THE YELLOW MONKEY 30th Anniversary LIVE ーBUDOKAN SPECIAL-(2020/12/28 日本武道館)

企画・制作TYMS PROJECTからの新型コロナウイルス対策とその協力への感謝のアナウンスの後、開演直前の日本武道館に流れたのは、ジプシー・キングスの“マイ・ウェイ”――映画『パンドラ』の中で、1998年から1999年にかけて行われた年間133本に及ぶ「PUNCH DRUNKERD TOUR」の最終日の楽屋で吉井和哉がかけていた曲だった。それは、今日また、バンドにとってまたひとつのツアー、ひとつの季節が終わることを告げていて、心の深いところに静かに針が刺さるような切なさがあった。

新型コロナウイルス感染症により延期となった今年4月の東京ドーム2dayに代わって11月から始まった「THE YELLOW MONKEY 30th Anniversary LIVE」4公演の最終公演であり、昨年の同じ日名古屋ドームから始まった一連の30周年ライブの最終公演であり、そして2016年1月の再集結からの5年間にわたるバンドの「シーズン2」の最後のライブという、3つの「終わり」が重なったこの日のライブは、コロナ禍という終わりの見えない状況と交差して、不思議な余韻を残すライブだった。と同時に、ステージ全体が見下ろせる2階スタンド席から見たザ・イエローモンキーは、コロナ対策による舞台配置とシンプルなセットゆえにいつもより間近で、そして眩しかった。

ジプシー・キングスの“マイ・ウェイ”に続いて会場に流れたエディット・ピアフの“愛の賛歌”も含めて、この日のライブは「メカラウロコ」と銘打ってはいないものの、「メカラウロコ」以上に「メカラウロコ」なライブだった。セットリスト22曲中12曲がインディーズ時代から2ndアルバムの曲で占められていて、さらにバンド最初期のデモテープに収められた“PENITENT”がメジャーデビュー後初めて演奏された。ちょうど1年前の名古屋ドームから始まった3大ドームツアーの幕間(インターミッション)でバンドのライブ歴のアニメーションのBGMとして聞いた時はどこか軽妙な印象があったけれど、30年をサバイブしたロックバンドによる“PENITENT”は,不穏な単語が散らばった歌詞とひねくれているけれど耳に残るメロディとがより一層際立って、イエローモンキーの「原液」を味わうような濃さがあった。

1989年12月28日のイエローモンキーの「誕生日」にちなんでバンド初期のブレイク前の曲を中心に演奏するライブシリーズ「メカラウロコ」は2018年をもって終了したけれど、それと同様にイエローモンキーのオリジナリティの核となる美意識と底意地を披露したライブだった。けれど同時に、「12月28日の日本武道館」でのライブとして、「メカラウロコ」的なコンセプトから抜け出せない手詰まり感も、ほんの少しだが感じずにはいられなかった。

ライブ本編の最後を飾る“未来はみないで”の前のMCで、吉井和哉は「これからは『風の時代』になるんだよ」とエマに言っていた。あまり詳しくは説明していなかったけれど、占星術の「グレート・コンジャンクション」のことを言っているのかなと思った。2020年の12月22日に、約20年毎に起こる木星土星の会合(コンジャンクション)の待ち合わせ場所が「地の星座(牡羊座・乙女座・山羊座)」から「風の星座(双子座・天秤座・水瓶座)」へと変わり、これからの約200年は「風の時代」になる。それによって時代の価値観も変わる――。

先のMCを、占い好きの、スピリチュアルに親和性のある吉井和哉らしい発言だと思うと同時に、その発言に「彼らと同じ時代に生きている」ということに気づかされた。20年どころか200年あるいはそれ以上の、想像しがたいほどの長い長い星の時間の下で、同じ時代に生きて、同じ時間、同じ場所で呼吸していることの不思議を思った。コロナ禍の2020年12月28日に日本武道館で「待ち合わせ」したことの奇跡を感じた。だから、<また会えるって 約束して>というフレーズがこれまで以上に胸に刺さった。

