b-flower 『the very best of b-flower』

かつて、10代でロックと出会って間もなくして、「自分の好きな音楽について自分が書いた文章が音楽雑誌に掲載されること」が、私の夢になった。そして、20歳の春、『rockin'on JAPAN』という雑誌に、あるバンドについて書いた私の文章が掲載された。その文章は、b-flowerというバンドの『ペニーアーケードの年』というアルバムについて書いたものだった。
それからずっと、自分の好きな音楽について文章を書くことは、私の夢であり続けている。だから、自分の好きなバンドやアーティストについての文章を書いてブログを更新するたびに、私は夢を叶えている。そして、20歳のあの春から長い月日が流れ、今こうしてb-flowerのベスト盤について文章を書くことで、私はまた一つ夢を叶えることになる。


1. 揺るぎない個性と進化(深化)
出会いは、偶然ラジオから流れてきた“April Rain”。イギリスのインディーズギターバンドやネオアコースティック直系のメロディと、英米文学をも髣髴とさせる文学的な歌詞というバンドの魅力もさることながら、その奥に透けて見える「自分達の美意識は1ミリも譲らない」という静かな意志に「ロック」を感じた。繊細で美しい音楽であること自体による「世界」に対するプロテスト――その印象は、このベスト盤を通して改めてb-flowerの歩みに触れて、より確かなものになった。そして、ほぼリリース順に配置された曲順による2枚組のこのベスト盤を聞くと、揺るぎない個性を保ちながら進化(深化)を遂げてきたバンドの姿が浮かび上がってくる。
主に本作Disc1収録の1stEP『日曜日のミツバチ』(1990)から3rdアルバム『World's End Laundry』(1993)までは、バンド名の由来である詩人リチャード・ブローティガンや、1stアルバムの表題曲“ペニーアーケードの年”の下敷きとなっているスティーブン・ミルハウザーの小説『In The Penny Arcade』にも通じる、文学的な想像力によって「ここではないどこか」を夢見るような世界観が色濃い。けれど4thアルバム『Groccery Andromeda』(1995)から兆した変化は、Disc2収録の5thアルバム『CLOCKWISE』(1996)以降にはっきりと表れてきた。『CLOCKWISE』以降には、「繊細で文学的なギターバンド」というイメージに囚われずにバンドの元々の音楽性の幅広さを生かし、その音楽によって現実から逃避するよりもむしろそれを自分なりに描いていこうとするしなやかな力強さがある。そして、その力強さの奥には、現実の日常的なありふれてさえいる風景を「文学」として成り立たせてしまう詩才がある。“臨海ニュータウン”のコンビナートに沈む夕日や“明星”の川の土手を走るバスは、見慣れた風景の中に発見する美しさと優しさが、舟の錨のように、自分というちっぽけな存在をこの世界につなぎとめてくれるのだと告げているようだ。

向こうの土手を バスが1台
うろこ雲から 星がのぞいて


涙がこぼれそうさ すべてが愛しくて
川の泥に眠る 古い思い出のように
(明星)

Disc2の終盤に収められた2ndアルバム収録の“動物園へ行こうよ”の2014年ヴァージョンが、「逃避の歌」に聞こえないのは、そうしたバンドの進化(深化)に重なっているように思う。“日曜日のミツバチ”の印象が強い人にこそ、本作のDisc2を聞いてほしいと思う。


2. 詞の中の野性(野生)
このベスト盤を聞いて、改めて八野英史の詩才について考えた。心が揺れるフレーズをあげればきりがない。その中でも改めて印象に残ったのは、声優の国府田マリ子に提供した“コバルト”(セルフカヴァー)の中このフレーズ。

耳たぶをぶつけあって笑ったり 恋の深みを泳ぐよ
いつかは実る花のようにね 花のようにね
くちびるの端っこでキスをして 揺れる景色を見ている
僕らは蒼い風のようにね 風のようにね
(コバルト)

