THE YELLOW MONKEY 30th Anniversary DOME TOUR(2020/02/11 京セラドーム)

開演5分前、白いユニフォームが眩しいブラスバンドがステージ左右の端に並びフランク・シナトラの‟My way”を堂々と奏でた後、趣を変えてアッパーな演奏が始まったと思ったら、そのメロディは‟見てないようで見てる”だった。その演奏が進むにつれて徐々に会場の照明が落ちていき、ステージにメンバーが登場した。1曲目は‟ロマンティスト・テイスト。どこか余裕さえ感じさせる、華やかなライブの幕開けだった。
ステージに登場した吉井和哉は、鮮やかな緑のジャケット、紫のシャツ、赤いパンツ、アニマルプリントのネクタイ、ゴールドの靴――まるでヒース・レジャーホアキン・フェニックスの「ジョーカー」を掛け合わせて、それをさらにクレイジーにしたような出で立ち。ジョーカーの方が上品に見えるほどの、その派手な姿は「ロックスター」という「絶滅危惧種」の存在をあえてアピールしているようでもあった。2020年の現在においては、ジョーカーの方がスタイリッシュに思えるほど、ロックスターというスタイルはちょっと時代遅れであるのかもしれないということ。けれど、そのことを吉井和哉が意識していないはずがなく、その姿にはむしろ時代遅れ(かもしれない)のロックスターを全うしようとする覚悟のようなものを感じた。

すべてのライブでセットリストを変えるという今回の3大ドームツアーの趣旨通り、12月28日の名古屋ドームと大きく変わったセットリストは、「ザ・イエローモンキー」に期待されるロックンロール・チューンを十二分に詰め込んだとてもキラキラしたセットリストだった。「完璧」なまでにファンの期待に応えたセットリストだと思った。

その中で、個人的に印象に残ったのは、2001年の活動休止直前の曲だった。‟カナリヤ” “バラ色の日々” ‟BRILLAINT WORLD”――これらの曲に貼りついた、あの当時の今思い出してもヒリヒリとするような感情は、今となってはどこか懐かしくもある。特にライブ本編の最後に歌われた‟BRILLIANT WORLD”。<最高の世界へ>と歌われたものの、それがどこか空手形のように聞こえ、何が「最高」なのか見失ってしまったがゆえの解散なのだと当時は感じた。けれど、20年を経て歌われるその美しい言葉と美しいメロディは大型スクリーンに映し出された吉井和哉の当時と変わらないどこか張りつめた表情と相まってとても感動的だった。

‟バラ色の日々”の直前のMCで吉井和哉は、「60年代70年代のロックンロールの魔法」を追い求めているのだと語った。ロックンロールの奇跡や夢を追い求めているというその言葉とは裏腹に、今日のライブはこのバンドがすでにその奇跡や夢を成し遂げていることを示してもいた。だから、ドーム級のライブにおいてすらどこかリラックスした余裕を感じさせるこのバンドにとっては「この先どこに向かうのか」というビジョンの曖昧さだけが、バンドの弱点なのかもしれないと感じた。

今回のドームツアーをもってバンド活動を少し休むことについて、吉井和哉はバンドを継続させるためなのだと語っていた。「継続こそ前進」と。けれど、その「前進」の先にあるものが何なのか、吉井和哉自身今ひとつその答えを掴みあぐねているような、的確な言葉で言い当てられないような、そんな印象が残った。けれど、だからこそ、夢を追うことを歌った「バラ色の日々」で<I'm just dreamer>と歌う吉井和哉の表情はどこか切実でもあった。

ライブの最後は、今日初めてライブで演奏された曲だった。バンド再集結にあたって最初に作られていた曲‟未来は見ないで”。「時計のリューズ」「薄紅色」「ほうき星」――吉井和哉の詩才の繊細さと奥深さがメロディの優しさとともにぎゅっと胸に迫ってくる曲だった。未来へ踏み出す覚悟を仄めかしつつ「もう少しだけ立ち止まっていたい」という言葉にならない感情に後ろ髪引かれているこの曲が、ドームライブの最後で歌われることの意味を考えた。そう考えながら見つめたステージには白い照明の線描が幾重にも交差していて、まるでイエローモンキーがガラス細工のドームの中で演奏しているような美しさだった。

明るい未来を前に立ちすくんでいるようなこの曲は、闘い続け、勝ち抜いた者だけが感じる稀有な感傷なのかもしれないと思った。夢を叶えようとすること自体がひとつの「夢」ならば、「夢が叶う」ということは「夢の喪失」であるのかもしれない。十分すぎるほど完璧なライブの最後に<未来は見ないで 今はここにいて/昔のことだけ 話したっていいから>と歌う吉井和哉は、もしかするとそんな「夢の喪失」と向き合っているのかもしれないという気がした。それをどう乗り越えるのかという答えは、このドームツアーではなく、その先、休止後の再始動にあるのかもしれないと思った。