アンコールの最後、イエローモンキーの「シーズン2」の最後を締めくくる“WELCOME TO MY DOGHOUSE”を歌い出す前、吉井和哉は「シーズン1」の活動休止前最後の2001年の東京ドームライブでのMCに重ねるように「普通の野良犬に戻ります」と告げた。また、少しおどけた口調で「またお会いしましょう」とも言った。その言葉を聞いて、丁寧な別れの挨拶よりも、いつだって明日にだってまた会えそうな軽い別れの挨拶の方が寂しさの余韻が残るような気がした。けれど、「何も話すことはない」というMCの率直さがどこか清々しかったように、ザ・イエローモンキーの「シーズン2」としてやり切ったのだとも思った。だから、感動や感慨とともに、それ以上に、バンドに対する「愛しさ」が残るライブだった。

ザ・イエローモンキー
2016年1月8日 再集結
2020年12月28日 無期限充電期間へ
次の「待ち合わせ」を信じて、楽しみに待っています。

THE YELLOW MONKEY セットリスト(2020/12/28)
DANDAN
Subjective Late Show
Chelsea Girl
FAIRY LAND
Tactics
VERMILION HANDS
Changes Far Away
審美眼ブギ
Foxy Blue Love
SLEEPLESS IMAGINATION
PENITNET
ロザーナ
‟I”
バラ色の日々
SUCK OF LIFE
Father
未来はみないで

 

―encore―
おそそブギウギ
アバンギャルドで行こうよ
Romantist Taste
悲しきASIAN BOY
WELCOME TO MY DOGHOUSE

 

ザ・クロマニヨンズ「MUD SHAKES 全曲配信ライブ」(2020/12/11)

ザ・クロマニヨンズの新作『MUD SHAKES』のリリースに合わせた、バンド史上(ヒロトマーシーのキャリアにおいても)初の配信ライブを観た。
ライブ会場となった、ハイロウズ時代からのプライベートスタジオ「アトミック・ブギー・スタジオ」と思しき場所は、狭くて薄暗い場所だった。けれど、クロマニヨンズのロックンロールが始まると、その場所は、照明が煌々と照らすどんな広い会場もよりも、自由で無限な空間に変わっていった。的確なカメラワークと相俟って、クロマニヨンズのロックンロールの疾走感と無敵感が、画面を揺らすように伝わってきた。
薄暗い空間で等身大のエルビス・プレスリーの人形に見守られながら演奏するその姿はまるで、「秘密基地」で「ロックンロール」という名のおもちゃ箱をひっくり返して遊んでいるかのようだった。その印象は新作『MUD SHAKES』にもぴったり重なって、配信ライブは新作を貫く純粋さと痛快さをより一層際立たせていた。

ジャングルビート、パンク、ソウル、ドゥ・ワップ、ブルース、ハワイアン…と、曲ごとにさまざまな音楽スタイルを変幻自在に繰り出す鉄壁の演奏と、その間に顔を出す「ランララランランラン」や「パタンパタン」「ドンパン」「しんじんしんじん」など、真剣にふざけているような、ふざけているようで真剣な、イノセントなコーラスが印象的で、これまでのどのアルバムよりも「バンド全体で歌っている」感じがした。
そして、歌詞はますます、「メッセージ」から逃走して、発語の快感や言葉遊びの楽しさを優先したかのような、即物的でありながら抽象的な印象を残すものになっている。テレビ番組「まつもtoなかい」出演後に話題になった、ヒロトの「今の人は歌詞を聞きすぎ」「もっとぼんやりしてていい」という発言に惹かれてクロマニヨンズを聞いた人が「こういうことか!」と納得する姿が目に浮かぶ気がした。誰もが共感できそうだけれど誰も歌おうとはしない日常に埋もれた光景と感情を切り取った‟新人”は、昨年のシングル「クレーンゲーム」収録の‟単ニと七味”に続く「発見」だと思った。

クロマニヨンズのロックンロールは、もうすでに何かの「境地」に達しているのだろう。けれど、『MUD SNAKES』を聞けば聞くほど、その「境地」の正体を考えることが無意味に思えてくる。そして、それこそがクロマニヨンズのロックンロールが目指しているものなのだと思う。
ピカソの絵を見て子どもの絵のようだと思う。けれど、子どもはあんなふうには描かないし、描けない。クロマニヨンズを聞いてバンドを始めたばかりの中学生のようだと思う。けれど、バンドを始めたばかりの中学生はこんなふうには歌わないし、歌えない。けれど、クロマニヨンズは、バンドを始めたばかりの中学生に、ロックンロールの雷に打たれた少年に全力で挑んでいるのだと思う。 