その可憐なメロディとアレンジも含めて、うまく言葉にならないまま「見事だなぁ」と溜息をつくしかなかった。それほどに、静かに感動した。
八野英史の詞は、ロマンチックではあるけれど、感覚的というよりは写実的で、抽象的というよりは具体的なのだと、発見した。特に、自然や身体という野性(野生)――移ろいやすく微細で周縁的なそれら――が詞の中にさりげなく織りこまれることで、その風景が微かに生々しく感じられところに、テクニックを超えた詩才というものを感じる。そして、その詞と同じく、あるいはそれ以上に「歌う」メロディとバンドのアレンジが、b-flowerの音楽を<嘘みたいにキレイな色>(永遠の59秒)にしている。


3. 美しい曇り空
b-flowerのCDジャケットは、これまでもずっとその音楽のイメージを端的に象徴するような印象的なものばかりだった。そして、今回のベスト盤のジャケット。一目見て「あぁ、b-flowerだ!」と感激した。遊園地と、曇り空――b-flowerには曇り空がよく似合う。b-flowerの音楽に出会ったことで、私は「曇り空の美しさ」を感じるようになった。
思えば、2ndアルバム『太陽を待ちながら』のジャケットや表題曲だけでなく、“日曜日のミツバチ”や“動物園へ行こうよ”など、b-flwerの曲では、曇り空が印象的に描かれている。

寒そうな冬の海 今はもう 君と僕ふたりきり
変わらないスピードで 言葉交わしては
明るい灰色の空を見る
(North Marine Drive)

この詞にあるように、b-flowerの歌う曇り空は、単なる灰色の空ではないということ。明るい青空ばかりではないという苦い現実と、その空の向こうに太陽があるという信頼と、その空の向こうから再び太陽が顔をのぞかせるという予感――b-flowerは、これらを美しく、驚くほど繊細で鮮やかな色使いで歌うことができるバンドなのだということ。その意味でも、やはりこのバンドは唯一無二の存在だと思う。


この文章の冒頭で、私は、この文章を書くことで「また一つ夢を叶えることになる」と書いた。そして、この文章は私にとっては「一つの夢」であると同時に「一つの奇跡」でもあるように感じている。長い時間を通して、b-flowerの音楽が変わらずに私の心に届くということ――その「奇跡」に心から感謝したい。


http://www.breast.co.jp/theverybestofbflower/

*****

2017年1月13日、b-flowerのメンバー岡部亘さんが急逝されました。どう受けとめてよいか分からず、何をどう言葉に表してよいかも分かりません。バンドメンバーや関係者の方々の心情を思うと、胸が塞がれるような気持ちです。今はただ、b-flowerの音楽に出会えたこととその音楽からもらった感動について岡部さんに感謝するばかりです。岡部亘さんのご冥福をお祈りいたします。

THE YELLOW MONKEY SUPER メカラ ウロコ・27(ライブビューイング)(2016/12/28 シネマイクスピアリ)

ほぼ毎年武道館で見届けていたこの日のライブを、今年はライブビューイングで見た。
開演前の武道館の会場には、席に着くとスクリーンに映し出された武道館の会場には、デビッド・ボウイの“ジギー・スターダスト”が流れ、ステージ上ではパッヘルベルの“カノン”の弦楽奏が演奏され、ライブを前にした興奮以上に、得たいの知れない切なさが押し寄せてくる。「年の瀬」という時期も含めて、イエローモンキーの武道館公演というのは、来し方行く末に思いを馳せる時のような、何とも言えない透明な感情を呼び起こす。

