劇団フライングステージ第47回公演『アイタクテとナリタクテ』『お茶と同情』(2021/06/26 座・高円寺)

劇団フライングステージ第47回公演は、『アイタクテとナリタクテ』と『お茶と同情』という、どちらも学校を舞台にした作品の再演。小学生と教育実習生--どちらもその場所、その立場を通過点として旅立っていく「幼き/若き人々」の眩しく健やかな姿とともに、そんな彼らの姿を通してその対岸にいる「大人」達を映し出す物語でもあった。駆け抜けることはできるけれど立ち止まることはできないというような、そんな「不安定な橋」を渡ることが子どもから大人になることなのだと告げているようでありながら、「かつての子ども」である大人達もまた子ども達の危なっかしい姿に手繰り寄せられるようにして再び「その橋」のたもとに連れ戻されているようでもあった。

「大人と子ども」「過去と未来」「個人的なことと社会的なこと」——どの物語にもコインの両面を行き来するような重層性があって、作・演出の関根さんの公演に寄せた言葉を引用するならば、観客一人一人が自分を映す「鏡」を必ずどこかに発見できる物語になっていた。

『 PINK ピンク』
絵本の原作のような、幼児にもわかる言葉で紡がれた朗読劇。ピンクのランドセルが欲しいという男の子とそれに抵抗する家族との対話とは対照的に、夢で出会う動物達がピンクのランドセルを羨ましがる理由が「ソーセージの色」「肉球の色」「コスモスの色」という発想によって「ピンク=女の子の色」というステレオタイプ自体を相対化している点がさりげなく見事だった。そして、夢の中、森で出会った「ピンクのランドセルが欲しかったけれど黒いランドセルを買わされた」男の子の姿に、主人公の父親がかつて幼き日にからかった男の子の面影が重なって、シンプルな物語が複数の世代を繋ぐ奥行きのある物語になっていた。

今、私が欲しいものは、かつて誰かが欲しいと願ったけれど手に入れられなかったものなのかもしれないということ。そして、それを手に入れることは、誰かのかつて叶わなかった願いを叶えることでもあるということ。ピンクのランドセルを買うことを父親に受け入れてもらえた主人公が言った「僕とその子のランドセルだね」という言葉に象徴される、世代(時代)の重なりが『アイタクテとナリタクテ』『お茶と同情』でも貫かれているように感じた。

台本のカヴァーにしたカラフルな色画用紙を生かした演出もシンプルだけど巧みだった。

『アイタクテとナリタクテ』

学芸会で上演する『人魚姫』で人魚姫を演じたいと立候補した翔と、その友達である大河、悠生の3人の小学6年生をめぐる物語。2019年の初演時では劇中で上演される『人魚姫』の物語をあまり意識しなかったけれど、今回は、実はその物語が「自己愛」(人魚姫が王子を殺して人魚に戻る)と「自己犠牲の愛」(王子を殺さずに海の泡となる)という質の異なる「愛」の選択を迫る物語であったことに気づいた。「友情と恋心」「家族の愛とカップルの愛」といった異なる種類のさまざまな「愛」に出会い、「わかんない」と戸惑いながらも足を止めずに「新しい扉」を開けていく少年達の姿が印象的だった。

「LGBTQ」という言葉を率直さと寛容さをもって話題にする3人の少年の爽やかな姿と、彼らの「人魚姫を演じたい」という可愛らしい欲求に向き合う大人達の複雑な表情が対照的だった。同時に、「人魚姫にナリタイ男友達」と「王子様にアイタイ男友達」さらに「二人の父親」を持つ少年大河の言葉にならない戸惑いや苛立ちもまた印象的だった。子どものカミングアウトに大人が戸惑い、大人のカミングアウトに子どもが戸惑うという世代間の双方向性が日常の風景の中に描かれ、それが受容される結末を迎えているところに、時代の変化を感じた。

劇中劇の『人魚姫』が二人の王子様が結ばれるというハッピーエンドで終わったように、物語は「他の誰かにナリタクテ」と「会いたい人にアイタクテ」という少年達の願いを叶える結末だった。けれど、流れの早い川を泳ぐ魚のように生きる子ども達はあっという間に今の場所からいなくなって、次の場所に向かう。その場所で「他の誰かになること」から「自分自身になること」へ、「誰かに出会うこと」から「出会いを守り育てること」へという成長の橋を、彼らはどんなふうに渡っていくのだろうかと考えた。