MUD SHAKES (通常盤) (特典なし)

MUD SHAKES (通常盤) (特典なし)

 

b-flower『何もかもが駄目になってしまうまで』

無垢で無防備なコーラスから「グラジオラス 胸に抱いて」と軽やかに歌い出される1曲目「イノセンス ミッション」を聞いて、思わず頬が緩むとともに胸の奥がチクりと針で刺されたような気がした。22年ぶりにリリースされたb-flowerのニューアルバム『何かもかもが駄目になってしまうまで』――永久凍土の中で眠っていたのでも、真空パックの中で保管されていたのでもなく、「22年」という時の流れを、同じ時代を生きて風に吹かれてきた歌詞とメロディが、このアルバムを貫いている。それは、甘くせつないノスタルジーとロマンチックと同時に、色褪せぬことのない静かなプロテストを滲ませている。

全11曲の収録曲には、2012年リリースの12年ぶりのシングル‟つまらない大人になってしまった”以降の‟純真”(2015)、‟僕は僕の子供達を戦争へは行かせない”(2016)、‟自由になりたい”(2018)、‟SPARKLE”(2018)、‟Another Sunny Day”(2018)が収録されている。2012年の復活から2020年までの8年間に発表された曲と今回新たに収録された曲とが、ジグソーパズルのピースのように絶妙に嵌まり合って、b-flowerの唯一無二の詩情と音像を1枚の「写真のような絵」あるいは「絵のような写真」のように浮かび上がらせている。モノクロームの写真の方が被写体の存在感を鋭く伝えるように、静かであるがゆえに雄弁なインストゥルメンタルの2曲も含め、この11曲がこの曲順であることの必然性が、聞けば聞くほどに伝わってくる。

そして、「まさにネオアコ」な、歌詞、メロディ、アレンジ全てを通してきらめきを乱反射させるアルバム冒頭の3曲を経た、4曲目‟僕は僕の子供達を戦争へは行かせない”。フォークロア調の流麗なピアノとささやくようなボーカルが印象的なこの曲で、八野英史は曲のタイトルそのままに、静かにけれど毅然と歌う。

僕は僕の子供達を戦争へは行かせない
人を殺していいとは教えられるわけがない
僕は僕の子供達を戦争へは送らない
風邪をひきましたとズル休みをさせる

 八野英史の詩才を思えば「異色」ともいえる直接的な言葉遣いであるけれど、これらの率直な言葉遣いとそこに込められた覚悟もまた、いやそれこそ、「詩才」と呼ばれるべきなのかもしれないということ。歌う対象とベクトルは異なっていても、言葉の率直さと純粋さという点では、<身も心も残さず/僕のすべてを捧ぐよ>と歌う‟純真”とこの曲は地続きであり、この曲もまた「ラブソング(愛の歌)」なのだということ。

『何もかもが駄目になってしまうまで』というアルバムタイトルの通り、このアルバムの世界観は決して明るくはない。むしろ悲観の影が濃い。けれど、悲観や諦念を錘(おもり)のように足首にぶらさげながらも、それでも胸の奥をざわざわと波立たせる美しさとみずみずしさが、このアルバムにはある。だから、最終曲「葉桜」が美しくフェイドアウトするのではなく、どこか不穏に途切れるように終わるところに、b-flowerの美しき闘争(プロテスト)が完結することなく、さらに続いていくことを予感した。それはブックレット中央の見開きぺージで、2016年に逝去したドラムの岡部亘氏も含めた6人のメンバーが白い道を歩く後ろ姿にも重なって見えた。

八野英史は<くだらない世の中だ 間違ってる>(僕は僕の子供達を戦争へは行かせない)と、<なんでこんなつまらない大人になってしまったんだ>(つまらない大人になってしまった)と歌う。けれど、くだらない間違いだらけの世の中で、つまらない大人になった自分でありながらも、生きる意味があるとしたら、それはb-flowerの音楽が今もなお、2020年の今に、現在進行形で美しくあるからなのだと思う。そして、それはこんな美しき宣言(マニフェスト)とともにある。

