スピッツ 「シロクマ/ビギナー」

とても奇異に思われるかもしれないけれど、スピッツの“シロクマ”を聞いて「ゴミ」のことを思った。

今すぐ抜け出して 君としゃべりたい まだ間に合うはず
地平線を知りたくて ゴミ山登る 答え見つけよう

この曲を聴いて「ゴミ」は草野正宗のソングライターとしての手クセというよりも、スピッツの世界をつくる不可欠な要素だと気づいた。思えば、スピッツの歌詞には「ゴミ」がよく登場する。

とんがったゴミの中/かたくなる身体をよせ合って>(海とピンク)だったり、<ゴミできらめく世界が 僕たちを拒んでも>(空も飛べるはず)だったり*1
スピッツの歌の主人公の僕は、ゴミのそばやゴミのなかにいる。彼はゴミに囲まれた生活やゴミにあふれた世界を心地よいと思っているわけではない。けれど、かといって彼は「世界はゴミだ」と吐き捨てたりその世界から逃げ出したりしない。
彼は<山づみのガラクタと生ゴミ>(タンポポ)ばかりの世界で君と出会い、君に触れたいと願う。彼は<ゴミに見えても捨てられずに あふれる涙を ふきながら>(アカネ)歩き出し、ときに<ゴミになりそうな夢ばかり 靴も汚れてる/明日 君がいなきゃ 困る 困る>(スターゲイザー)と星を見上げる。

ゴミにはふたつの意味がある。
ひとつは、単なる「いらないもの」なのではないということ。それは、かつては自分が必要としていたものなのに、今はいらなくなってしまったもの。他人にとってはガラクタであっても、自分にとっては捨てられない宝物もある。もし、世界にゴミがなかったら、僕は自分にとって大切なものを見分けられないかもしれない。もし、世界にゴミがなかったら、僕は君を見失ってしまうかもしれない。
もうひとつは、「日常」にあるということ。それを覆ったり遠ざけたりして、なるべく見えないようにしても、それはどうしようもなく日常のなかにある。それは日常が生み出している。
だから、スピッツのラブソングは、奇跡が日常の中にこそあると教えてくれる。奇跡はある日突然空を切り裂いてやってくるのではなく、ゴミだらけの世界の中に、その世界と地続きの地平線にあるということ。

「ゴミだらけの世界で起こり続ける小さな奇跡」。それは、スピッツの歌う世界であると同時に、スピッツというバンドそのものだと思う。
スピッツらしいさりげなさと変わらぬみずみずしさで届けられたこのシングルは、そんなありふれた奇跡が今も起こり続けていることを告げている。

カップリングの“ナイフ”と“シロクマ”のライヴバージョンは、曲の終わりで拍手が聞こえたところで鳥肌が立つような衝撃。拍手が聞こえなければスタジオ音源と思う鉄壁な演奏。それは「演奏力が高い」というよりも、ライブの成り立ち自体がロックバンドのライブの「非日常/祝祭」というベクトルとは異なる次元に向かっているような印象。その意味でも本当に稀有なバンドだと思う。

シロクマ/ビギナー

シロクマ/ビギナー

*1:「ゴミ」ではないけれど、<山のようなジャンクフーズ 石の部屋で眠る>(俺のすべて)、<ラクタばかり ピーコートの ポケットにしのばせて>(ハチミツ)とも。