1曲目の“MORALITY SLAVE”に始まって、続く“DRASTIC HOLIDAY”の演奏が始まった時点で、このライブはちょうど20年前のまさに今日武道館で行われた「メカラ ウロコ・7」を意識したというよりも、それをSUPERに進化させて再現するという意図のライブなのだと思った。バンド結成時からブレイク前の3rdアルバム『jugar harad pain』までの繊細で複雑な美意識と、それをファンに突き付けて問うという「試し行動」のような屈折した愛情に貫かれたコンセプト。本編の最後に「フリージアの少年」を持ってきたことにも、その思いが強く表れていた。そのせいか、吉井和哉の表情には、かつてのイエローモンキーの時にそうであったような、ロックスターらしい「底意地の悪さ」が感じられもして、「あぁ、そうだった、こういう表情で歌っていたんだった」と少し懐かしくなったりもした。それは「アーティスティックな復讐心」を秘めた表情だった。
武道館で観れなかったことは残念ではあったけれど、ライブビューイングで観たことで、とても印象的な吉井和哉の表情に涙がこみ上げてきた場面があった。
ひとつは“聖なる海とサンシャイン”。<人が海に戻ろうと流すのが涙なら抑えようないね/それじゃあ何を信じ合おうか>と歌った吉井和哉の表情は今にも泣き出しそうというよりもすでに泣き顔で、「愛を乞うひと」だと思った。そしてもう1つは“SUCK OF LIFE”の最後<YOUR LIFE>と歌い切った後の、勝ち誇ったようでいて今にも負け惜しみを口にしそうな、相反する感情を湛えた表情。こういう複雑な、けれど同時に心に刻まずにはいられない表情を見せるから、吉井和哉は「ずるい」と思う。けれど、その「ずるさ」こそがステージでは花として映えるのだということ。

今回のライブで個人的に一番良かったのは、中盤の“パンチドランカー”。演奏の前に「バンドにとってのチャンピオンベルトのような曲」と紹介された通り,無敵で圧倒的なロックンロールだった。この曲からライブの潮目が変わったと思えた。それまでの回顧的で復讐心を湛えた雰囲気が、挑戦的で闘争心を感じさせる雰囲気になった気がした。復讐と挑戦――どちらも、「ザ・イエローモンキーの歩み」というひとつのことの2つの側面であるけれど、個人的には、再集結後に「SUPER」となった今のイエローモンキーには、復讐よりも挑戦が、リベンジよりもチャレンジが似合う気がした。もうこのバンドは、「被害妄想」の似合わない地点にいるように思ったから。

ライブ後、「特報」として来年の東京ドーム公演が発表された。やはり、2001年の1月8日の東京ドームでの活動休止前のラストライブを思い出さざるを得ない。けれど、新たに臨む東京ドームでのライブは、2001年の東京ドームのリベンジでありつつも、新たなチャレンジであり、新しいイエローモンキーを生み出すライブになってほしいと思う。

THE YELOOW MONKEY セットリスト(2016/12/28)
MORALITY SLAVE
DRASTIC HOLIDAY
FAIRY LAND
SCOND CRY
FINE FINE FINE
VERMILION HANDS
聖なる海とサンシャイン
FOUR SEASONS
SHOCK HEARTS
RED LIGHT
セルリアの丘
パンチドランカー
SWEET&SWEET
太陽が燃えている
SUCK OF LIFE
FATHER
フリージアの少年


―encoe―
This Is For You
真珠色の革命時代(Pearl Light Of Revolution)
Subjective late show
砂の塔
おそそブギウギ〜アバンギャルドで行こうよ
悲しきASIAN BOY

劇団フライングステージ第42回公演『Family,Familiar 家族、かぞく』『Friend,Friends 友達、友達』(2016/11/05 下北沢OFF・OFFシアター)

同性カップルの結婚に相当する関係を認める渋谷区の条例や世田谷区の要項が相次いで成立し、同性愛者、結婚、家族をめぐる制度にとってひとつの節目となった2015年。その2015年の11月、今からちょうど1年前に上演された『Friend,Friends』と、その物語の登場人物達のその後を描いた続編『Family,Familiar』。今回、物語を時系列に追う形で『Friend,〜』から『Family,〜』という流れで観て、制度ではない「家族」の本質というようなものを『Family,〜』の中にいくつか感じた。