虹が消えた後の冬の空に
もう一度 橋をかけるための淡い太陽になろう
(Another Sunny Day)

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SEEDS RECORDS (stores.jp)

 

劇団フライングステージ第46回公演『Rihts, Light ライツ ライト』(2020/11/06 下北沢OFF・OFFシアター)

就職面接において、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染していることを告げなかったことを理由に内定を取り消されたことは違法だと訴えた「HIV内定取消訴訟」をモチーフにした物語。その原告男性へのインタビューと裁判記録を基にした「フィクション」である今作は、「人権(Rights)」のために闘う人たちが「光(Light)」のある方へと向かっていく物語だった。

 

1.2×3×3×3
HIV内定取消訴訟」を軸として、社会福祉士の主人公翔太が新たに働くこととなったコロナ禍の高齢者福祉施設を舞台に、2つのウイルス、3つの職場、3つの訴訟、そしてそれらを生きてきた3つの世代がモザイクのように交錯しながら展開する物語は、非常に多面的な構造であるにもかかわらず、劇団フライングステージのお芝居の中ではむしろとても簡潔で率直な印象だった。その要因の一つは、主人公の翔太が時に悩みつつも、基本的には自分が何を求めているのか理解し肯定している青年だからなのだろう。彼のまなざしは繊細ではあるけれど健やかで、まっすぐに前を見て立っていた。

 

2.カミングアウトされる側の姿
印象的だったのは、翔太が自分がHIV陽性者であることやゲイであることを職場の上司・同僚や家族に告げる場面の、その告げられた側の姿――うろたえたり、冷静であったり、好奇心をのぞかせたりと幅はありながらも、彼らは速やかに翔太のカミングアウトを受け入れ励ましていた。と同時にその「彼ら」がいずれも女性であり、翔太が母と妹には自分がゲイであることを明かす一方で父親には明かしていないことが、幾分示唆的な気がした。
翔太のカミングアウトを受け止める側の人々の表情の多様さは、問われるべきは「カミングアウトする側」ではなく「される側」にあるのだということを示しているようだった。劇中に登場する3つの訴訟の意味もまた、そこにあるのだと告げているようだった。セクシャルマイノリティに関わる社会の課題は、セクシャルマイノリティ側の問題ではなく、彼らを取り巻く側の問題なのだ、と。

 

3.当事者としての訴訟
物語では、「HIV内定取消訴訟」だけでなく「府中青年の家事件」と「一橋大学アウティング事件」の訴訟も物語に登場させつつ、それを単なる「史実」として扱うのではなく、登場人物をそれらの当事者として描いていた。日本のセクシャルマイノリティ史において重要な意味を持つであろうこれらの訴訟が、当事者の時を経ても薄まることのない感情によって現在につながるリアリティあるものとなっていた。

「府中青年の家事件」の裁判の傍聴時に自分以外のゲイを日中に初めて見たという思い出を語るゲイの高齢者佐伯の言葉は、ゲイであることを隠して生きざるを得なかった状況を端的に表していた。「一橋大学アウティング事件」で自死した学生の同級生として、その訴訟の「棄却」「和解」という結果を述べた後の高齢者施設職員である美咲の沈黙は、雄弁に無念と無常を伝えていた。そして、これら当事者である登場人物の記憶と感情は、彼らと同じ時代を生きてきた(生きている)作・演出の関根信一自身のものでもあるのだろう。

 