いいライブだった。けれど一方で、単に「いいライブだった」で終わらせなくない複雑な気持ちにもなる何かが今回のドームツアーにはある。

THE YELLOW MONKEY セットリスト(2020/02/11)
Romantist Taste
楽園
Rock Star
Ballon Ballon
FINE FINE FINE
MOONLIGHT DRIVE
球根
カナリヤ
Four Seasons
Foxy Blue Love
SLEEPLESS IMAGINATION
砂の塔
嘆くなり我が夜のFantasy
LOVE LOVE SHOW
JAM
DANDAN
ロザーナ
天道虫
SAPRK
バラ色の日々
太陽が燃えている
SUCK OF LIFE
BRILLIANT WORLD

 ―encore―

SWEET&SWEET
ARLIGHT
悲しきASIAN BOY
未来はみないで(新曲)

THE YELLOW MONKEY 30th Anniversary DOME TOUR(2019/12/28 ナゴヤドーム)

ザ・イエローモンキーが、現在のバンドメンバーで初めてライブをした日が、1989年12月28日。それから30年の時が流れ、バンドの30歳の誕生日でもありバンドのキャリア史上最大規模となるドームツアーの初日となったライブは、序盤、中盤、終盤と進むなかで、ライブの印象がどんどん変わっていった。ライブを通してこんなに印象が変わるライブは珍しいと思った。

その珍しさは、このバンドにとってはもはやドームでライブをすることがゴールなのではなく、ドームでどんなライブをするかという次の階段にこのバンドが足をかけていることを示唆しているようだった。「30年」という時間の重みに足を取られることなく、むしろ軽やかにさりげなく「挑戦」を試みているような、そんなライブだった。

ライブは‟SECOND CRY”で幕を開けた。ふと、この会場に少なくないであろう最近ファンになって今日が初めてのライブだという人を思い浮かべ、心の中で「驚かせて、ごめんなさいね。こういうバンドなの。でも、この曲にちょっとでも惹かれるものを感じたら、このバンドはあなたを絶対裏切らないと思う。心配したことは何度もあったけど、裏切られたことは一度もなかったから」と呟いた。その言葉がまさに私とイエローモンキーの歴史なのだと思った。
と同時に、その曲をメインステージにいるメンバー3人を背にして、アリーナ中央のセンターステージで一人歌う吉井和哉の姿は、なんだか少し寂げだった。堂々たる歌唱の一方でそんなことを感じることが不思議だった。けれど、その不思議な違和感は、大型スクリーンに映し出される吉井和哉の表情からも感じられた。ライブ序盤の吉井和哉の表情はどこか硬く、疲れている感じさえした。

その印象がガラっと変わったのは、‟球根”を歌い上げた後、センターステージに移動し、初期の‟This Is For You” ‟Foxy Blue Love” ”SLEEPLESS IMAGINATION"を続けて演奏したあたりからだった。吉井和哉の表情も動きも、みるみる明るく弾けてくるのを感じた。
特に印象的だったのは、結成当初はバンドへの加入を渋っていたエマがツアーで訪れた名古屋の民宿でバンドメンバーとなる返事をしてくれた、という思い出を語った後の"This Is For You”。エマが初めてイエローモンキーで作曲したこの曲の終わり、エマが吉井和哉のそばに歩み寄ってアイコンタクトを取ろうとしたけれど、吉井和哉はその気配に気づきつつ少し頬を緩ませながらも結局エマと目を合わせなかった。その姿が、まさにまさに「THE 吉井和哉」という感じでとても印象的だった。何万人もの聴衆の愛情を一身に浴びるロックスターであると同時に、自分に差し向けられた素朴な愛情に照れる不器用なその姿に、「どうかずっとそのままでいてほしい」とさえ思った。

そしてセンターステージで、初期のグラムロック色の濃い曲から、最新アルバムの‟I don't know”、代表曲の‟BURN” ‟LOVE LOVE SHOW” ‟JAM”が立て続けに演奏されたセットリストは、ドームのスケール観にバンドを合わせるのではなく、むしろバンドのライブの在り方にドームをアジャストさせようとする挑戦を感じた。そして、その挑戦は、ドームの大観衆を、ライブハウスのような小さなセンターステージの演奏だけで魅了できるというバンドの力量と、新たなドームライブの可能性を示していた。

