スピッツ 『小さな生き物』

それがいつだったかは覚えていないけれど、ふと、草野マサムネは死者に向かって歌っているのかもしれない、と感じたことがあった。『おるたな』収録のカヴァー曲“さよなら大好きな人”について、誰かが「まるで死んだ恋人に歌っているようだ」と言っているのを聞いて、やはり同じように感じる人がいるのだと思った。
そして、新作『小さな生き物』を聞いて、やはりその感覚は間違っていないんじゃないかと思った。「俺が歌を作るテーマは『セックスと死』だけなんです」という草野マサムネの有名な発言が、聞き手としての私の潜在意識に刷り込まれていたという以上に、その発言から20年近くを経てそれが予言として自己成就したような、そんな不思議な感慨さえ覚えた。

けれど、「草野マサムネは死者に向かって歌っている」という感覚は、作者の意図や歌詞の意味を指しているのではない。そうではなく、曲を聞いて喚起される感情が亡き人を想うときのそれにとてもよく似ているという意味で。曲調を問わず、曲の背景あるいは前提に「喪失」を代入することでその曲がより強く、優しく、そして底なしに切なく響いてくる。例えば、アルバムの表題曲“小さな生き物”の冒頭――。

負けないよ 僕は生き物で 守りたい生き物を
抱きしめて ぬくもりを分けた 小さな星のすみっこ

この<負けないよ>というこのフレーズの背後に、もし何の喪失も痛みも悲しみもないのだとしたら、このフレーズは果たしてこんなにも清々しく勇敢に響くのだろうか、と思ってしまう。

だから、スピッツのオリジナリティの核である空想や妄想というのは、本質的に「反実仮想」なのかもしれないと思った。「あの時ああしていれば(していなければ)」「今ここに、君がいたならば」「いつかもう一度、あなたに会えたなら」――そんな、現実に根差しかつ動かしがたい現実に抗う甘くせつない想い。現実の痛みや悲しみに裏打ちされているがゆえに、それは現実ではないにもかかわらずとても生々しく、そしてみずみずしくさえある。
そして、亡き人に捧げる愛の歌は究極の反実仮想なのかもしれないと思った。今作収録のラブソングの純粋さに触れると、そんなふうに考えずにはいられなくなる。

あなたに会いたいから どれほど 遠くまででも
歩いていくよ 命が 灯ってる限り
(ランプ)

おそらくこれは鎮魂歌(レクイエム)ではない。亡き人は反実仮想として何度も思い起こされ、その中でいつまでも色褪せることなく生き続けているのだから。そしてそれは、現実とパラレルに存在する<僕のりありてぃ>(りありてぃ)でもある。


先行してリリースされたシングル「さらさら/僕はきっと旅に出る」がそう感じられたように、この新作にもまた震災の影が感じられる。けれど、だからといって、このアルバムがスピッツのキャリアの中で何か特別な位置づけを持つようには感じない。むしろ逆に、このアルバムは、スピッツの長いキャリアを貫く変わらぬバンドの本質(スピッツらしさ)を浮かび上がらせているように感じる。
スピッツの歌は甘くせつない。それが空想や妄想をよりどころにしている限り、スピッツの歌は「現実における不在」や「あるべき現実の喪失」という意味での悲しみを潜ませてきた。そんな隠された悲しみに、紛れもない現実として向き合わざるを得なくなったのがあの震災だったのかもしれないということ。けれど、曖昧な予感としてであれ痛切な実感としてであれ、それが悲しみであることには変わりがない。スピッツは新作においてこれまでのどの作品よりもその悲しみと真摯に向き合い、それを愛おしんでいるように思える。

草野マサムネは死者に向かって歌っている――「不在」と「喪失」、その悲しみをたとえ小さくとも勇敢に生きるために。