4.裁判長として観客
物語のハイライトは、「HIV内定取消訴訟」の本人尋問の場面。原告である主人公の翔太が法廷で自身の代理人弁護士と被告側弁護士双方からの質問に答える場面。実際の法廷における記録を反映したこの場面は、被告側代理人の尋問の言葉を通して、主人公だけでなく観客もまた偏見や差別というものに否応なしに直面させられるようだった。舞台上では実際の裁判の配置とは異なり、原告本人は裁判長を背にして、観客側に向かって立っていた。観客は「傍聴人」のようでありながら「裁判長」として判断を迫られているようでもあった。
そんな中で、被告人弁護士が翔太に向けて畳みかけるように放った言葉――「感染者からウイルスをうつされたくないって思うのは差別なんですか?偏見なんですか?」「そんなに怖がりすぎてはいけないってことですか?」。
偏見や差別が、「悪意による攻撃」ではなく「恐怖による防衛」として語られるとき、それをただすことができるのは正しい知識と鍛えられた理性であるとして、この一連のコロナ禍において知識と理性で判断し行動することが言うほど容易くはないことを思い起こさずにはいられなかった。
全身防御服でHIVを診察することの問題と、マスクやフェイスガードによってCOVID-19に「万全を期す」ことが求められる現在の状況とを、適切に区分するための知識と理性の必要をこの場面を通して考えた。

 

5.「コロナ禍の演劇」というメタ視点
今回の公演は、新型コロナウイルス感染拡大の防止策を講じた上での公演となった。コロナ禍にある高齢者福祉施設での場面とコロナ禍以前の過去の回想場面との転換の度に主人公がマスクをつけたり外したりする姿や、物語の中盤で台詞でもあり観客への呼びかけでもあるような言い回しで「換気しますね」と告げて実際に劇場の窓を開けて外気を招き入れたことがとても印象的だった。特に後者は、「コロナ禍の演劇についての演劇」というメタ視点を舞台上に生じさせるとても秀逸な演出だった。

 

6.老人と子ども
高齢者施設に入所しているゲイの老人佐伯が翔太に、「ダムタイプ(dumb type)」の『S/N』について「古橋悌二」「リップシンク」「シャーリー・バッシー」「people」と、古橋悌二のパフォーマンスを今まさに見ているかのように、固有名詞一つ一つを愛おしそうに語る姿は、「何にも知らない」翔太がスマートフォンを取り出してそれらの情報を検索しようとする屈託のない姿と相まって、世代の隔たりと繋がりの両方を端的に示していた。
そして、最後の場面で、翔太は高齢者福祉施設を退職し、児童相談所で働くことになった。昨年上演された『アイタクテとナリタクテ』で描かれた子ども達の世界との邂逅を予感した。
物語の最後に浮かび上がった「老人」と「子ども」、「過去」と「未来」。そしてその両者に耳を傾けようとする青年。彼らが劇団フライングステージの今後の舞台でどのように描かれるのか、楽しみにしたいと思う。

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http://flyingstage.cocolog-nifty.com/blog/2020/11/post-bc3890.html

THE YELLOW MONKEY 30th Anniversary LIVE-DOME SPECIAL-(2020/11/03 東京ドーム)

吉井和哉の笑顔が少ないライブだった。印象に残ったのは、涙こそ流れてはいないもののほぼ泣き顔で“JAM”を歌う姿や、ライブの最後の“プライマル”を歌い終わって歯を食いしばりながらマイクをマイクスタンドに戻す姿だった。でも、だからこそ、この日のライブにはこのライブをやる意味と価値が、バンドにもファンにもあったのだと思う。

本来ならば、2020年4月にザ・イエローモンキー結成30周年のドームツアーの有終の美を飾る東京ドーム公演が行われるはずだった。しかし、新型コロナウイルス感染症の影響によりライブは延期の後チケット払い戻しとなり、代わりに新規4公演(東京ドーム、横浜アリーナ代々木第一体育館日本武道館)が発表された。このライブはその最初のライブであり、かつ新型コロナウイルス感染症による一連の自粛後、大規模会場での最初の有観客公演となった。バンドの歴史が世の中の大きな流れと交錯する「奇縁」に、「イエローモンキーらしさ」を感じた。吉井和哉も少し笑いながらMCでそんな感じのことを言っていた。

