『つまんね』『みんな死ね』

誰かに噛み付くわけでも何かを告発するわけでもない、不機嫌な呟きが、ぽつんとジャケットの宙に浮かぶ。神聖かまってちゃんの2枚同時発売のアルバム『つまんね』と『みんな死ね』。

『つまんね』
1曲目の“白いたまご”。<今すぐ壊して>という歌声は、たまごの外じゃなく中から聞こえてくる。神聖かまってちゃんの音楽は「たまご」のようだと思った。
亡き母と笑顔で並ぶジャケットに始まる、の子の幼かなりし日の写真が並ぶ歌詞カード。その中央の見開きのページで、蚊帳の中ですやすやと眠るの子は、まるでたまごの中にいるようだ。だから、これらの写真はそこに写るあどけない笑顔の喪失を突きつけてくるという意味で「暴力的」だ。
そして、“さわやかな朝”が来る度に、殺してやりたい君が微笑む“通学LOW”に送り出されることは、たまごの中から引きずり出されることに似ていると思った。朝の日差しが脱力と苛立ちを連れてくる。

イラっとするぜ、ほんと
糞むかつくぜ、ほんと
何かが違うと思っても、朝はねにこにこしているぞ
(さわやかな朝)

自分を守る世界から引きずり出された憂鬱*1が、歌をめざしつつ歌をはみだしながら、アルバム全体から流れ出してくる。<いやだー、もういやだー>(天使じゃ地上じゃちっそく死)<死にたいな/消えたいな>(芋虫さん)<どうしようもないだろうね>(黒いたまご)という言葉のインパクトよりも、それが歌として聞こえることに驚いてしまう。
神聖かまってちゃんの曲のイントロは印象的で秀逸なものが多い。「さあ、これからっ」と歌の始まりを鮮明に告げて一気に曲の世界へ聞き手をさらう。けれど、その一方で、曲のアウトロは、儚げなピアノがループし続けたり、喉から血を出さんばかりのシャウトが繰り返されたりして、終わらないままに終わっていく。それは、かまってちゃんの音楽が極めて映像的でありつつも、曲の核にあるのが風景というよりも感情そのものだからなのかもしれない。感情は高ぶり、持続し、他者を巻き込む。
ただし、感情それ自体は表現でも作品でもない。泣き声は歌ではない。だから、神聖かまってちゃんの音楽の成り立ちには謎があって、その謎を追ううちに、感情と歌の境界が浮かび上がってくる。その境界はたまごの殻のように脆いのかもしれない。
神聖かまってちゃんの音楽は「たまご」のようだ。「たまご」そのもののような音楽だ。

つまんね

つまんね

『みんな死ね』
『つまんね』で地上に落ちた天使が窒息してしまうのとは対照的に、こたつを蹴飛ばした猫が天空を駆け上がっていく“ねこラジ”で幕を開け、2曲目の“あるてぃめっとレイザー!”まで一気になだれ込んでいく。アルバムが「2枚組」ではなくて「2枚」である理由がよく分かる。
『つまんね』を覆っていた「苛まれ感」が反転攻勢に出たかのように、どの歌もアグレッシブに解き放たれている。『つまんね』がたまごが外側から壊されることを歌っていたのに対して、『みんな死ね』はたまごの内側から殻を突き破ることを歌っているかのようだ。
そのたまごを突き破った勢いでこのアルバムの歌はほとんどが「走って」いる。走っているのは僕だけじゃない。歌詞もメロディもリズムも、曲全体が靴紐のほどけたスニーカーのままで前のめりになって走っている。

とばせぎゃんぎゃんと
とばせぎゃんぎゃんと
ぼくはとばすぎゃんぎゃんと
そうめちゃくちゃに
ぽろりろりんなぼくもぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃーん)

そのメロディセンスと同じく、の子の歌詞には独特のセンスがあって「奇抜」や「稚拙」という最初の印象が、繰り返し聞くうちに変わっていく。性急ではあるけれど、その言葉いたって「率直」で「素直」なのだと気づく。中原中也が「ゆあーん ゆよーん ゆゆゆよん」(サーカス)と詩っていたのを思い出す*2
それが無様だろうが滑稽だろうが、走るなら全力で、決して後ろを振り返らない――そんな「ロックンロールの走り方」で最初から最後まで駆け抜けるこのアルバムは、その不機嫌なタイトルとジャケットとは正反対に、幼き者にだけ許された危なっかしい清清しさに満ちている。

みんな死ね

みんな死ね

*1:その意味で<僕は出かけるようになりました>と自分から外に向かう“美ちなる方へ”は、このアルバムでは明らかに異質で新機軸。それをラストではなく3曲目という曖昧な順番に置いたのは、照れ隠しなのか、アルバムの世界観を壊さないようにしたのか。もう1枚の『みんな死ね』でも、<あえて言わないだけです>と自分から他者との距離を図っている少し大人びた“ベイビー・レイニー・デイリー”は3曲目。

*2:若さというよりは幼さに留まり、切なさを通り越して悲しみに辿り着くところも含めて、の子と中原中也の詞(詩)はどこか似ていると思う。