劇団フライングステージ第46回公演『Rihts, Light ライツ ライト』(2020/11/06 下北沢OFF・OFFシアター)

就職面接において、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染していることを告げなかったことを理由に内定を取り消されたことは違法だと訴えた「HIV内定取消訴訟」をモチーフにした物語。その原告男性へのインタビューと裁判記録を基にした「フィクション」である今作は、「人権(Rights)」のために闘う人たちが「光(Light)」のある方へと向かっていく物語だった。

 

1.2×3×3×3
HIV内定取消訴訟」を軸として、社会福祉士の主人公翔太が新たに働くこととなったコロナ禍の高齢者福祉施設を舞台に、2つのウイルス、3つの職場、3つの訴訟、そしてそれらを生きてきた3つの世代がモザイクのように交錯しながら展開する物語は、非常に多面的な構造であるにもかかわらず、劇団フライングステージのお芝居の中ではむしろとても簡潔で率直な印象だった。その要因の一つは、主人公の翔太が時に悩みつつも、基本的には自分が何を求めているのか理解し肯定している青年だからなのだろう。彼のまなざしは繊細ではあるけれど健やかで、まっすぐに前を見て立っていた。

 

2.カミングアウトされる側の姿
印象的だったのは、翔太が自分がHIV陽性者であることやゲイであることを職場の上司・同僚や家族に告げる場面の、その告げられた側の姿――うろたえたり、冷静であったり、好奇心をのぞかせたりと幅はありながらも、彼らは速やかに翔太のカミングアウトを受け入れ励ましていた。と同時にその「彼ら」がいずれも女性であり、翔太が母と妹には自分がゲイであることを明かす一方で父親には明かしていないことが、幾分示唆的な気がした。
翔太のカミングアウトを受け止める側の人々の表情の多様さは、問われるべきは「カミングアウトする側」ではなく「される側」にあるのだということを示しているようだった。劇中に登場する3つの訴訟の意味もまた、そこにあるのだと告げているようだった。セクシャルマイノリティに関わる社会の課題は、セクシャルマイノリティ側の問題ではなく、彼らを取り巻く側の問題なのだ、と。

 

3.当事者としての訴訟
物語では、「HIV内定取消訴訟」だけでなく「府中青年の家事件」と「一橋大学アウティング事件」の訴訟も物語に登場させつつ、それを単なる「史実」として扱うのではなく、登場人物をそれらの当事者として描いていた。日本のセクシャルマイノリティ史において重要な意味を持つであろうこれらの訴訟が、当事者の時を経ても薄まることのない感情によって現在につながるリアリティあるものとなっていた。

「府中青年の家事件」の裁判の傍聴時に自分以外のゲイを日中に初めて見たという思い出を語るゲイの高齢者佐伯の言葉は、ゲイであることを隠して生きざるを得なかった状況を端的に表していた。「一橋大学アウティング事件」で自死した学生の同級生として、その訴訟の「棄却」「和解」という結果を述べた後の高齢者施設職員である美咲の沈黙は、雄弁に無念と無常を伝えていた。そして、これら当事者である登場人物の記憶と感情は、彼らと同じ時代を生きてきた(生きている)作・演出の関根信一自身のものでもあるのだろう。

 

4.裁判長として観客
物語のハイライトは、「HIV内定取消訴訟」の本人尋問の場面。原告である主人公の翔太が法廷で自身の代理人弁護士と被告側弁護士双方からの質問に答える場面。実際の法廷における記録を反映したこの場面は、被告側代理人の尋問の言葉を通して、主人公だけでなく観客もまた偏見や差別というものに否応なしに直面させられるようだった。舞台上では実際の裁判の配置とは異なり、原告本人は裁判長を背にして、観客側に向かって立っていた。観客は「傍聴人」のようでありながら「裁判長」として判断を迫られているようでもあった。
そんな中で、被告人弁護士が翔太に向けて畳みかけるように放った言葉――「感染者からウイルスをうつされたくないって思うのは差別なんですか?偏見なんですか?」「そんなに怖がりすぎてはいけないってことですか?」。
偏見や差別が、「悪意による攻撃」ではなく「恐怖による防衛」として語られるとき、それをただすことができるのは正しい知識と鍛えられた理性であるとして、この一連のコロナ禍において知識と理性で判断し行動することが言うほど容易くはないことを思い起こさずにはいられなかった。
全身防御服でHIVを診察することの問題と、マスクやフェイスガードによってCOVID-19に「万全を期す」ことが求められる現在の状況とを、適切に区分するための知識と理性の必要をこの場面を通して考えた。

 

5.「コロナ禍の演劇」というメタ視点
今回の公演は、新型コロナウイルス感染拡大の防止策を講じた上での公演となった。コロナ禍にある高齢者福祉施設での場面とコロナ禍以前の過去の回想場面との転換の度に主人公がマスクをつけたり外したりする姿や、物語の中盤で台詞でもあり観客への呼びかけでもあるような言い回しで「換気しますね」と告げて実際に劇場の窓を開けて外気を招き入れたことがとても印象的だった。特に後者は、「コロナ禍の演劇についての演劇」というメタ視点を舞台上に生じさせるとても秀逸な演出だった。

 

6.老人と子ども
高齢者施設に入所しているゲイの老人佐伯が翔太に、「ダムタイプ(dumb type)」の『S/N』について「古橋悌二」「リップシンク」「シャーリー・バッシー」「people」と、古橋悌二のパフォーマンスを今まさに見ているかのように、固有名詞一つ一つを愛おしそうに語る姿は、「何にも知らない」翔太がスマートフォンを取り出してそれらの情報を検索しようとする屈託のない姿と相まって、世代の隔たりと繋がりの両方を端的に示していた。
そして、最後の場面で、翔太は高齢者福祉施設を退職し、児童相談所で働くことになった。昨年上演された『アイタクテとナリタクテ』で描かれた子ども達の世界との邂逅を予感した。
物語の最後に浮かび上がった「老人」と「子ども」、「過去」と「未来」。そしてその両者に耳を傾けようとする青年。彼らが劇団フライングステージの今後の舞台でどのように描かれるのか、楽しみにしたいと思う。

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