約5万人の収容人数に対して客席を1万9000人に限定するともに、入場にあたっては「指定時間ごとの分散入場」「接触確認アプリ『COCOA』の画面表示」「スプレーによる手指消毒」「サーモグラフィによる検温」「足ふきマットによる足裏消毒」「自席でのドームアラート登録」とできる限りの感染防止策が取られていた。観客側はそれらに半ば適応しているようで入場はいたってスムーズだった。だからなのか、1曲目の“真珠色の革命時代”を慎重に丁寧に歌い始めた吉井和哉の表情を見た時、この状況下でのライブは、観客よりもむしろアーティストにとって試練なのかもしれないと思った。それは観客数や歓声が制限されているという物理的な条件によるものという以上に、ロックバンドとしての、歌い手としての存在意義という問いに向き合わざるを得ないからなのかもしれない、と。だから全客席に配布された一斉制御のLEDライト「FreFlow(フリフラ)」や、声を出せない中で声を届ける企画「Sing Loud」(予め録音されたファンの音声を演出に使う、胸の高さにグッズタオルを掲げる)が新しいライブの可能性を感じさせつつも、それがこれからのライブにどう影響していくのかは未知数な気がした。

とはいえ、センターステージで、会場を埋め尽くす真っ赤なFreFlowの灯の海の中で歌われた”JAM”は、どこか「荘厳さ」さえ感じさせ、深く心に届いた。東京ドームでこの曲を聞くのは5回目だけれど、過去に聞いたどの”JAM”とも違う意味が、渾身の歌唱と演奏から立ち上がってくるようだった。

昨年12月の名古屋ドーム、今年2月の京セラドームとセットリストや構成は重なるものの、チンドン屋さんやブラスバンドと華やかに共演した“DANDAN”は歌われず、結成30周年の祝祭ムードよりも、未来が見えず答えが出せない状況に挑むような印象を残すライブだった。そのせいか“Four Seasons”“パンチドランカー”“パール”といった挑み、闘おうとしている曲がいつも以上に尖った迫力を帯びて聞こえた。
そして、一番印象残ったのは、アンコールの“悲しきASIAN BOY”が終わった後間髪入れずに始まった、“プライマル。”。2001年の活動休止後にリリースされた解散前最後のシングル曲であり、2016年の再集結後のライブで最初に演奏された曲――別れと新たな旅立ちを歌ったこの曲は、意外ではあったけれど再集結後の「シーズン2」を締めるにふさわしいと感じた。そして同時に、“悲しきASIANBOY”でライブの大団円を迎えるという予定調和を打ち破るという意味で、この選曲にはイエローモンキーの「新しい季節」「次の一歩」を予感させるものだった。

MCの中で吉井和哉が悔いていた2001年の東京ドーム公演時よりも、歌唱力、演奏力、メンバー間の結束、ファンとの信頼関係など全てがパワーアップして、まさに「脂ののった」バンドの状態であるにもかかわらず、というよりもだからこそ、結成30周年の東京ドーム公演をコロナ禍で行うことの複雑なムードとのせめぎ合いが、このライブの感動を生々しいものにしていた。そして、向かい風の時の方が、風を受ける横顔が無防備に額をさらすように、そのバンドの本質が剥き出しになるのだとしたら、イエローモンキーならばきっとまたそれを乗り越えていくのだろうという気もした。

同じ時代に生きて、同じ空間に集うことの意味を考えたライブだった。と同時に、イエローモンキーと同じ時代に生きて同じ風の中を生きていることに感謝したいと思った。

THE YELLOW MONKEY セットリスト(2020/11/03)
真珠色の革命時代~Peal Light of Revolution~
追憶のマーメイド
SPARK
Ballon Ballon
Tactics
球根
花吹雪
FOUR SEASONS
Foxy Blue Love
SLEEPLESS IMAGINATION
熱帯夜
BURN
JAM
メロメ
天道虫
パンチドランカー
LOVE COMMUNICATION
バラ色の日々
SUCK OF LIFE
パール
未来はみないで

―encore-
楽園
ALRIGHT
悲しきASIANBOY
プライマル。

 追記1:ドーム公演での“球根”は、どれも素晴らしかった。なぜ、この曲だけが唯一大型スクリーンで吉井和哉の顔を映さないのか、なぜ吉井和哉はこの曲の最後に一礼するのか、その意味がわかるような気がした。 

追記2:MCで吉井和哉は、今回の東京ドーム公演には、2001年の活動休止前の東京ドーム公演の「借り」を返したいという思いがあったということを話していた。2017年の東京ドーム2days公演の素晴らしさを「スキップ」しているところが、吉井和哉らしいと思った。バンドヒストリーに関して、吉井和哉は時に「修正」するように見えることがあるけれど、それもまた「真説」なのだろう。