センターステージからメインステージに戻るインターミッションでは、ステージ左右のスクリーンに結成したこの30年間のライブ歴が映し出されるとともに、バンド結成間もない頃のデモテープの未発表曲が流れた。そのテープのインデックスには、手押しスタンプによる曲名とメンバー名の他に、「STRANGE BOYZ FROM JAPAN」とあった。直訳すると「日本からやってきた奇妙な少年達」――欧米へのコンプレックスと憧れの両方を抱えたジャパニーズ・ロックンロールという、バンドの自意識と美意識が結成当初から変わらぬものであることが垣間見えるようだった。そして、それから30年を経て、その奇妙な少年達は、押しも押されぬロックスターになった。

ライブ本編の終盤、「お父さーん」と叫んだ後で歌い出された‟Father”。この曲を初めてライブで聞いた。さまざまな景色を映す飛行機か列車の窓を背景に<気絶するほど遠くまできた><今僕は奇跡のかけらの指輪を探してる>と歌う吉井和哉の姿だけでもう十分だと思った。亡き父を想って歌う吉井和哉は、他のどの曲を歌う時にも見せない、満たされた表情を浮かべていた。

そして、この曲に続いてライブ本編の最後に歌われた‟シルクスカーフに帽子のマダム”が、この日のライブの白眉だった。ザ・イエローモンキーを貫いてきた自意識と美意識をまさに1曲で証明するような、そんな曲であり演奏だった。バンド名の由来を身近にあった戦争の記憶とともに語り、自分の中にいる「浮かばれない女性」のために歌っていると語った後に歌われたこの曲は、‟SECOND CRY”から始まった今日のライブが、いくつものハイライトを経ての1曲に収斂していくかのような、説得力を持っていた。ドームのライブ本編ラストをこの曲で飾るということそれ自体が、このバンドの30年の歩みとは「イエローモンキーがイエローモンキーを裏切らなかった」ということだったと証明しているように思えた。

いいライブだった――と思う。けれど、このライブを「いいライブだった」で締め括ってしまうと、この後の大阪ドーム、東京ドームのライブで何も言えなくなってしまうような、そんな予感もある。だからこう言おうと思う。私の大好きなイエローモンキーのライブだった。 

 

 付記:ライブのどこで演奏されるか楽しみだった‟DAN DAN”はライブ後半の幕開けに。本物のチンドン屋さんが花道とステージを練り歩いてからの演奏は、イエローモンキーにとても似合っていた。チンドン屋さんの派手でにぎやかな外見と裏腹のどこか物悲しくて切ない音楽という組み合わせは、「イエローモンキー的」だと感じた。チンドン屋さんのちょんまげに着物の男性の姿に、ふと、大衆演劇の役者だった吉井和哉の父親のことを思った。

THE YELLOW MONKEY セットリスト(2019/12/28)
SECOND CRY
ROCK STAR
SPARK
Ballon Ballon
A HENな飴玉
追憶のマーメイド
球根
This Is For You
LOVERS ON BACK STREET
Foxy Blue Love
SLEEPLESS IMAGINATION
I don't know
BURN
LOVE LOVE SHOW
JAM
DAN DAN
パンチドランカー
天道虫
I
SUCK OF LIFE
Horizon
Father
シルクスカーフに帽子のマダム

 ーencoreー
おそそブギウギ
アバンギャルドで行こうよ
バラ色の日々
ALRIGHT
悲しきASIAN BOY

THE YELLOW MONKEY 「DANDAN」

ザ・イエローモンキーには12月がよく似合う。
現在のメンバーになって初めてのライブが12月28日だったという「縁」もあるように、このバンドには、過ぎ去っていくことの感傷と新たに迎えることの希望が交錯する季節がとてもよく似合う。賑やかな風景の裏にある切なさと、それを大切に抱えつつも次なる場所へと進む姿は、まさにこのバンドの歩み方を思い起こさせる。
結成30周年を記念した新曲「DANDAN」を初めて聞いたとき、まさにそんな季節の風景が、その温度や空気の匂いまで感じられるようで、「まさに、ザ・イエローモンキーの」新曲だと思った。

ブラスが華やかさを添えるイントロで「どこかで聞いたような・・・」と思わせつつも、「あぁ、イエローモンキー!」と感じられる軽快・軽妙なメロディ、「周年セール」「離岸流」などおそらく日本語のロックンロールで初めて歌われるであろう言葉を巧みに散りばめた歌詞――そこはかとない懐かしさと確かな余裕を感じさせるこの曲は、「30年目の新人」のようなみずみずしさと軽みを湛えていて、何度も何度も繰り返し聞いている。特に、冬の晴れた日の朝の空気に、この曲はよくなじむ。
そして、曲の終わり、吉井和哉はこんなふうに歌う。

どんな夢も叶えるあなたに会えたよ
どんな痛みにも耐えるあなたに会えたよ

もしこの2行の順番が入れ替わっていたら、曲の印象はだいぶ変わるような気がする。だからこそ、やはり「どんな痛みにも耐えるあなた」を曲の最後に歌うところに、吉井和哉から吉井和哉自身への、バンドメンバーへの、そしてファンへの信頼と感謝を感じる。

