歴史と交わるということ、あるバンドの「甘美な挫折」に寄せて

永井純一(2019)「第7章 フジロック、洋邦の対峙」書評(『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか』,南田勝也編著,花伝社,pp.210-243)

 

1997年7月26日、2人のオーディエンスの経験

私が初めてザ・イエローモンキーのライブを見たのは、1997年7月26日のフジ・ロック・フェスティバルだった。当時まだこのバンドのファンではなかったけれど、大雨をかろうじてしのいでいたテントに知人2人を残して、雨降り止まぬ「地獄絵図」のような野外のステージに一人で向かったのは、イエローモンキーのライブを見たいと思ったからだった。「“悲しきASIAN BOY”が聞けたらいいな」ぐらいの軽い気持ちだった。私はこの日のライブを見てこのバンドのファンになったわけではなかった。この日のライブはその悪天候ゆえに私にとって「音楽を聞く」とか「ライブを見る」という体験にはなり得なかった。「見た」のではなく、その日、その場所、その瞬間に私は「いた」だけだった。けれど、私はそれで十分満足だった。

1997年のフジロックから数年後に知り合ったイエローモンキーファンの友人も、フジロックでのイエローモンキーのライブを見ていた。見知らぬ外国人のオーディエンスとともに「アメージング!」などと言いながら大いに盛り上がった後、ライブ後に振り返ったら誰も盛り上がっていなかった、と友人は笑いながら話してくれた。私はこの話がとても好きだ。

 

観点(図式)としての歴史

あの日、あの場所、あの瞬間にイエローモンキーのライブを目撃した一人一人の経験の総和が「歴史」になるのではない。歴史は、過去を捉える観点(図式)があって初めて何かを語り出す。というよりも、過去を捉える観点(図式)それ自体が歴史というものなのだろう。永井純一による「第7章 フジロック、洋邦の対峙」は、フジロックでのイエローモンキーの「失敗劇」(p.218)を、「洋楽の壁に挑む邦楽」という観点(図式)から描き出している。

本章で「事故」(p.219)「不運」(p.221)などと形容しているように、フジロックでのイエローモンキーの「失敗劇」は、その原因の99%は悪天候といういかんともしがたい偶然の要因によるものだといえる。けれど、その偶然が歴史の「必然」でもあったことを、「主催者と運営の問題」「バンドとライブ・パフォーマンスの問題」「オーディエンスの問題」(p.219)という主に3つの側面から、当事者達の言葉から複眼的にに展開した論考はとても興味深かった。

中でも、フジロック後の、ロック雑誌誌上やインターネット上でのイエローモンキーに対するバッシングの背後に「洋楽/邦楽」という差違のみならずオーディエンスにおける「男性/女性」というジェンダーバイアスがあったことの指摘は、非常にうなずけるものだった。今にして思えばひどいが、当時としてはそれが洋楽ファンに広く共有された気分であったことの示唆は、1997年におけるバンドとファンの無意識を的確に浮かび上がらせている。個人的な体験ではあるが、大学時代からロック、特に洋楽を聞いていると言うとしばしば「お兄さんの影響?」などと言われたこと、「私にいるのは、音楽の趣味の違う、THE  ALFEE好きの姉なのだけれど・・・」と心の中でつぶやいたことを久しぶりに思い出した。

 

あの日のセットリスト

本章では、フジロックのイエローモンキーの「失敗劇」の要因の一つであるセットリストについて、「10曲中7曲がアルバム曲」(p.224)だったことが指摘されている。イエローモンキーのオリジナリティであり商業的成功の鍵でもある「歌謡ロック」(p.224)的なシングルヒット曲を排した選曲が、オーディエンスに受け入れられなかったという指摘は、ファンでないオーディエンスよりもむしろ、イエローモンキーファンの方が深く頷くところである。けれど、それは本書で引用されている「メンバーとファンだけが共有するストーリーと自意識で着飾らせてしままった」(p.224)という『ロッキング・オン・ジャパン』編集長の山崎洋一郎氏の言葉とは少し異なる意味を帯びていると私は感じている。

フジロックでのイエローモンキーのセットリストは、言い換えれば「ファンとさえストーリーが共有できないような、吉井和哉の屈折した自意識で防衛した」ものだったと思う。あの日の選曲の大半は単にアルバム曲というだけではなく、バンドのブレイク以前の退廃的でコンセプチュアルな曲(男娼を歌った“SUCK OF LIF”、日本兵が少女売春婦を買う“A HENな飴玉”“RED LIGHT”)で、しかもブレイク後のライブでも演奏される機会が少ない古参ファン以外には馴染みの薄い曲だった。また、フジロックの半年前にリリースされ、バンドの評価を洋楽ファンにもアピールするものへと高めた『SICKS』からの演奏された曲も、いずれも詞もメロディも重々しい曲(自己批判的さえある“TVのシンガー”、自死を思わせる“天国旅行”)だった。イエローモンキーを十分に知らない洋楽ファンだけでなく、ロックフェスの大舞台で洋楽勢に挑むイエローモンキーの勇姿を見届けようとしたファンにも背を向けているようなセットリストだった。そんなどっちつかずのセットリストには、吉井和哉の「洋楽の壁」に対する怯えと、それと表裏一体の「歌謡ロックでの成功」における自己卑下が無意識下で反映されていたように感じる。