 

『行き止まりの世界に生まれて』

アメリカの、かつて栄えた工業の衰退により「the Rust Belt(ラストベルト:錆びついた工業地帯)」と呼ばれようになった地域のひとつイリノイ州ロックフォードを舞台に、スケートボードに生きる少年達を追ったドキュメンタリー映画。白人のザック、アフリカ系アメリカ人のキアー、アジア系のビンとその家族を軸に、彼らの12年間を追った映像は、極私的な物語でありつつ、家庭内暴力、貧困、人種差別という社会問題を、子どもから大人への橋を渡る少年達の言葉によって浮かび上がらせていた。

 

治癒としてのドキュメンタリー映画
主人公の一人でもあり、監督でもあるビン・リューの、当事者(被写体)と観察者(撮影者)という両方の役割を担い、かつその間を揺れ動きながら物語を紡ぐバランス感覚がこの映画の要なのだと感じた。
キアーが父親の体罰を振り返るとき、ザックの恋人ニナがザックからの暴力を告白するとき、そして、ザックが自分の暴力の理由を語る時――それぞれが自分の痛みと向き合う場面において、カメラ越しに問いを発するビンの声は優しいけれど冷静で、相手の言葉をジャッジせずにありのまま受け入れていた。映画の終盤でキアーがこの映画について「無料セラピーってとこかな」と答えているように、極めてセラピューティックな姿勢を撮影当時20代の監督が成し得ていたことは、静かな驚きでもある。同時に、その主たる方法としての「対話」が成立していたことの背景には、彼らがスケートボードを通して育んできた友情と信頼が感じられた。
友人や家族の姿を、彼らの痛みとともにその弱さや危うさも含めて「ありのまま」に映し出しつつも、見終わった後に静かで温かいカタルシスがあるのは、この映画の根底に流れる「治癒性」のゆえかもしれないと感じた。


「父親からの暴力」に対峙する冒険
この映画の少年達は、マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』やスティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー』のように「冒険」に旅立つことは、ない。彼らは居心地の悪い家と仲間のいるスケート・パークを往復し、立ち入り禁止のビルに入り込むものの「危ないから」と引き返す。地域の閉塞感とともに「冒険」が失われた少年達の日常は、邦題の「行き止まりの世界」の意味するところなのだろう。
映画のところどころで、ロックフォードの道路沿いに掲げられた教育的警句の看板(「困った時に助けてくれるのが父親」「完璧な親である必要はない」「午後3時、子ども達はどこに?」)が印象的に挿入されていた。現代アメリカの家庭教育の困難さを示すこれらの看板に呼応するように、彼らのスケートボードへの情熱や愛着は、居心地の悪い家や暴力をふるう父親からの逃避でもあった。そして、映画の中盤以降、それぞれがそれぞれの仕方で「父親からの暴力」という、彼らの人生で最も大きな難題に向き合う姿があった。映画の中では、ザック、キアー、ビンが受けた父親からの暴力は、「しつけ」「体罰」「児童虐待」など微妙に異なるニュアンスで捉えられており、自分が受けた暴力を子どもが理解することの難しさと複雑さを表していた。

父親となった自身が恋人に暴力を振るってしまう理由を語るザック、亡き父親の墓前で泣き崩れるキアー、継父の虐待をどこまで知っていたのかと母親を問い詰めるビンーーこの映画の中には、「父親からの暴力」に向き合うという過酷な「冒険」があった。
特にビンが母親にインタビューする場面は、撮影の仕方含めて他の場面とは異なる印象を残した。他の場面がセラピ―的であるならば、この場面は尋問的だった。他の場面とは異なり、ハンディカメラではなく、固定したカメラでしっかりと照明を当てた撮影セットは、父親の虐待とそれを許した母親を追及するビンの「覚悟」を表しているようだった。