今回の公演では、2019年の初演とは異なっていた点がいくつかあった。初演では、人魚姫の役を得た同級生の女子陽菜が最後になって翔に完全に役を譲っていたが、今回は人魚姫の場面は陽奈が、人間になってからの(セリフの無い)場面は翔が演じるという形で解決をしていた。その折り合いのつけ方が「妥協」という感じがせず、子どもなりの知恵による「創造」として感じられたところが良かった。子どもという存在に対する信頼を感じさせる展開だった。

そして、個人的に強く印象に残ったのは、台風が近づく中で、大河、翔、悠生と大河の二人の父親がトランプをしようと口々にやりたいゲームを言う場面。それぞれの言葉が重なり合ってグダグダにさえ思えたこの場面のように、無防備に無邪気に自分の欲求を伝えられることが「家族であること」を象徴しているようだった。それは、台風の夜という非日常が生んだ「小さな奇跡」のような愛おしさだった。

物語の主人公と同様に、客席には小学生くらいの子ども達の姿も目立った。彼らがどんな感想を持ったのか知りたいと思った。

アフタートーク
『アイタクテとナリタクテ』の後、劇団フライングステージの関根信一さんと文化人類学者の砂川秀樹さんとのアフタートークがあった。砂川さんがご自身の幼い頃を重ね合わせて観たと語っていたこと、新宿二丁目の変化について語る中で関根さんが「直接会うこと」の重要性を問うていたことが印象的だった。LGBTQを取り巻く社会の変化について触れつつ、お二人の眼差しが「LGBTQ」という言葉の奥に存在する具体的な個人やその個人的な体験に向けられていることを感じた。日本のセクシャルマイノリティ史が語られる時に名前に挙がるであろうお二人が、この30年を振り返りながら、大文字の非人称化された「歴史」でなはく、当事者としての一人称的な観点で、個人的な感慨とともに穏やかに話していた姿が、短いアフタートークでの対談を補う余韻になっていた。

『お茶と同情』
ゲイだとカミングアウトしている男子大学生の大地が母校に教育実習生としてやってくる物語は、彼の生徒へのカミングアウトをめぐる物語であると同時に、その彼を通して恋人を亡くした国語教師の謙吾が過去と向き合い、自分と向き合い、未来を生きていく物語でもあった。物語の終盤、夏目漱石の『こころ』の「私」と「先生」の関係が、教育実習生の大地と国語教師の謙吾の関係に重なる展開は、2008年初演・2016年再演の『新・こころ』に重なった。若い世代に向き合うことは、先を行く世代にとって自分の「残された未来」に直面することなのだと思った。

物語は教育実習生の大地と国語教師の謙吾を軸に展開しつつも、高校生の翔太、副校長、養護教諭養護教諭の友人でレズビアンカップルで霊感のある保護者の存在が折り合わさって、「群像劇」のようでもあった。また、大地の生徒へのカミングアウトをめぐる職員会議場面で、同性愛への偏見や差別感情を露にする教師さえも含めて一人一人の輪郭が一瞬にしてはっきりと立ち上がるのは、たとえセリフや登場場面は少なくとも一人一人を名前と顔、それぞれの歴史を持った人物として平等に詳細に描いているからなのだろうと思った(その意味では、体育科教師の水谷先生の存在感が抜群だった)。『アイタクテとナリタクテ』の学級会の場面も同様に、大勢での対話の場面(わちゃわちゃする感じも含めて)が物語のひとつの見せ場のように感じられるのは、劇団フライングステージの作品の魅力の一つだと改めて思った。

物語のハイライトは、全校集会で大地が「ホモ」という生徒からの野次に毅然と向き合い、自分が「ゲイ」であるとカミングアウトとする場面。同性愛者を侮蔑する「ホモ」という言葉を退け、自分達で選んだ「ゲイ」という言葉で、自分を証すことの意味と経緯を真っすぐに前を見て告げる姿は、自分が何者であるかを知り、自分を肯定する強さと美しさに貫かれていた。この瞬間、観客席にいる自分もまた全校集会に参加する生徒の一人となって、自分自身を問われているような気がした。そしてそのような感覚は、役者と観客が同じ空間にともに替えの利かない身体をもって存在しているからこそなのだと思った。劇場に足を運ぶという意味を実感した瞬間だった。

物語の最後は打ち上げ花火を観に行く場面だった。他のお芝居(2013年上演の『OUR TOWN わが町 新宿二丁目』)でもそうであったように、劇団フライングステージのお芝居では、打ち上げ花火は死者を悼むことを象徴しているのだと思う。その最後の場面で若い世代から差し出された手を、先を行く世代が喪失の体験を背負いながらも、少しの戸惑いの後に、まっすぐに受け止めた瞬間がとても美しかった。

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