本章ではフェスにおけるセットリストの重要性に触れた後、「イエローモンキーほどのバンドをもってしても、その選択を誤るほど日本のバンドはフェスに慣れておらず」(p.226)とある。けれど、イエローモンキーファンの実感としては、「(当時の)イエローモンキーだからこそ、吉井和哉だからこそ、選択を誤ったのだ」と思う。けれど、そんな「めんどくさい」バンドであったからこそこのバンドに深く惹きつけられた、という両義性もまたファンにとってはひとつの真実だった。

 

2016年のサマーソニック

フジロックでの「失敗劇」も影響して2004年に解散したイエローモンキーは、2016年に再集結した。そして、その年の8月にサマーソニック2016に出演し、ヘッドライナーとなったレディオヘッドと同じ、最も大きなマリンステージに登場した。このライブを、今度はイエローモンキーのファンとして、私は見た。

そのセットリストは、約20年前のフジロックのセットリストとは対照的に、10曲中8曲がシングル曲でうち7曲は“BURN”や‟バラ色の日々”など解散前のバンド黄金期のヒット曲だった。そしてライブの最後はバンドの代表曲である1996年リリースの“JAM”で締めくくられた。その中でも最も印象深かったのは、誰も予想し得なかった、1曲目の“夜明けのスキャット”だった。1969年に大ヒットし、イエローモンキーが1995年リリースのシングル“嘆くなり我が夜のFantasy”のカップリング曲としてカヴァーしたこの曲が、原曲の由紀さおりとのデュエットで、ほぼ原曲通りのアレンジで演奏された。豪奢な白いドレスを纏った由紀さおりの肩を抱きながら歌う吉井和哉の姿には、かつての、1997年のフジロックにおける「歌謡ロック」に対する葛藤はなかった。「歌謡ロック」どころか「歌謡曲」そのもので、洋楽がヘッドライナーを飾るロックフェスに登場するという確信犯ぶりは、フジロックでぶつかった「洋楽の壁」を乗り越えた姿であると同時に、「洋楽の壁」という呪縛から解放された姿のようにも見えた。「洋楽の壁」を参照枠とせずとも成立し得るバンドのオリジナリティと演奏力に対する自信を手にしたからこそ、イエローモンキーは再集結したのかもしれないと思った。

けれど、本章を読んで、おそらく状況はより重層的であったのだと気づかされた。2016年のサマーソニックのイエローモンキーのライブが体現していた姿には、本章の後半で指摘されている「オーディエンスの成熟」や「演奏志向(サウンド志向)」(pp.234-235)という変化にも多いに関係していたのだと感じた。2016年のサマーソニックのイエローモンキーのライブでは、途切れることなくオーディエンスがマリンステージのアリーナに入り続け、曲に合わせて両手を捧げる観客の波がアリーナの後ろにまで広がっていった。その光景が象徴していたこの日のライブの「成功劇」の背景には、フェスを取り巻く時代的変化にバンドが適応していたことも少なからず関係していたと思う。

さらに言えば、サマーソニックへの出演も含め、再集結後にこれまで以上にスケールアップしているイエローモンキーの活動(東京ドーム公演、ATLANTIC/Warner Music Japanとのタッグによる全世界配信)からは、バンドにとっての「フジロックでの挫折」の意味が変容したようにも感じる。イエローモンキーは、フジロックでの挫折への「復讐(リベンジ)」という物語を手放し、フジロックでの挫折をバンドヒストリーの1コマに消化して新たな物語を「構成」するという選択をしたように感じる。2013年公開のドキュメンタリー映画『パンドラ』で、1998年から1999年にかけての日本全国113本に及ぶ長大な『PUNCH DRUNKERD TOUR』に至る経緯として、フジロックでの無残なバンドの姿を織り込んだのは、バンドがあの挫折を、悪夢を受容したことの現れだったのかもしれないと思う。

 

歴史と交わるということ

「誰も短い一生を思わず、長い歴史の流れを思いはしない。言わば、因果的に結ばれた長い歴史の水平の流れに、どうにか生きねばならぬ短い人の一生は垂直に交わる」(小林秀雄,「歴史」,1960)--1997年の7月26日、あの日、イエローモンキーは、日本の洋楽受容という長い歴史の水平の流れに、垂直に交わり、無残に敗れた。けれど、挑戦のないところに失敗はなく、冒険のないところに挫折はないとするならば、その姿には挑戦し、冒険する者だけが許される美しさもまたあったのだろう。そして、それは、南田勝也が序章で指摘する「甘美」(p.16)とも言い換えられるのかもしれない。

 

付記:Don’t Look Back in Anger

フジロックから10年後の2007年、吉井和哉OASISの“Don’t Look Back in Anger”に、オリジナルの日本語詞をつけてカヴァーした。その中で吉井和哉はこんなふうに歌っている。「1997年の10月はロンドンにいた/ケンジントンで流れたこの歌が大好きさ」――フジロックでの挫折後の「1997年の10月」の吉井和哉の、それから10年後に「1997年」と歌う吉井和哉の心にはどんな風景があったのだろうかと、本章を読んでふと考えた。そして、フジロックでの挫折を「怒りに転嫁(Look Back in Anger)」しなかったことが、それを誰のせいにもしなかったことが、吉井和哉のその後のアーティストとしての歩み、そしてイエローモンキーの再集結への道を拓いたのかもしれないと思った。

 

私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史

私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史

  • 作者: 南田勝也,?橋聡太,大和田俊之,木島由晶,安田昌弘,永井純一,日高良祐,土橋臣吾
  • 出版社/メーカー: 花伝社
  • 発売日: 2019/03/20
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