1.ただくっつくこと
『Family,〜』は、『Friend,〜』でパートナーシップ証明書を手に入れたゲイのカップルのその後も含めて、家族というものに対する懐疑的なまなざしをも含みつつ、どの家族のあり方(独身者も含めて)も否定しない温かさに貫かれていた。それは、セクシャリティや年齢、立場によらず、どの登場人物も自分の幸福を追うことに率直だったからだと思う。その率直さは「エゴイスティック」と表すこともできるのかもしれないけれど、自分にも他者にも犠牲や罪悪感を強いることなく「家族」であろうとするということは、こういうことなのかもしれないと思った。
パートナーシップ証明書を得て晴れて「結婚」したゲイのカップル(雅人と尚之)が、「別れた」後も制度としての「パートナーシップ」は解消せずにその証明書を持ち続ける(しかも、それをゲイの青年の両親が望む)姿は、制度としての結婚の持つ両義性(愛の証明/関係維持装置)を浮かび上がらせつつ、それも呑み込んで共に生きようとするしたたかさとしなやかさを感じさせた。
その一方で、同居しながらも自分達の関係を保証する公的な書類を作成せずに死別したもう一組のゲイのカップル(耕司と二朗)の、パートナー亡き後も(亡き後にこそ)自分達の愛を自分にも相手にも周囲にも説明し続ける姿は、苦しくもあるけれど純粋で美しかった。中学生の体を借りて、パートナーである恋人の二郎に自分の思いを伝えに来た耕司(故人)が、二朗を抱きしめるうちに心が満たされ伝えたいことを忘れてしまうその姿は、「結婚」や「家族」といったことのもっとずっと手前にある、「共にいること」の原初性を体現しているようだった。
ただくっついていたい、ただぬくもりを感じていたい――それが始まりであり、そこに「結婚」や「家族」という制度が介在してもなお、人はそこに辿りつこうとしているだけなのかもしれないということ。


2.魚肉ソーセージと玉ねぎと…
さまざまなカップル、家族の物語が交錯し合う『Family,〜』のなかで、ハイライトは、急に一緒に暮らすことになったレズビアンカップルの子ども(母親の連れ子同士)の雄太とひかりが、二人だけで料理を作る場面だった。その料理は、魚肉ソーセージと玉ねぎと卵を炒めて焼肉のたれで味つけして、ご飯にのせたもの。料理を作り食卓に並べ、食べるという一連の所作が、暗い光の中ほぼ無言で、映画の長回しのように展開されたこの場面は、自分自身の選択というよりは親の都合で「家族」となった二人が、自分達の意志で歩み寄り、共に暮らすことへと一歩踏み出そうとした場面だと感じた。
家族を象徴する食事や食卓。この物語の中でも、すき焼き、手巻き寿司、バーベキュー、いも煮と、母親やその知人達が二人の子どもに食べさせる料理はいくつも出てきた。けれど、その中でほぼ唯一、ともに食卓につき、ともに箸を口に運ぶ姿が描かれたのがこの場面だった。そして、それが劇中で最も幼い二人の、子ども同士の食事の場面だったことに、いろいろなことを考えさせられた。
母親から「何これ?」と言われた魚肉ソーセージの料理。それは、名前のない、料理とも呼べない料理ではあるかもしれないけれど、不器用ながらも自力で自分と他者を満たそうとし、それを分かち合おうとすることにこそ、「家族」というものの根っこがあるような気がした。だから、雄太が魚肉ソーセージの料理に大量のマヨネーズをかけるのを見て、一度は「いらない」と言ったマヨネーズを「ちょうだい」と求めたひかりの姿に、彼らが「家族」となる未来を予感した。


