THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2019-GRATEFUL SPOONFUL-(2019/7/7 さいたまスーパーアリーナ)

 “天道虫”で派手に幕を開けたライブだった。テーマの異なる4種類のセットリストのうち、今回は「ハート」のセットリストだった。タイトルに「LOVE」とある曲が多く歌われたけれど、そういう歌ほど、セックスと真正面から向き合う反面、愛と真正面から向き合うことに葛藤していて、「吉井和哉にとっての愛」の妙を感じた。

6月に横浜アリーナで観た「ダイヤ」のセットリストのライブと比べて、曲が変わるだけでなく、同じ曲であっても曲順が違うことで曲の印象が大きく変わることが新鮮だった。特に「ダイヤ」で1曲目だった“この恋のかけら”がライブの最後に歌われることで、曲が訴えかけてくるものが「問い」である以上に「答え」であるようなそんな気がした。「答えがない」ということを引き受けるという決意という意味での「答え」とでもいうような。だから、今のイエローモンキーは「安心」して観ていられる。

2曲目“ARLIGHT”の<何よりもここでこうしてることが奇跡と思うんだ>という歌詞がまさにそうであったように、恋人同士の歌であると同時に、バンドのことを歌っていると思える歌がいくつもあった。だからなのか、アリーナクラスにライブの演出の一翼を担うステージ上方と左右の大型スクリーンに、吉井和哉だけでなくエマ、ヒーセ、アニーが映し出される度に何ともいえない安心感・安定感のようなものが伝わってきた。3人の存在感がツアーごと、ライブごとに増してより一層「バンド」になっていることがイエローモンキー再集結の意味であり成果なのだと思った。

今回のライブは2階席最前列で、座席番号が「99」だった。ステージを真正面に見るその席からは、視界が何にも遮られずにステージだけでなくアリーナ席全体も観ることができた。特に、ライブの開始で流れる<砂漠にガソリン撒き散らし・・・>の歌が始まるとともに、真っ暗に暗転したアリーナ席の只中に音響や舞台演出のブースが、何台も並ぶディスプレイの灯りとともに浮かび上がった瞬間の、その光景がとても印象的だった。それは宇宙船のコックピットのようでもあり、有人飛行の宇宙船を打ち上げる地上管制塔のようでもあった。そして、その中にいる20人弱の人影の微動だにしない姿は、目の前に繰り広げられる「ショー」がもはや「失敗できないもの」の域にあるのだということを感じさせるものだった。
その一方で、吉井和哉がライブ中盤で語ったMCがとても印象的だった――「昨日ライブを観に来た、(今はもうバンドをしていない)かつてのバンドをしていた友人が、僕らのライブを見て『もう一度バンドがしたくなった』と言ってくれたことが、そんな感想がとても嬉しかったです」。このMCが象徴するように、どんなにスケールが大きくなろうとも、むしろスケールが大きくなればなるほどステージに浮かび上がるのは、生身の「ロックバンド」であることなのかもしれないと思った。後戻りできない時間の流れの中にあって、一分一秒確実に老いていく生身の身体を生きているという「ロックバンド」であることを、最新のハイテクノロジーの舞台演出を通して確認するということ。それは、ちょうど、ロンドンのハイドパークでローリング・ストーンズのライブを見た吉井和哉が2013年7月7日の七夕に、メンバーに「また僕と一緒にバンドをやってくれませんか」とメールを送ったというエピソード*1にも通じていることなのかもしれないと思った。

再集結後のイエローモンキーは「ロックバンドというドラマ」ではなく「ロックバンドという奇跡」を生きている、見せているーーそう思う瞬間がいくつもあるライブだった。本編終盤の“SUCK OF LIFE”で最後に吉井和哉が歌い上げる「LIFE」という言葉の意味の重さを感じずにはいられなかった。そんなライブだった。