スケートボードという知性
映画全編を通して、ザック、キアー、ビンと彼らの仲間達がスケートボードをする姿は、彼らが抱えるさまざまな問題とは裏腹に、あるいは彼らに絡みつくさまざまな問題から解き放つように、「自由」を体現していた。
と同時に、スケートボードに興じる彼らは、何度もスケートボードから転げ落ち、地面に体を打ち付けていた。そして、そんな失敗も含めて楽しんでいる姿がとても印象的だった。
映画の原題は「Midinig the Gap(段差に気をつける)」――映画の中のスケートボーダー達は、段差を避けるのではくむしろ進んで道や建物の段差に挑み、鈍い金属音を鳴らしていた。段差を避けるのではなく、それに挑む彼らの姿は生き生きとしていた。「スケートボードはコントロールだ」というザックの言葉は、大胆で奔放なようでありながら、スケートボードには非常に高度な身体の制御と修練が必要なことを示していた。何度も地面に叩きつけられ、その姿を仲間の前にさらし続ける経験は、単なるスポーツでも単なるファッションでもない、独自の身体化された哲学を彼らに養っているような、そんな気がした。
その意味で、この映画を貫いているのは、スケートボーダーとしてのビン・リュー監督の「知性のある身体性」あるいは「身体性のある知性」なのかもしれないと思った。

 

朝焼けのスケートボーダー
そしてとにかく、映画冒頭の、淡いオレンジ色に染まった朝日を浴びてスケートボードでロックフォードの町を疾走する場面は、本当に美しい。「映画でなければ経験できない美しさ」がそこにはあった。同様に、クリス・スぺディングの「Video Life」のチープで切ないギターと気だるく儚げな歌声とともに映し出される、10代の頃の主人公達がスケートボードに興じる姿にも、インセンスな美しさがあった。

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http://bitters.co.jp/ikidomari/

スピッツ「猫ちぐら」

デジタル配信でリリースされたスピッツの新曲「猫ちぐら」。新型コロナウイルス感染症により、社会や生活のあり様が潮が満ちるように少しずつ、しかし確実に変化を強いられるなかで、メンバー同士が顔を合わせることなく「リモート」で製作されたこの新曲は、タイトルも歌詞も曲もアレンジも、そしてジャケットもすべてが「あぁ、スピッツだ」という安心感を与えてくれる。ライナスが肌身離さず抱きしめている「安心毛布(セーフティ・ブランケット)」に包まれるようなその安心感は、いつの間にか自分の心を侵食していた緊張や不安の存在に気付かせてもくれる。

猫ちぐら」というささやかで愛らしいタイトルとは裏腹に、<作りたかった君と小さな/猫ちぐらみたいな部屋を>というフレーズは、それが「叶わなかった望み」であることを告げる。そして、さらに草野マサムネはこんなふうに歌う――。

驚いたけどさよならじゃない
望み叶うパラレルな世界へ
明日はちょこっと違う景色描き加えていこう

「パラレル」すなわち、どこまで延長したとしても永遠にまじりあうことのない二つの線――2016年にリリースされた「みなと」で、主人公が立つ港の防波堤とその先の水平線をふと思い浮かべた。<驚いたけどさよならじゃない>と歌われる前提にある、「喪失」のことを考えた。
失ったにもかかわらず、だからこそむしろ決して失われることない望み、叶わなかったからこそずっと願い続けられる望み.。その象徴としての「猫ちぐら」。永遠に交じり合うことはないがゆえに純粋さだけを増していく望みを抱えながら、力強くはなくてもどうにか生きて行こうよと、そんななけなしの勇気と優しさが、この曲にはある。

何が失われたのか不確かで、別れの挨拶を告げる機会もなく「さよなら」をしているような、そんな「曖昧な喪失」に満ちた世界の隅っこで、スピッツは離れていても新しい歌が生まれること、離れていても歌を届けられることに、挑んだのだと思う。だから、「猫ちぐら」というタイトルも含めてこの曲は、スピッツ一流の応援歌であると同時に、変化する世界の波にかき消されそうな小さな声を届けるプロテストソングでもあるのだと思う。

曲の後半で歌われる<弱いのか強いのかどうだろう?/寝る前にまとめて泣いている/心弾ませる良いメロディー/追い続けるために>というフレーズを聞いて、2011年の東日本大震災直後に、草野マサムネが急性ストレス障害になったことを 思い出した。この曲は、泣けること、そして追い続けたい夢があることが強さなのだと教えてくれているように感じた。

猫ちぐら

猫ちぐら

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