そして、「DANDAN」というタイトル。このタイトルが象徴するように、イエローモンキーの30年の歩みとは、魔法の絨毯やジェットコースターに乗って運ばれることではなく、「正しかった出会い」と「間違った出会い」をくり返しながら、長い階段を一歩ずつ登ることだったのだと思う。長い階段の途中で、振り返った時に見下ろした景色に感じる愛おしさのような感情もまた、この曲の通底音になっている。

バンドが30歳となる12月28日を皮切りに、バンドのキャリア史上最大規模となる東名阪ドームツアーが始まる。イエローモンキーはまた一つ階段を登ろうとしている。そのライブのセットリストにこの曲がどう組み込まれるのかが楽しみだ。冒頭でも、終盤でも、アンコールでも、ライブのどこで歌われても、この曲は映えるだろう。

ドームツアーの4公演、全て見届けようと思う。 

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劇団フライングステージ第45回公演『アイタクテとナリタクテ 子どもと大人のフライングステージ』(2019/11/2 下北沢OFF・OFFシアター)

1992年の旗揚げ以来、劇団フライングステージのお芝居の中で最も幼い主人公、小学生達の物語。お得意のメタシアターの手法で描きだされた物語は、可愛らしくも、「愛とは」「家族とは」そして「自分とは」――というこれまでの作品群に通低する一貫した問いを投げかけていた。「ゲイの劇団」である劇団フライングステージのお芝居が、セクシャリティによって限定されない普遍性を持つのは、それらを問いかける「問う力の強さ」ゆえなのだろうと思う。

 

1.20年後の子ども
主人公は小学6年生の3人。学芸会で上演する『人魚姫』でお姫様になりたい男の子(翔)と王子様に会いたい男の子(悠生)、そして「お父さん」が二人いる男の子(大河)。そして彼らを取り巻く大人達――これらが現実世界と乖離しない設定となり得るところに、2019年の日本の現実が反映されていた。

LGBTのG、男の人が好きなわけ?」などと覚えたての知識で会話する小学生の彼らの屈託のなさが、長きにわたるセクシャルマイノリティへの差別・偏見との闘いを経てのものでもあることを思うと、「理想」が現実になるということは、日常の風景として実現するのだということを改めて感じた。そして、そんな歴史など知らない子ども達の姿が、そのことをより一層強調しているように感じた。
そして、主人公の一人大河の父親「高橋大地」という名前をどこかで聞いたことがあるような・・・と感じたおぼろげな記憶の予感は、物語後半の台風の夜の場面で点が線になって繋がった。2006年に上演された、1979年10月を描いた『ムーンリバー』の主人公「高橋大地」が、今回の主人公の一人大河の父親なのだと。

ムーンリバー』のラジオで偶然耳にした「ゲイ」という言葉に動揺する中学生と、『アイタクテとナリタクテ』で学校の性教育としてLGBTを学ぶ小学生という対比は、この20年間におけるセクシャルマイノリティに対する社会の認識やLGBTに関る状況の変化を如実に示していた。それはまた、小学生の3人を演じる俳優陣の時に演技からはみ出している印象さえ与えるあどけなさと、彼らを取り巻く大人達を演じる俳優陣の安定感のある演技との対比にも重なって、印象的だった。

 

2.子どもと台風
主人公の大河は、台風の夜が「大好きなんだ」と言い、水があふれる河を「いい眺めだよ」と言う。台風が接近すると胸躍るのは子どもの特権なのかもしれない。と同時に、風が吹き荒れ、泥水が渦を巻いて溢れ出す光景は、性に目覚め始めた幼い子どもの中に渦巻く欲望とそれに伴う混乱の暗喩のようでもあった。

劇中、度々繰り返される「わかんない」という言葉。「わかんない」という時にこそ大きな声を出す小学生の彼らの姿には、自分の中にある発見されつつある欲望に気づき始めた戸惑いや焦りが表れていた。
そして、一連の台風の夜の場面は、台風の夜一緒にトランプをする人のことを、台風の夜に濁流に足を滑らせた自分を捕まえてくれる人を「家族」と名付ければいいのだと、こんがらがった問いに明快な答えを告げているようでもあった。


3.子どもの政治
学芸会で『人魚姫』を上演することになり、その人魚姫役に「男の子」の翔が立候補したことから動き出した物語は、6年2組の子ども達なりの、アンデルセンの原作ともディズニーの『リトル・プリンセス』とも異なる結末を迎えた。その絶妙な落としどころが、原作の人魚姫のように自分の姿を変えずとも大切な物を失わずとも、自分の姿のままで自分の大切な存在を抱きしめられるというハッピーエンドの可能性を示していた。これがおそらく、6年2組版『人魚姫』を通してこの物語が伝えようとした重要なメッセージの一つだったのだろう。