3.ずうずうしい親
これまで劇団フライングステージのお芝居に登場する「ゲイの家族」というと、「同性愛者の子どもを持つ親」だった。それが今作で初めて「同性愛者の親を持つ子ども」が登場したところに、この20年間の日本における同性愛者を取り巻く状況の変化と、それに寄り添い考え続けてきた主宰者の関根さんの一貫した姿勢と、劇団フライングステージの歴史を感じた。そして、初めて登場した「同性愛者の親を持つ子ども」達の姿を、その心の揺れ動きを、丁寧に描いた点に『Family,〜』の一層の奥行があったと感じた。
中学生の雄太と大学生のひかりを育てる友里も英子も、常に子どもと対話し、子どもを思う優しい親である。けれど、引っ越しにあたって友里は「学区は変更しないようにするから」と言いつつも、経済的な事情で結局は雄太の学校区を変更せざるを得なくなる。また、転校先の中学校で雄太が同性婚の親を持つ子どもであることをからかわれて不登校になった時に、友里はクラスメイトの前で自分達家族のあり方を説明すると担任に申し出る一方で、担任に指摘されるまで雄太との時間をより増やすことには思い至らない。ひかりが父と離婚したことを母親に詰め寄る場面で、「愛していたのよ」「仕方なかったのよ」とひかりに説明する英子の姿は誠実ではあるけれど、子どもにとってはやはりそれは「親の都合(エゴ)」なのかもしれないと思った。自分達の老後のために、ゲイの息子の代わりに留学生を自宅に住まわせようとした(結局は息子の友人の甥を住まわせることにした)雅人の両親も含めて、物語に登場する親は皆、「子ども」の立場からすると、善人ではあるけれどどこかずうずうしい感じがした。そのことに親自身が無自覚であることも含めて。
批判しているのではない。そのセクシャリティに関係なく、親というものは本質的に子どもにとって「ずうずうしい」存在なのだということ。と同時に、自己犠牲を装って子どもに献身することで子どもを縛りつける親よりも、自分の幸福を追求しながらずうずうしく存在する親の方が子どもにとっては有り難いのかもしれないと思う。親のずうずうしさを梃子に、自分自身の欲望にも素直に向き合い、ずうずうしい親の膝の上から飛び出す権利が、子どもである彼らには保障されているのだから。


4.「問い」としての家族
2つのお芝居を見て、「家族」とは「問い」なのだと感じた。愛情や血縁、戸籍といった「答え」を持つことで家族になるのではなく、それらの「答え」を問い、それらの「答え」から問い返されることが家族であるということなのかもしれないと感じた。その意味で、「家族」とは、完成形の見えない、永遠に描きかけの何か、建築中の何か、なのかもしれない。にもかかわらず、もし「家族」に答えがあるとするならば、その答えは「答えは一つではない」ということなのだろうとも感じた。

『Freind,〜』とともに『Family,〜』でも、中嶌聡さんがとても印象的だった。さまざまな役で登場するたびに、その役の色とともに舞台の空気が変わるようだった。特に、耕司として舞台監督としてセリフはなくとも、糸がこんがらがるように複雑に展開する物語を見守る姿が印象的だった。それと、石関さんの横顔の美しさと、関根さんのホームヘルパー姿(鉄板)。


http://flyingstage.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/42familyfamilia.html

ay8b.hatenablog.com

ザ・クロマニヨンズ 『BIMBOROLL』

ザ・クロマニヨンズ10枚目のアルバム『BIMBORLL』。ブルースハープが鋭角的に突き刺さってくる“ペテン師ロック”で幕を開けて、一気に疾走する36分13秒。

アルバムのリリースに合わせたさまざまな媒体でのインタビューでは、徹底して「何も考えていない」と創作の意図を明かさないというよりも創作の意図などというものの存在自体を否定するヒロトマーシー。彼らは何も主張していないようでいて、ロックンロールとは意図ではなく衝動であるべきであり、それは説明するものではなく行為するものだという美意識を体現しているようだ。
そして、このアルバムの3曲目“ピート”を聞いたとき、あぁそうだ、たとえそれがヒロトマーシー自身の言葉であったとしても、もはや言葉での説明など不要なのだと思った。

