『8月32日へ』

ジャケットが印象深い。深い緑のなかに4人が並んで立っている風景は、映画『スタンドバイミー』を髣髴とさせる。彼らはこれから冒険に出発するのだろうか、その途中だろうか、それともすでにそれを終えてしまったのだろうか。

アルバムの最後の“26才の夏休み”。ボイスチェンジャーを使用しない地声での子はこんなふうに歌う。

ジャスコな町にイオンができたのさ
千葉ニュータウンと僕がそこにいる
死んだ顔で何を見てる
虫採り網でつかまえろ


26才の夏休み僕はかけらをただ拾い集めてる
26才の夏休み僕はかけらをただ拾い集めてる
26才の夏休み僕はかけらをただ拾い集めてる
26才の夏休み僕はかけらをただ拾い集めてる

今年5月のフリーライブツアー中アンコールで歌われた曲。予定が何もなかった“23才の夏休み”から3年が経ち、ロックシーン以外も含めた熱い注目と賞賛と羨望と反発を一身に受け、アルバムリリースにロックフェスにテレビ出演と予定だらけの“26才の夏休み”。にもかかわらず、それはとても空虚だ。
誰にもかまわれないことの寂しさより、どんなにたくさんの人にかまわれても感じる寂しさ。の子の「寂しさ原動力」の寂しさとは、孤独ではなく空虚なのかもしれない。そんなの子のなかにぽっかり空いた穴が、アルバム全編を通して見え隠れする。幼い声で<僕はきっと もっと寂しい自分が何してもいるよ>(夕暮れメモライザ)、<歩かなきゃとりあえず 人間はどうせ死ぬ>(僕は頑張るよっ)と歌う。犯罪的可愛さの世界に沈みながら結局は<こんな自分が もうどーでもいいんですけどねっ>(グロイ花)と吐き捨てる。

一方で、このアルバムには、虚しさにのみ込まれず走り出す夏休みもある。<君が僕にくれたあのキラカード/その背中に貼り付けてやるよ>と不器用な友情の告白とともに、“22才の夏休み”と“23才の夏休み”で僕はチャリをこぎ続ける。
この振れ幅が神聖かまってちゃんとも言える。けれど、ひとつひとつのパートをより丁寧に演奏してしっかりと音を重ねたウェルメイドな今作の“23才の夏休み”は、オリジナルのデモや1st『友だちを〜』ver.に比べると疾走感が弱い。むしろ、かつての自分の走り方をなぞっているような感触がある。それがどんなにくだらなくてもひどすぎても、そんなことに目もくれず<今すぐに>と走り出していたかつての自分の走り方を思い出そうとしているようでもある。

虚しさの穴を見つめることと、それを振り切って走り続けること――どちらも勇敢で過酷な冒険に変わりない。けれどそのどちらを進むべきか、どちらも進むべきか。その冒険の行く末をにわかには決めあぐねているバンドの姿が映し出されたアルバム。バンドを取り巻く喧噪とは裏腹に、バンドは静かに冒険の岐路に立っている。

8月32日へ

8月32日へ