また、6年2組版『人魚姫』の結末は、子ども達なりの思案による「子どもの政治」の結果でもあったことが興味深かった。だからこそ、一つだけ欲を言えば、翔に対抗して人魚姫役に立候補してその役を得た同じクラスの陽菜が、翔に(地上に行ってからの)人魚姫を「やりなよ」と言い出した理由が知りたかった。「(翔の人魚姫を)私が見たいの」という陽菜の強引な主張は、不登校になった翔への思いやりのようでいて、翔の悠生への恋心を誤解したゆえのおせっかいのようでいて、腐女子の欲望をほのめかしているようでもあった。

いずれによせ、自分の欲望に気づき、認めたその先にある、分かり合えない(かもしれない)他者との折り合いの付け方という、「政治」の練習試合としての学芸会の過程をもう少し見てみたかった気がした。陽菜役が近年の劇団フライングステージのお芝居に欠かせない存在感を放っている木村佐都美さんだからこそ、そう思ったというのもある。


4.変わる子ども/変わらない子ども
台風の夜の場面での大河の父親である高橋大地の告白は、この物語が作・演出(そして校長先生役)の関根信一さんのライフヒストリーと交差するものであることを示唆していた。いじめられっこだった中学生から大人になり役者となった高橋大地はこう語る――「違う人間になろうとしても、どんどん自分になるんだよ。俳優ってそういうものなんだ」。
今回の物語の主人公達は皆、1年後いや半年後にはもう体も心も、この物語の彼らではなくなっているだろう。「成長」という名前の物語が彼らを呑み込んでいくだろう。そのような「変わる存在としての子ども」を描きつつ、いつまでも変わらない存在として「心の奥に留まり続ける子ども」もまたいるのだといういうこと。そしてそれが、この台詞の「どんどん自分になる」時の「自分」なのかもしれないと思った。演じることは違う人間になることを通して自分になるということならば、成長するということは大人になることを通して「子どもの自分」に再会するこのなのかもしれない、と思った。

だから、小学生を主人公にしたこの物語の副題は、「子どものためのフライングステージ」ではなく、「子どもと大人のフライングステージ」だったのだろう。

 

付記
久しぶりに来た下北沢の駅前はすっかり変わっていた。けれど、OFF・OFFシアターの階段は以前と同じだった。終演後にその階段を下りるとき、ふと、もう何年も前に羽矢瀬智之さんが終演後に階段の踊り場に立っていた姿を思い出した。もうその場所にはいないのだけれど、でもやっぱりその場所にいるような、そんな気がした。

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『ロケットマン』

エルトン・ジョンの自伝的半生を描いた映画『ロケットマン』を観た。エルトン・ジョンの名曲の数々をミュージカル仕立てで織り込んだ華やかさとは裏腹に、見終わった後に何とも言えない切なさと静かな強さが心に芽生えてくるような、そんな映画だった。

1.「ステージから降りる」という物語

モチーフや時代背景、監督といった共通点により、QUEENを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』と比較する声が多いのは当然の成り行きかもしれない。私にとってはそれぞれの映画の冒頭の場面の違いが鮮烈だった。

それぞれの映画の冒頭、フレディ・マーキュリーはライブエイドのステージに向かい、エルトン・ジョンは依存症者の自助グループのミーティングに向かう。何万人もの聴衆が待つスタジアムのステージへの階段を軽やかに駆け上がるフレディ・マーキュリーと、ほんの10数名が待つ薄暗い部屋に続く廊下を渇望と焦燥の塊のようになって歩くにエルトン・ジョン。この対比が象徴するように、『ボヘミアンラプソディ』がロックスターが「ステージに上がる」ことをクライマックスとした物語なのだとすれば、『ロケットマン』はむしろロックスターが自らの意志で「ステージから降りる」ことをクライマックスにした物語だった。

ロックスターにとってステージを降り「自分の問題」に向き合うことが実は、ステージ上で何万人もの聴衆を湧かせることよりも困難であったというこの物語は、機能不全家族で育つ子どもの傷の深さと依存症からの回復の過酷さを示していた。それは同時に、ショービジネスの世界でスターダムを駆け上がることのリスクを映し出してもいた。そして、だからこそ、ロックスターは悲しく、美しいのだということも。

 

2.感情の麻痺

この映画を「依存症」に焦点を当てて観るならば、その回復における重要なポイントが丁寧に描かれていることに気づかされる。機能不全家族の子どもであり、依存症当事者のエルトンジョンが制作総指揮でなければ描けなかったであろうと思える場面がいくつもあった。そして、そのことに関連して印象深かったのはエルトン・ジョンがステージに向かう場面だった。