かたちじゃないよ ピート 言葉でもない
夢見るときの ピート 心のような


だから いますぐ ピート
その ギブソンで ピート
ぶっ壊してくれ 僕の 部屋


おお マイ・ジェネレーション
おお マイ・ジェネレーション

その名もずばりのタイトルを持つ、ザ・フーピート・タウンゼントに捧げたこの曲は、<ピート>という掛け声のフェイドインから始まってその名前を何度も呼び、<おお マイジェネレーション>と締めくくられる。まるでロックンロールに出会ったばかりの中学生がノートに書き殴ったような歌詞。それが雄弁に赤裸々に語っているように、ロックンロールとはそれに心を奪われたときの部屋ごと爆発したような、心が受けた衝撃そのものであり、形でも言葉でも表現しえないということ。あるいは、それはその衝撃によって刻まれた「魂の皺」のようなものなのかもしれない。
この曲を聞いてしまうと、ザ・ブルーハーツの“パンク・ロック”の<パンク・ロックが好きだ/中途ハンパ半端な気持ちじゃなくて/ああ やさしいからすきなんだ/僕 パンク・ロックが好きだ>というロック史に残る慧眼なフレーズさえも、説明過剰と思えてしまう。それほどに、この音楽は「夢見るときの心」そのものであろうとしているようだ。

“光線銃”で<新しいとか 古いとか/それよりもっと ただ好きだから>とロックンロールへの愛を告白した後に<誰からも 見えない 子供>というフレーズを続けるヒロトは,自分の身に起きた奇跡が誰にも気づかれないという孤独と、誰にも気づかれなくても構わないという覚悟の両方を知っているのだろう。そして,その後に続くアルバム最後の“大体そう”で<たいていの日は 特に何もない/大体そう それでいいのだ>と、マーシーらしい飄々とニヒリズムをかわすしなやかな逞しさが印象に残る。
ロックンロールへの愛情というには生ぬるいほどの覚悟と、「今・ここ」を肯定する生命力――この2つを燃料に、ザ・クロマニヨンズの『BIBBOROLL』は回転している。

そして、また、クロマニヨンズのツアー(2016年11月から2017年4月まで、66本!)が始まる)。ライブで化けたようにかっこよくなると予想しているのは“誰がために”。

BIMBOROLL

BIMBOROLL

友部正人 ニューアルバム「ブルックリンからの帰り道」発売記念ライブ(2016/09/22 STAR PINE'S CAFE)

新作『ブルックリンからの帰り道』発売記念ライブ。最近のライブですでに演奏されていて聞いたことのある曲も、初めて聞く曲も、「ニューアルバム」という額縁に縁どられることで、改めて新鮮な気持ちで聞くことができた。「『友部正人』というバンドがあるとしたら、彼はずっとそのメンバーでした」と紹介されたゲストミュージシャンの水谷紹さんとの演奏は、友部さんと水谷さんが互いに信頼し、尊敬し、そして何より一緒に演奏することを楽しんでいることが演奏から伝わってくるようだった。曲ごとに、ではなく1曲のなかでピアノ、ギター、サックスと何種類もの楽器を持ちかえて(!)演奏する水谷さんのさりげなくも温かい存在感が印象的だった。
友部さんの歌とギターはいつもより力強く荒削りな感じがしたけれど、今回のライブには、山川のりを新井田耕造ら、新作のレコーディングに参加したメンバーはスケジュールが合わなくて参加できなかったと言っていただけれど、バンドの編成になると新作の曲はまた印象が変わるのだろうなと思った。

新作はそのアルバムタイトルが示す通り、友部さんが生活するニューヨークや日本での生活を歌にしたものが多く(マラソンをモチーフにした曲が2曲)、友部さんには「歌うように暮らし、暮らすように歌う」というフレーズがぴったりだと思った。
個人的には、昨年の3月id:ay8b:20150315に詩集『バス停に立ち宇宙船を待つ』の刊行に合わせたライブ「バス停で待っている」で聞いたときに、1度聞いて好きになった“From Broocklyn”がやはりとても良かった。

