友部正人ライブ(2012/06/03 STAR PINE'S CAFE)

久しぶりに聞いた“中道商店街”や“愛について”も、初めて聞いた“弟の墓”や“手袋と外国コイン”も、アンコールで客席からのリクエストに応えて歌われた“6月の雨の夜、チルチルミチルは”も、歌われている風景はさまざまだけれど、どの歌も言葉のなかに風景が立ち上がってくるようだった。まさに<歌は歌えば詩になっていく>ようだった。
友部さんの歌詞は、「悲しい」とか「嬉しい」といった心情の表現は少なく、風景の描写や状況の説明が多い。説明的な歌詞は聞き手の想像力を限定するようでありながら、友部さんのそれは聞いているとその説明の奥へと誘い込まれて、歌の風景のなかで想像力が膨らんでいく。友部さんの歌は、歌が<言葉の森>になって聞き手を包み込み、聞き手は森の中を自由に彷徨うことができる。


ライブは2部構成になっていて,第1部の終盤に歌われた“日本に地震があったのに”がとても印象に残った。

日本に地震があったのに 僕は100%ここにいる
日本に息子がいるけれど 僕は100%ここにいる
僕が100%ここにいるってことは 100%そこにいないってことだ
だけど僕は抜け穴を見つけるよ ふたつの100%にひとつずつ


岩手には親戚がいるけれど 僕は100%ここにいる
宮城には友達がいるけれど 僕は100%ここにいる
僕が100%ここにいるってことは 100%そこにいないってことだ
だけど僕は抜け穴を見つけるよ ふたつの100%にひとつずつ


ヘリコプターが僕に水をまく 僕の夢の中は水浸し
ヘリコプターが僕に水をまく 僕は使用済み核燃料を持って立っている

去年の東日本大震災のときにニューヨークにいて日本にいなかったという事実の紛れもなさを表す<100%>という言葉。その100%の事実に対する<抜け穴>とはいったい何なのだろうと考えた。それはおそらく「想像力」ではないかと思った。
「多くの人々が大きな悲劇に見舞われたとき、音楽は何をなし得るか」というような問いがあるとすれば、この歌はその問いに「想像すること」だと答えているようだ。有事であろうとなかろうと、音楽や文学などの表現の力はそれ以外にはなく、そのことの徹底が100%の現実に抗う静かな力を生み出すのだと告げているようだ。
日本にも、岩手にも、宮城にも、福島にも、茨城にも、千葉にも、青森にもいないという不在の積み重ねを通して<使用済核燃料を持って立っている>場所に辿りつくということ。その詩人らしからぬ愚直な告白が積み重ねられていく過程のなかに、取り返しのつかない現実に対して表現者が持ち得る想像力の強さが浮かび上がる。
現実を超えて鮮やかに飛翔し鋭く転回するだけが想像力ではない。現実を愚直になぞりながら自分がいなかった場所にたどり着き、その場所さえも通り越してもはや誰も足を踏み入れられない場所に立つこともまた想像力のなし得るところだということ。この歌のなかで友部さんは、「言葉の森」を作るのと同じ想像力をもって、「森」から歩き出し震災の核心に到っている。
もし「有事に歌うべき歌」などというものがあるとすれば、それは有事であれ平時であれ変わることのない「想像力の確認の歌」なのかもしれない。

心に残るライブだった。