例えば、初めてのアメリカ「トルバドール」でのショーの直前、緊張でトイレに閉じこもっていたものの意を決してステージに向かう場面。ド派手な衣装に身を包み虚ろな表情でドラッグを吸引した後、ステージに踊り出ていく場面。ドジャースタジアム公演で、心身ともに瀕死の状態ながら小道具のバットを手にした瞬間、スイッチが入ったように表情を変え堂々とステージに登場する場面――いずれの場面でも、ステージに立ったエルトン・ジョンは直前までのネガティブな感情を一切見せず、水を得た魚のように、まさに「翼の生えたブーツ」を履いたように飛び跳ねていた。

けれど同時に、バックステージからステージに向かう過程を描いたこれらの場面は、エルトン・ジョンにとってステージに上がることは「感情を麻痺」させることだったことを示唆していた。アルコール、コカイン、セックス、買い物・・・そこで得ているのは快楽ではなく「感情の麻痺」なのだという、依存症の専門書に書いてある通りのことが、強く思い出された。同時に、エルトン・ジョンをロックスターにしたのは、その音楽的才能だけでなく、親との関係において幼い頃から自分の感情を押し殺すことに慣れていたことでもあったのかもしれないと思った。だから、エルトン・ジョンの目を見張るような奇抜なメガネや衣装は、エンターテイメントのサービス精神であると同時に、自分からも他者からも自分の感情を隠す仮面であり鎧であるように思えた。

映画冒頭の自助グループのミーティングでの自己紹介の中で、エルトン・ジョンは数々の依存症を挙げた後で、「癇癪持ち(anger managemnt)」と付け加えていた。彼にとって感情とは、「麻痺させる」か「爆発させるか」の二者択一しかなかったのだということを、依存症とは感情の問題でもあることを、伝えていた。

物語の終盤で、更正施設を訪ねてきた盟友のバーニーからまだピアノを弾かないのかと尋ねられ、「無能であること」ではなく「感情が戻ってくること」の恐怖が指摘される場面は、依存症の回復は依存対象を断つことであると同時に自分の感情を認め、受け入れることだと伝えていた。だから、自助グループでのミーティングの場面で、エルトン・ジョンは終始涙ぐんでいた。自分の心の深いところから湧き上がってくる悲しみを味わうように泣いていた。そしてその涙が次第に穏やかな涙へと変化していることが印象的だった。

 

3.「毒になる親」への答え

押しも押されぬ大スター、億万長者となった後でも、エルトン・ジョンは親の前では子どもの頃と同様に強張った表情をしていた。決して彼のニーズに応えることのない親への怒りが失望そして悲しみへと変化するその姿は、それらの感情が親の前では押し殺されているがゆえに余計に胸を締め付けられるものだった。特に、公衆電話から母親に自分が同性愛者であることをカミングアウトする場面の、今にも泣き出しそうな、怯えたような表情は、エルトン・ジョンにとって親という存在がいかに「恐ろしい何か」であったことを伝えていた。「なぜ自分は親から愛されないのか」という問いが、彼の人生の根源にある悲しみであり、苦しみであったことが痛いほど伝わってきた。この場面のタロン・エジャトンの演技は、「迫真」という言葉、あるいは「演技」という言葉すら超えた何かを感じさせるものだった。

映画の終盤、自助グループでのミーティングにおいて、エルトン・ジョンは彼の人生の「重要な他者」一人ずつと対話する。祖母、母親、父親、継父、真の愛情では結ばれなかったマネージャーのジョン、作詞家で生涯の盟友バーニーそして、幼き日の自分(本名のレジー・ドワイト)。

この場面で、家にピアノを置いていたこと、母親の趣味ゆえにエルビスプレスリーを教えリーゼントを許したこと、無関心ゆえに我が子が音楽の道に進むことに干渉しなかったことーーこれら以外には、「毒になる親」でしかなかった両親を前にして、大人になったエルトン・ジョンが幼き日の自分(本名のレジー・ドワイト)を抱きしめた瞬間が、この映画のハイライトであり、そして「なぜ自分は親から愛されないのか」という問いに対する答えなのだと思った。 

「父親にハグしてほしい」というささやかであるけれど決して叶うことのなかった幼き日のエルトン・ジョンの願いを叶えたのは、親でも恋人でも盟友でもなく、大人になった彼自身だったということ。幼き日の自分を抱きしめるエルトン・ジョンと、大人になった自分に抱きしめられる少年レジー・ドワイト。その二人の姿は、こう伝えているようだった。

心の底から変わってほしいと願ったけれど、自分の親は変えられない。けれど、自分は変わることができる。
喉から手が出るほどほしいと願ったけれど、自分の親からはもらえない。けれど、大人になった自分が与えることができる。