楽器ななかなかうまくならなけれど
未来は必ずやって来る
ブルックリンからの帰り道
悲しみを理由にしない旅が始まる

タヒチを思い浮かべる時にゴーギャンの絵を浮かべてしまうように、いつの間にか私にとってニューヨークを思い浮かべることは友部さんの歌を思い浮かべ、口ずさむことになってしまったように思う。そして、それはこの曲の健やかさに連なって、いつか「悲しみを理由にしない旅」として、ニューヨークに行ってみたいと思った。

友部正人セットリスト(2016/09/22)※少しうろ覚えで、一部曲が欠けていたり曲順が不正確です。
働く人
私はオープンしています
隣の学校の野球部
壊れてしまった一日
愛について
古い切符
少年とライオン
風邪ひき男のララバイ
ニューヨークシティマラソンに捧げる
見えないゴール
さわがしい季節
彼女はストーリーを育てる暖かい木
6月の雨の夜、チルチルミチルは
マオリの女
From Brocklyn


−encore1−
夕日は昇る
クジャクのジャック
僕は君を探しに来たんだ


−encore2−
一本道
遠来

SHINJUKU LOFT 40TH ANNIVERSARY 40YEARS×40LIVES FIRST DAY SPECIAL 2MAN ザ・クロマニヨンズ×ニューロティカ(2016/09/01 新宿ロフト)

岡山っていうところあって、今もあると思うけど、岡山から上京してきて僕が憧れた東京は、六本木でも銀座でもなく、新宿ロフトでした」―-新宿ロフト40周年を記念するライブシリーズの初日。このMCはもちろん、そのライブ全体を通して、ヒロト新宿ロフト、そして対バン相手のニューロティカに対する愛着と敬意が感じられる場面がいくつもあった。ヒロトが「あっちゃん」と言う度に、会場全体が何とも言えず温かい空気になるところに、ニューロティカの、あっちゃんの存在感を感じたりもした。

ほぼ全てのシングル曲で構成されたセットリストの中で、むしろハイライトはライブ中盤の“草原の輝き”と“底なしブルー”だったのかもしれないと思った。鉄壁のリズム隊に、マーシーのギター、ヒロトのハープが絡まる間奏が、間奏ではなくサビなのだと納得するほどのかっこよさ。
そして、個人的には6曲目の“スピードとナイフ。曲のイントロ、ベースが鳴った瞬間に思わず声を上げて飛び上がった。

変わらないものなんか 何ひとつないけど 
変わるスピードが 違ったんだなあ

心を切るナイフ ためらい知らぬナイフ
ひとふりひと太刀で 別々の傷をつけた

変化に抗うことなくそれを認め、「傷をつけられた」ではなく「傷をつけた」と歌うということ。別れに伴う諦めや被害者意識を拭い去る歌は、心を自由にしてくれる。そういう歌を「ロックンロール」と呼びたいと思った。
ザ・クロマニヨンズはかっこよかった。いつもかっこいいけど。

ザ・クロマニヨンズセットリスト(2016/09/01)
弾丸ロック
タリホー
ギリギリガガンガン
紙飛行機
今夜ロックンロールに殺されたい
スピードとナイフ

オートバイと皮ジャンパーとカレー
エイトビート
グリセリンクイーン
草原の輝き
底なしブルー
突撃ロック
雷雨決行
ナンバーワン野郎
エルビス(仮)
クロマニヨン・ストンプ

付記:ヒロトが「今日はあっちゃんがいっぱいしゃべったから」と言ったとき、「いや、あっちゃんいつも通りよ…」と思った観客は多数だったはず(笑)。

SUMMER SONIC 2016(2016/08/21 QVCマリンフィールド&幕張メッセ)

