アメリカの、かつて栄えた工業の衰退により「the Rust Belt(ラストベルト:錆びついた工業地帯)」と呼ばれようになった地域のひとつイリノイ州ロックフォードを舞台に、スケートボードに生きる少年達を追ったドキュメンタリー映画。白人のザック、アフリカ系アメリカ人のキアー、アジア系のビンとその家族を軸に、彼らの12年間を追った映像は、極私的な物語でありつつ、家庭内暴力、貧困、人種差別という社会問題を、子どもから大人への橋を渡る少年達の言葉によって浮かび上がらせていた。
治癒としてのドキュメンタリー映画
主人公の一人でもあり、監督でもあるビン・リューの、当事者(被写体)と観察者(撮影者)という両方の役割を担い、かつその間を揺れ動きながら物語を紡ぐバランス感覚がこの映画の要なのだと感じた。
キアーが父親の体罰を振り返るとき、ザックの恋人ニナがザックからの暴力を告白するとき、そして、ザックが自分の暴力の理由を語る時――それぞれが自分の痛みと向き合う場面において、カメラ越しに問いを発するビンの声は優しいけれど冷静で、相手の言葉をジャッジせずにありのまま受け入れていた。映画の終盤でキアーがこの映画について「無料セラピーってとこかな」と答えているように、極めてセラピューティックな姿勢を撮影当時20代の監督が成し得ていたことは、静かな驚きでもある。同時に、その主たる方法としての「対話」が成立していたことの背景には、彼らがスケートボードを通して育んできた友情と信頼が感じられた。
友人や家族の姿を、彼らの痛みとともにその弱さや危うさも含めて「ありのまま」に映し出しつつも、見終わった後に静かで温かいカタルシスがあるのは、この映画の根底に流れる「治癒性」のゆえかもしれないと感じた。
「父親からの暴力」に対峙する冒険
この映画の少年達は、マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』やスティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー』のように「冒険」に旅立つことは、ない。彼らは居心地の悪い家と仲間のいるスケート・パークを往復し、立ち入り禁止のビルに入り込むものの「危ないから」と引き返す。地域の閉塞感とともに「冒険」が失われた少年達の日常は、邦題の「行き止まりの世界」の意味するところなのだろう。
映画のところどころで、ロックフォードの道路沿いに掲げられた教育的警句の看板(「困った時に助けてくれるのが父親」「完璧な親である必要はない」「午後3時、子ども達はどこに?」)が印象的に挿入されていた。現代アメリカの家庭教育の困難さを示すこれらの看板に呼応するように、彼らのスケートボードへの情熱や愛着は、居心地の悪い家や暴力をふるう父親からの逃避でもあった。そして、映画の中盤以降、それぞれがそれぞれの仕方で「父親からの暴力」という、彼らの人生で最も大きな難題に向き合う姿があった。映画の中では、ザック、キアー、ビンが受けた父親からの暴力は、「しつけ」「体罰」「児童虐待」など微妙に異なるニュアンスで捉えられており、自分が受けた暴力を子どもが理解することの難しさと複雑さを表していた。
父親となった自身が恋人に暴力を振るってしまう理由を語るザック、亡き父親の墓前で泣き崩れるキアー、継父の虐待をどこまで知っていたのかと母親を問い詰めるビンーーこの映画の中には、「父親からの暴力」に向き合うという過酷な「冒険」があった。
特にビンが母親にインタビューする場面は、撮影の仕方含めて他の場面とは異なる印象を残した。他の場面がセラピ―的であるならば、この場面は尋問的だった。他の場面とは異なり、ハンディカメラではなく、固定したカメラでしっかりと照明を当てた撮影セットは、父親の虐待とそれを許した母親を追及するビンの「覚悟」を表しているようだった。
スケートボードという知性
映画全編を通して、ザック、キアー、ビンと彼らの仲間達がスケートボードをする姿は、彼らが抱えるさまざまな問題とは裏腹に、あるいは彼らに絡みつくさまざまな問題から解き放つように、「自由」を体現していた。
と同時に、スケートボードに興じる彼らは、何度もスケートボードから転げ落ち、地面に体を打ち付けていた。そして、そんな失敗も含めて楽しんでいる姿がとても印象的だった。
映画の原題は「Midinig the Gap(段差に気をつける)」――映画の中のスケートボーダー達は、段差を避けるのではくむしろ進んで道や建物の段差に挑み、鈍い金属音を鳴らしていた。段差を避けるのではなく、それに挑む彼らの姿は生き生きとしていた。「スケートボードはコントロールだ」というザックの言葉は、大胆で奔放なようでありながら、スケートボードには非常に高度な身体の制御と修練が必要なことを示していた。何度も地面に叩きつけられ、その姿を仲間の前にさらし続ける経験は、単なるスポーツでも単なるファッションでもない、独自の身体化された哲学を彼らに養っているような、そんな気がした。
その意味で、この映画を貫いているのは、スケートボーダーとしてのビン・リュー監督の「知性のある身体性」あるいは「身体性のある知性」なのかもしれないと思った。
朝焼けのスケートボーダー
そしてとにかく、映画冒頭の、淡いオレンジ色に染まった朝日を浴びてスケートボードでロックフォードの町を疾走する場面は、本当に美しい。「映画でなければ経験できない美しさ」がそこにはあった。同様に、クリス・スぺディングの「Video Life」のチープで切ないギターと気だるく儚げな歌声とともに映し出される、10代の頃の主人公達がスケートボードに興じる姿にも、インセンスな美しさがあった。