このことは、エルトン・ジョンの人生の中で数少ない、彼への変わらぬ「愛情」を保ち続けたバーニーが、更正施設での面会の別れ際に「自分で立ち直れ」とエルトン・ジョンに言い残して立ち去る姿と符号するように思えた。

 

4.ロックスターのイノセンス

エルトンジョンの名曲で華やかに彩られたミュージカルシーンも、稀代のエンターテイナーぶりを見せ付ける圧巻のライブシーンも素晴らしかった。けれど、それらと並んで、あるいはそれ以上に、若き日のエルトンとバーニーが互いの歌詞とメロディを交わし、「あの名曲」が誕生する瞬間の美しさが印象的だった。

夢が叶う瞬間、奇跡が起きる瞬間というのは、実はとてもさりげない控えめな表情でやってくるのかもしれないということ。

そして、この映画の中で私の一番お気に入りの場面は、初めてのアメリカに着いたエルトン・ジョンとバーニーが、車の中から「タワーレコード」の看板を見てキョロキョロする場面だ。うまく言えないけれど、そういうイノセンスと地続きだからこそ、どんなに大きなステージに立っても、どんなに派手な衣装を着ても、ロックスターは遠くならず、いつも私達のそばにいるのだと思う。だから、エルトン・ジョンの歌はいつも聴衆にこう語りかけているのだろう――「これは君の歌だ(this is your song)」、と。

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https://rocketman.jp/

THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2019-GRATEFUL SPOONFUL-(2019/7/7 さいたまスーパーアリーナ)

 “天道虫”で派手に幕を開けたライブだった。テーマの異なる4種類のセットリストのうち、今回は「ハート」のセットリストだった。タイトルに「LOVE」とある曲が多く歌われたけれど、そういう歌ほど、セックスと真正面から向き合う反面、愛と真正面から向き合うことに葛藤していて、「吉井和哉にとっての愛」の妙を感じた。

6月に横浜アリーナで観た「ダイヤ」のセットリストのライブと比べて、曲が変わるだけでなく、同じ曲であっても曲順が違うことで曲の印象が大きく変わることが新鮮だった。特に「ダイヤ」で1曲目だった“この恋のかけら”がライブの最後に歌われることで、曲が訴えかけてくるものが「問い」である以上に「答え」であるようなそんな気がした。「答えがない」ということを引き受けるという決意という意味での「答え」とでもいうような。だから、今のイエローモンキーは「安心」して観ていられる。

2曲目“ARLIGHT”の<何よりもここでこうしてることが奇跡と思うんだ>という歌詞がまさにそうであったように、恋人同士の歌であると同時に、バンドのことを歌っていると思える歌がいくつもあった。だからなのか、アリーナクラスにライブの演出の一翼を担うステージ上方と左右の大型スクリーンに、吉井和哉だけでなくエマ、ヒーセ、アニーが映し出される度に何ともいえない安心感・安定感のようなものが伝わってきた。3人の存在感がツアーごと、ライブごとに増してより一層「バンド」になっていることがイエローモンキー再集結の意味であり成果なのだと思った。

今回のライブは2階席最前列で、座席番号が「99」だった。ステージを真正面に見るその席からは、視界が何にも遮られずにステージだけでなくアリーナ席全体も観ることができた。特に、ライブの開始で流れる<砂漠にガソリン撒き散らし・・・>の歌が始まるとともに、真っ暗に暗転したアリーナ席の只中に音響や舞台演出のブースが、何台も並ぶディスプレイの灯りとともに浮かび上がった瞬間の、その光景がとても印象的だった。それは宇宙船のコックピットのようでもあり、有人飛行の宇宙船を打ち上げる地上管制塔のようでもあった。そして、その中にいる20人弱の人影の微動だにしない姿は、目の前に繰り広げられる「ショー」がもはや「失敗できないもの」の域にあるのだということを感じさせるものだった。
その一方で、吉井和哉がライブ中盤で語ったMCがとても印象的だった――「昨日ライブを観に来た、(今はもうバンドをしていない)かつてのバンドをしていた友人が、僕らのライブを見て『もう一度バンドがしたくなった』と言ってくれたことが、そんな感想がとても嬉しかったです」。このMCが象徴するように、どんなにスケールが大きくなろうとも、むしろスケールが大きくなればなるほどステージに浮かび上がるのは、生身の「ロックバンド」であることなのかもしれないと思った。後戻りできない時間の流れの中にあって、一分一秒確実に老いていく生身の身体を生きているという「ロックバンド」であることを、最新のハイテクノロジーの舞台演出を通して確認するということ。それは、ちょうど、ロンドンのハイドパークでローリング・ストーンズのライブを見た吉井和哉が2013年7月7日の七夕に、メンバーに「また僕と一緒にバンドをやってくれませんか」とメールを送ったというエピソード*1にも通じていることなのかもしれないと思った。