4年前に吉井和哉がソロで出演した時のことを思い出した。ライブというよりもその時の天気のことを。ライブが始まってから雨が本格的に降り出して、降ったり止んだりしながら最後には晴れて虹がかかっていた――という、そんな展開の空模様は、今にして思えば、イエローモンキーの活動休止から解散、そして再集結までの吉井和哉のキャリアの隠喩のような気がした。そして、夏の終わりを予感させる少し厚い雲のかかった空の下、ザ・イエローモンキーのライブが始まった。
1曲目は、この曲を1曲目に予想し得た人はおそらく絶無と思われる“夜明けのスキャット”。豪奢かつ清楚な白いドレスの由紀さおりがほぼオリジナル通りのギターのイントロに乗って登場した後、会場中に漂ったポカーンという空気の中を、ゆっくりと堂々と、そして「してやったり」な表情で吉井和哉は登場した。この「裏をかく」演出が、イエローモンキーの長年のファンにとっても、イエローモンキーが初見となるフェスの観客にとっても、「予想を裏切る」ものであったと同時に「期待に応える」ものであったところは、流石だった。
そして、真夏の野外で“夜明けのスキャット”を聞くという贅沢な時間を通して会場中の「ザ・イエローモンキー」への期待を最大値にまで高めたところでの、2曲目の“BURN”そして“ROCK STAR”という流れは、期待通りでありつつ軽く期待を超えて、イエローモンキーのライブの色気と迫力を見せつけるものだった。
ステージを挟む左右のスクリーンには、度々アリーナの観客がアップで抜かれていて、ライブ前半は涙ぐんでいるような感無量といった表情の女性が多かったけれど、ライブが進むにつれて熱唱する男性が多くなっていたのが印象的だった。そして、イエローモンキーの後に出演するバンドの存在があるにせよ、途切れることなく観客がアリーナに入り続け、両手を捧げる観客の波がアリーナの後ろまで広がっていったことが、この日のライブの良さを何より証明していたと思う。そして、そのことをバンド自身が感じながらのライブだったように思う。まさにちょうど、“楽園”の<君が思うほど僕は弱い男じゃないぜ>で、吉井和哉は「僕」を「僕ら」と自分達を指さすように歌っていたように。
いいライブだった。そして、吉井和哉は「幸せ」そうだった。

ザ・イエローモンキーセットリスト(2016/08/21)
夜明けのスキャット(with 由紀さおり)
BURN
ROCK STAR
ALRIGHT
SPARK
楽園
バラ色の日々
パール
LOVE LOVE SHOW
JAM


付記:レディオヘッド
マリンステージのヘッドライナーはレディオヘッドサカナクションのライブ後、大がかりなセットチェンジと入念なサウンドチェックの間、渋谷公会堂で来日公演を観たのはもう20年(!)も前だったのかと思うと少し不思議なような、感慨深い気持ちになった。嫌いになったわけでも明確なきっかけがあったわけでもなく『KID A』以降、いつの間にかこのバンドの音楽を聞かなくなった理由を思い出そうとしたけれど、思い出せなかった。けれど、久しぶりに聞いた“NO SUPRISES”と“LET DOWN”には、やはり泣きそうになってしまった。
長い時を経て観たレディオヘッドはやはり「レディオヘッド」としか言えない音楽で、トム・ヨークは相変わらず「トム・ヨーク」だった。オレンジ色の粗い画像でメンバーを部分的に映すステージセットも兼ねたスクリーンは、決して明確にトム・ヨークの表情を映すことはなかった。限りなくエモーショナルでありながらどこか無機質で、心に刺さるようでありながら埋めがたい距離を感じさせるそのライブは、このバンド自体が「ロック」や「ロックフェス」の構造的な逆説を批評しているように感じた。
アンコールの“CREEP”――イントロのギターの最初の一音が鳴ったその瞬間、会場全体から悲鳴のような歓声が湧き上がった。<I'm a creep(僕はクズ)>というフレーズがが会場中を埋め尽くす歓喜と感動とともに歌われ、<I don't belong here(ここは僕の居場所じゃない)>というフレーズを歌うロックスターが拍手と喝采を浴びるという逆説。その逆説が突きつける矛盾をどう説明していいのかは分からない。けれど同時に、その矛盾を超えて余りある“CREEP”という曲の美しさもまた確かなことだと思った。