劇団フライングステージ第45回公演『アイタクテとナリタクテ 子どもと大人のフライングステージ』(2019/11/2 下北沢OFF・OFFシアター)

1992年の旗揚げ以来、劇団フライングステージのお芝居の中で最も幼い主人公、小学生達の物語。お得意のメタシアターの手法で描きだされた物語は、可愛らしくも、「愛とは」「家族とは」そして「自分とは」――というこれまでの作品群に通低する一貫した問いを投げかけていた。「ゲイの劇団」である劇団フライングステージのお芝居が、セクシャリティによって限定されない普遍性を持つのは、それらを問いかける「問う力の強さ」ゆえなのだろうと思う。

 

1.20年後の子ども
主人公は小学6年生の3人。学芸会で上演する『人魚姫』でお姫様になりたい男の子(翔)と王子様に会いたい男の子(悠生)、そして「お父さん」が二人いる男の子(大河)。そして彼らを取り巻く大人達――これらが現実世界と乖離しない設定となり得るところに、2019年の日本の現実が反映されていた。

LGBTのG、男の人が好きなわけ?」などと覚えたての知識で会話する小学生の彼らの屈託のなさが、長きにわたるセクシャルマイノリティへの差別・偏見との闘いを経てのものでもあることを思うと、「理想」が現実になるということは、日常の風景として実現するのだということを改めて感じた。そして、そんな歴史など知らない子ども達の姿が、そのことをより一層強調しているように感じた。
そして、主人公の一人大河の父親「高橋大地」という名前をどこかで聞いたことがあるような・・・と感じたおぼろげな記憶の予感は、物語後半の台風の夜の場面で点が線になって繋がった。2006年に上演された、1979年10月を描いた『ムーンリバー』の主人公「高橋大地」が、今回の主人公の一人大河の父親なのだと。

ムーンリバー』のラジオで偶然耳にした「ゲイ」という言葉に動揺する中学生と、『アイタクテとナリタクテ』で学校の性教育としてLGBTを学ぶ小学生という対比は、この20年間におけるセクシャルマイノリティに対する社会の認識やLGBTに関る状況の変化を如実に示していた。それはまた、小学生の3人を演じる俳優陣の時に演技からはみ出している印象さえ与えるあどけなさと、彼らを取り巻く大人達を演じる俳優陣の安定感のある演技との対比にも重なって、印象的だった。

 

2.子どもと台風
主人公の大河は、台風の夜が「大好きなんだ」と言い、水があふれる河を「いい眺めだよ」と言う。台風が接近すると胸躍るのは子どもの特権なのかもしれない。と同時に、風が吹き荒れ、泥水が渦を巻いて溢れ出す光景は、性に目覚め始めた幼い子どもの中に渦巻く欲望とそれに伴う混乱の暗喩のようでもあった。

劇中、度々繰り返される「わかんない」という言葉。「わかんない」という時にこそ大きな声を出す小学生の彼らの姿には、自分の中にある発見されつつある欲望に気づき始めた戸惑いや焦りが表れていた。
そして、一連の台風の夜の場面は、台風の夜一緒にトランプをする人のことを、台風の夜に濁流に足を滑らせた自分を捕まえてくれる人を「家族」と名付ければいいのだと、こんがらがった問いに明快な答えを告げているようでもあった。


3.子どもの政治
学芸会で『人魚姫』を上演することになり、その人魚姫役に「男の子」の翔が立候補したことから動き出した物語は、6年2組の子ども達なりの、アンデルセンの原作ともディズニーの『リトル・プリンセス』とも異なる結末を迎えた。その絶妙な落としどころが、原作の人魚姫のように自分の姿を変えずとも大切な物を失わずとも、自分の姿のままで自分の大切な存在を抱きしめられるというハッピーエンドの可能性を示していた。これがおそらく、6年2組版『人魚姫』を通してこの物語が伝えようとした重要なメッセージの一つだったのだろう。

また、6年2組版『人魚姫』の結末は、子ども達なりの思案による「子どもの政治」の結果でもあったことが興味深かった。だからこそ、一つだけ欲を言えば、翔に対抗して人魚姫役に立候補してその役を得た同じクラスの陽菜が、翔に(地上に行ってからの)人魚姫を「やりなよ」と言い出した理由が知りたかった。「(翔の人魚姫を)私が見たいの」という陽菜の強引な主張は、不登校になった翔への思いやりのようでいて、翔の悠生への恋心を誤解したゆえのおせっかいのようでいて、腐女子の欲望をほのめかしているようでもあった。

いずれによせ、自分の欲望に気づき、認めたその先にある、分かり合えない(かもしれない)他者との折り合いの付け方という、「政治」の練習試合としての学芸会の過程をもう少し見てみたかった気がした。陽菜役が近年の劇団フライングステージのお芝居に欠かせない存在感を放っている木村佐都美さんだからこそ、そう思ったというのもある。


4.変わる子ども/変わらない子ども
台風の夜の場面での大河の父親である高橋大地の告白は、この物語が作・演出(そして校長先生役)の関根信一さんのライフヒストリーと交差するものであることを示唆していた。いじめられっこだった中学生から大人になり役者となった高橋大地はこう語る――「違う人間になろうとしても、どんどん自分になるんだよ。俳優ってそういうものなんだ」。
今回の物語の主人公達は皆、1年後いや半年後にはもう体も心も、この物語の彼らではなくなっているだろう。「成長」という名前の物語が彼らを呑み込んでいくだろう。そのような「変わる存在としての子ども」を描きつつ、いつまでも変わらない存在として「心の奥に留まり続ける子ども」もまたいるのだといういうこと。そしてそれが、この台詞の「どんどん自分になる」時の「自分」なのかもしれないと思った。演じることは違う人間になることを通して自分になるということならば、成長するということは大人になることを通して「子どもの自分」に再会するこのなのかもしれない、と思った。

だから、小学生を主人公にしたこの物語の副題は、「子どものためのフライングステージ」ではなく、「子どもと大人のフライングステージ」だったのだろう。

 

付記
久しぶりに来た下北沢の駅前はすっかり変わっていた。けれど、OFF・OFFシアターの階段は以前と同じだった。終演後にその階段を下りるとき、ふと、もう何年も前に羽矢瀬智之さんが終演後に階段の踊り場に立っていた姿を思い出した。もうその場所にはいないのだけれど、でもやっぱりその場所にいるような、そんな気がした。

 f:id:ay8b:20191103205730j:plain
http://flyingstage.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-861c49.html