10年目の5月2日に

忌野清志郎が亡くなって10年、10年目の5月2日になる。清志郎の訃報を知った時のことは今でも鮮明に覚えている。夜のニュース番組で速報として伝えられたこと、ほどなくして友人から電話がかかってきたこと。電話口で友人が泣いていたこと。その時は「悲しい」というより「不思議だなぁ」という気持ちの方が強かった。そして、それは今でもあまり変わらないような気がする。心のどこかでずっと「清志郎が死ぬなんて不思議だなぁ・・・」と思っている自分がいる。

この10年間に、清志郎について書いた2つの文章を読み返してみた。どちらも清志郎の死後に書いた文章ではあるけれど、おそらく、きっと清志郎が生きていたとしても、私は同じことを書いただろうと思う。その死によって、私の中の清志郎像は変わることはなかったのだと思う。その意味で、清志郎は正直でタフな表現者だったのだと思う。

 

1つは、2010年の7月に出版されたおおくぼひさこさんの写真集『BOYFRIEND』。

 被写体としての清志郎の存在感だけでなく、写真家であるおおくぼひさこさんと被写体である清志郎との距離感が印象的だった。 

おおくぼさんの撮る清志郎は、派手なメイクをしていてもロックスター然としたポーズをきめていても、どこか抑制的な、奥ゆかしい印象がある。それは、おおくぼさんが清志郎の「おとなしい」表情をよくとらえていたという意味ではなく、被写体の彼がどんなに親しい間柄であっても、シャッターを切るその瞬間、おおくぼさんが常に表現者として表現者である清志郎に向き合っていたというその距離感の表れという意味で。

被写体となった表現者に対する「尊敬」がおおくぼさんの写真にはある。それは、1977年のあどけなく飄々とした表情で野原立つやせっぽっちの青年の写真からすでに貫かれていて、どんなにページをめくっても写真家と被写体の距離はそれ以上近づくことも遠ざかることもない。その間には常に変わらぬ尊敬が、ある。 だから、「BOYFRIEND」というタイトルとは裏腹にこの写真集に「プライベートショット」は1枚もない。おおくぼさんは「素顔の」ではなく「表現者としての」忌野清志郎を撮り続けていたのだということ。

おおくぼひさこ写真集 『BOYFRIEND』 - 朝焼けエイトビート

 

もう1つは、2014年の5月に出版された30代後半の清志郎の日記/私小説『ネズミに捧ぐ歌』。

父の死や、幼くして死別した実母との邂逅など、当時の清志郎の極めてプライベートな出来事が綴られていると同時に、それらの出来事が清志郎の創作活動に与えた影響が決して小さなものではなかったことが感じられた。赤裸々でありながら、「文学」として成立していると感じられるところに、清志郎の「才」があったのだと思う。

この詩に綴られている、実母に出会った清志郎の心情は、まるで聖母に出会ったキリスト者のようだ。そして、その喩えはあながち大袈裟でも間違ってもいない気がする。

実母の写真をポケットの写真に入れて持ち歩き、ツアー初日の暗い客席にちらつく彼女の笑顔に心を奪われ、実母の存在を周囲に話すことに難しさを感じつつも「だが、俺はみんなに言いたいんだ。世界中にこの幸せを見せてあげたいんだ。そして、世界が平和になればいい」(大阪Days)と言う――そんな清志郎の姿は、ある日突然信仰に目覚めた人のようだ。実母の存在を知った後「いけない事だと気づいたんだよ」「何が大切かってことが初めてわかった僕なのさ」(女たち)と、ツアー先の女性達との関係を清算しようとする清志郎は、まるで信仰のために悪行を悔い改める人のようだ。

清志郎は「無宗教」だった。けれど、清志郎が綴った実母との出会いは、「宗教的」と形容することがしっくりくるような気がしてしまう。ただし、清志郎の場合には、それがいわゆる「宗教的転回」とは対照的に、これまでと違う自分に変化するというよりも、自分の才能や生き方への確信をより深めるように作用したところが興味深かった。「俺はそのへんの奴らと決定的に違う、特別製なんだよ」(君への忠告)と、周囲に馴染まない自分、世間の常識とそりの合わない自分を価値づけ、それを赦す啓示となっていた点が。その変化の仕方に、「あぁ、清志郎はやっぱり清志郎だなぁ」と感じた。

忌野清志郎 『ネズミに捧ぐ詩』 - 朝焼けエイトビート

 R.I.P.