再集結後のイエローモンキーは「ロックバンドというドラマ」ではなく「ロックバンドという奇跡」を生きている、見せているーーそう思う瞬間がいくつもあるライブだった。本編終盤の“SUCK OF LIFE”で最後に吉井和哉が歌い上げる「LIFE」という言葉の意味の重さを感じずにはいられなかった。そんなライブだった。

ロックバンドが美しいのは、彼らが「不死身の花」ではない、からなのだろう。

THE YELLOW MONKEYセットリスト(2019/7/7)
天道虫
ALRIGHT
Love Communication
Love Homme
楽園
Love Sauce
Stars
パール
Changes Far Away
SO YOUNG
Ballon Ballon
追憶のマーメイド
Titta Titta
LOVE LOVE SHOW
SUCK OF LIFE
I don't know

 

―encore―
Horizon
バラ色の日々
悲しきASIAN BOY
この恋のかけら

*1:このエピソードが若干の「歴史の修正」を伴うものであったことがアンコールの“バラ色の日々”のイントロで暴露されたけれど、ファンがさしてたじろがないという(笑) 。

THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2019-GRATEFUL SPOONFUL-(2019/6/11 横浜アリーナ)

19年ぶりのオリジナルアルバム『9999』と同じく“恋のかけら”で幕を開けたライブは、「30周年」という時の流れを感じさせないというよりも、時の流れを味方につけたバンドだけが醸し出す「円熟」と「新鮮」が同居したライブだった。ロックバンドとして「脂が乗っている」とはこういうことを言うのだろうと思った。

照明やプロジェクションマッピングなど最新の舞台演出のテクノロジーを活かしたライブであったけれど、そうしたテクノロジーの進歩に見合うスケールのライブ(動員、演奏力ともに)をこの2019年にできるということが、イエローモンキーが「選ばれている」と同時に「背負っている」バンドなのだと感じさせた。

ライブ中盤の“Changes Far Away”だったか、吉井和哉は映画『ボヘミアン・ラプソディ』のフレディ・マーキュリーのように腕を振りかざしていた。その瞬間が象徴するように、ライブ中何度も「映画みたいだ」と思う瞬間があった。宝石のように光を反射するステージも、大型スクリーンに映し出されるメンバーの姿も、どの瞬間も映画のワンシーンのようだった。もはやイエローモンキーは存在自体が「映画」で、バンドの演奏以外の演出は不要でさえあるのかもしれないと思った。そう思っても不思議なないくらいその演奏は、歌は、初めてライブで聞く曲も何度もライブで聞いている曲も胸に強く響いてきた。「映画みたいだ」と思うのと同じくらい、何度も涙がこみ上げてきた。

今回のツアーでは、テーマの異なる4種類のセットリストが各ライブにトランプのマークで割り振られていて、この日は「ダイヤ」だった。吉井和哉は「イエローモンキーの中でも宝石のような曲を集めました」と言っていた。その言葉の通り、水面、ガラス、鏡、瞳――といった光を反射してキラキラとした切ない何かを思い浮かべるような曲で構成されたセットリストは、新作『9999』とそれ以外の曲とのバランスが絶妙だった。特に、“天国旅行”から“Changes Far Away”へという死からの再生を彷彿させる流れと、その“Changes Far Away”から間髪入れずに“JAM”へ繋ぐ流れは圧巻だった。『9999』の曲と並ぶことでバンドの代表曲の印象が変わることがとても新鮮だった。と同時に、このことは、『9999』の曲がどれも代表曲に比して遜色のないタフさを秘めていることを感じさせるものだった。

今回のライブでは、吉井和哉のボーカリストとしての存在感と同じくらい、エマ、ヒーセ、アニーの存在感を感じた。「ロックバンド」というものの不思議さを思った。家族のようだけれどどんな人間関係にも喩えられない何かがあり、そこにあるのは友情だとしても友情だけでは続けられない何かがある――その「何か」がロックバンドにしかない美しさや切なさの本質なのかもしれないと思った。そしてその「何か」こそが、吉井和哉が人生を捧げると誓ったものなのだということ。

アッシュがかった茶色の髪とラベンダーのボウタイブラウスの吉井和哉はとても美しかった。そして、とてもいいライブだった。

THE YELLOW MONKEYセットリスト(2019/6/11)
恋のかけら
ロザーナ
熱帯夜
砂の塔
Breaking The Hyde
聖なる海とサンシャイン
Tactics
天国旅行
Changes Far Away
JAM
Ballon Ballon
SPARK
Love Homme
天道虫
バラ色の日々
悲しきASIAN BOY

 

-encore-
Titta Titta
太陽が燃えている
SUCK OF LIFE
I don't know