎は、派手なメイクをしていてもロックスター然としたポーズをきめていても、どこか抑制的な、奥ゆかしい印象がある。それは、おおくぼさんが清志郎の「おとなしい」表情をよくとらえていたという意味ではなく、被写体の彼がどんなに親しい間柄であっても、シャッターを切るその瞬間、おおくぼさんが常に表現者として表現者である清志郎に向き合っていたというその距離感の表れという意味で。

被写体となった表現者に対する「尊敬」がおおくぼさんの写真にはある。それは、1977年のあどけなく飄々とした表情で野原立つやせっぽっちの青年の写真からすでに貫かれていて、どんなにページをめくっても写真家と被写体の距離はそれ以上近づくことも遠ざかることもない。その間には常に変わらぬ尊敬が、ある。 だから、「BOYFRIEND」というタイトルとは裏腹にこの写真集に「プライベートショット」は1枚もない。おおくぼさんは「素顔の」ではなく「表現者としての」忌野清志郎を撮り続けていたのだということ。

おおくぼひさこ写真集 『BOYFRIEND』 - 朝焼けエイトビート

 

もう1つは、2014年の5月に出版された30代後半の清志郎の日記/私小説『ネズミに捧ぐ歌』。

父の死や、幼くして死別した実母との邂逅など、当時の清志郎の極めてプライベートな出来事が綴られていると同時に、それらの出来事が清志郎の創作活動に与えた影響が決して小さなものではなかったことが感じられた。赤裸々でありながら、「文学」として成立していると感じられるところに、清志郎の「才」があったのだと思う。

この詩に綴られている、実母に出会った清志郎の心情は、まるで聖母に出会ったキリスト者のようだ。そして、その喩えはあながち大袈裟でも間違ってもいない気がする。

実母の写真をポケットの写真に入れて持ち歩き、ツアー初日の暗い客席にちらつく彼女の笑顔に心を奪われ、実母の存在を周囲に話すことに難しさを感じつつも「だが、俺はみんなに言いたいんだ。世界中にこの幸せを見せてあげたいんだ。そして、世界が平和になればいい」(大阪Days)と言う――そんな清志郎の姿は、ある日突然信仰に目覚めた人のようだ。実母の存在を知った後「いけない事だと気づいたんだよ」「何が大切かってことが初めてわかった僕なのさ」(女たち)と、ツアー先の女性達との関係を清算しようとする清志郎は、まるで信仰のために悪行を悔い改める人のようだ。

清志郎は「無宗教」だった。けれど、清志郎が綴った実母との出会いは、「宗教的」と形容することがしっくりくるような気がしてしまう。ただし、清志郎の場合には、それがいわゆる「宗教的転回」とは対照的に、これまでと違う自分に変化するというよりも、自分の才能や生き方への確信をより深めるように作用したところが興味深かった。「俺はそのへんの奴らと決定的に違う、特別製なんだよ」(君への忠告)と、周囲に馴染まない自分、世間の常識とそりの合わない自分を価値づけ、それを赦す啓示となっていた点が。その変化の仕方に、「あぁ、清志郎はやっぱり清志郎だなぁ」と感じた。

忌野清志郎 『ネズミに捧ぐ詩』 - 朝焼けエイトビート

 R.I.P.

THE YELLOW MONKEY『9999』

ザ・イエローモンキー9枚目のオリジナルアルバム『9999』。活動休止、解散そして再集結を経ての19年ぶりの新作。バンドにとっても、ファンにとっても長い時間と「重い想い」を背負ったアルバムである一方で、1曲目“この恋のかけら”が進むにつれてこの新作がこれまでのイエローモンキーのディスコグラフィーの中でも最もみずみずしく、最も軽やかなアルバムであるという確信が芽生えた。

そして、その“この恋のかけら”の中で、吉井和哉が自分の両親を<夢の途中で死んだ父親と/いつまでも少女の母の話を>と、「架空の物語」の登場人物のようにではなく、等身大の存在としてかつ美しい言葉で表現していたことに、何とも言えない感慨を覚えた。20代の吉井和哉には歌えなかったことが50代の吉井和哉には歌えるのだと思った。そしてそれは、吉井和哉版「マイ・ウェイ」とも言える“Changes Far Away”の<愛だけを支えにして/ここまでなんとか歩いてきたんだ>という言葉の素直さにも通じている気がした。

この恋のかけらどこに埋めればいいのだろう>(この恋のかけら)と切なく美しい過去をもてあますような自問で幕を開け、<誰も知らない暗く長い道>(I don't know)と未来に答えを持たないことへの正直な告白で幕を閉じるこのアルバムを聞き返しながら、ふと‟楽園”の<過去は消えないだろう未来もうたがうだろう>というフレーズを思い出した。そのフレーズと同じことを歌っているようでありながら、このアルバムが聞き手に差し出すのは、もう過去に縛られることも未来に怯えることもない新たなバンドの姿だと思った。そしてそれは、<見違えるほどの強さ>(I don't know)でありつつ、どこか優しく、しなやかなロックンロールとして結晶している。

謡曲グラムロック、ハードロック、オルタナティブロックまで貪欲に消化しつつ、「イエローモンキー」という一つのジャンルと呼べるほどのオリジナリティを誇る13曲は、その歌詞も曲もアレンジも演奏も、実はもう一歩も二歩も突き詰めたり、創り込んだりできる余地があったのではないかと錯覚させるほどに、直感的で無防備な印象を残す。吉井和哉の手書きの詩作ノートやバンドメンバーだけでのリハーサルを目撃したような感覚が生じる。と同時に、そこにバンドの明確な意志を感じさせる点で、このアルバムにはバンドとしてのゆるぎない自信が貫かれているように思う。

バンドが直感を優先し無防備でいられるという状態とはどんなものかと考える。そこには自分自身、バンドメンバー、そしてファンへの「信頼」があるのだということ。だから、このアルバムは、バンドとファンが1曲1曲のかっこよさや美しさを何のてらいもなく分かち合える風通しの良さがある。

そして、その風通しの良さが端的に表れているのは、EMMAが作詞作曲を手がけた“Horizon”だと思った。一昨年に映画『オトトキ』公開時に聞いたときには、正直に言うとその率直なメッセージに、イエローモンキーのこれまでのコミュニケーションの作法との違いを感じて受け止めきれない自分がいた。けれど、『9999』の中ではその率直さがむしろアルバムのメインテーマとなって、アルバムの中核を成す存在感を発揮している。

「地平線は人間が迷い込むのを防ぐ」と言ったのは誰だったか――振り返るには眩しすぎる過去と見通すには不確かである未来と向き合いながらも、<We must go on!>(Horizon)と決意するバンドの姿に、不安よりも希望を感じるのは、まさにこの曲で歌われている<愛と絆と>(Horizon)という拠って立つ地平線をバンドが手に入れたからなのだと思う。 

アルバムの中の未来図はとても輝いて

べセルの中の鼓動は戻せやしないけれど

打ち上げ花火の向こうでは皆が待っている

会いに行こう 愛と絆と

 

Horizon Horizon

こらえず We must go on! 

1行目に書いてしまったら、このアルバムについて書くことが何もなくなってしまいそうだったので、最後にこの言葉を書くことにしたい。

ザ・イエローモンキー9枚目のオリジナルアルバム『9999』。私はこのアルバムがイエローモンキーのアルバムの中で一番好きです。名盤です。