ロックバンドが美しいのは、彼らが「不死身の花」ではない、からなのだろう。

THE YELLOW MONKEYセットリスト(2019/7/7)
天道虫
ALRIGHT
Love Communication
Love Homme
楽園
Love Sauce
Stars
パール
Changes Far Away
SO YOUNG
Ballon Ballon
追憶のマーメイド
Titta Titta
LOVE LOVE SHOW
SUCK OF LIFE
I don't know

 

―encore―
Horizon
バラ色の日々
悲しきASIAN BOY
この恋のかけら

*1:このエピソードが若干の「歴史の修正」を伴うものであったことがアンコールの“バラ色の日々”のイントロで暴露されたけれど、ファンがさしてたじろがないという(笑) 。

THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2019-GRATEFUL SPOONFUL-(2019/6/11 横浜アリーナ)

19年ぶりのオリジナルアルバム『9999』と同じく“恋のかけら”で幕を開けたライブは、「30周年」という時の流れを感じさせないというよりも、時の流れを味方につけたバンドだけが醸し出す「円熟」と「新鮮」が同居したライブだった。ロックバンドとして「脂が乗っている」とはこういうことを言うのだろうと思った。

照明やプロジェクションマッピングなど最新の舞台演出のテクノロジーを活かしたライブであったけれど、そうしたテクノロジーの進歩に見合うスケールのライブ(動員、演奏力ともに)をこの2019年にできるということが、イエローモンキーが「選ばれている」と同時に「背負っている」バンドなのだと感じさせた。

ライブ中盤の“Changes Far Away”だったか、吉井和哉は映画『ボヘミアン・ラプソディ』のフレディ・マーキュリーのように腕を振りかざしていた。その瞬間が象徴するように、ライブ中何度も「映画みたいだ」と思う瞬間があった。宝石のように光を反射するステージも、大型スクリーンに映し出されるメンバーの姿も、どの瞬間も映画のワンシーンのようだった。もはやイエローモンキーは存在自体が「映画」で、バンドの演奏以外の演出は不要でさえあるのかもしれないと思った。そう思っても不思議なないくらいその演奏は、歌は、初めてライブで聞く曲も何度もライブで聞いている曲も胸に強く響いてきた。「映画みたいだ」と思うのと同じくらい、何度も涙がこみ上げてきた。

今回のツアーでは、テーマの異なる4種類のセットリストが各ライブにトランプのマークで割り振られていて、この日は「ダイヤ」だった。吉井和哉は「イエローモンキーの中でも宝石のような曲を集めました」と言っていた。その言葉の通り、水面、ガラス、鏡、瞳――といった光を反射してキラキラとした切ない何かを思い浮かべるような曲で構成されたセットリストは、新作『9999』とそれ以外の曲とのバランスが絶妙だった。特に、“天国旅行”から“Changes Far Away”へという死からの再生を彷彿させる流れと、その“Changes Far Away”から間髪入れずに“JAM”へ繋ぐ流れは圧巻だった。『9999』の曲と並ぶことでバンドの代表曲の印象が変わることがとても新鮮だった。と同時に、このことは、『9999』の曲がどれも代表曲に比して遜色のないタフさを秘めていることを感じさせるものだった。

今回のライブでは、吉井和哉のボーカリストとしての存在感と同じくらい、エマ、ヒーセ、アニーの存在感を感じた。「ロックバンド」というものの不思議さを思った。家族のようだけれどどんな人間関係にも喩えられない何かがあり、そこにあるのは友情だとしても友情だけでは続けられない何かがある――その「何か」がロックバンドにしかない美しさや切なさの本質なのかもしれないと思った。そしてその「何か」こそが、吉井和哉が人生を捧げると誓ったものなのだということ。

アッシュがかった茶色の髪とラベンダーのボウタイブラウスの吉井和哉はとても美しかった。そして、とてもいいライブだった。

THE YELLOW MONKEYセットリスト(2019/6/11)
恋のかけら
ロザーナ
熱帯夜
砂の塔
Breaking The Hyde
聖なる海とサンシャイン
Tactics
天国旅行
Changes Far Away
JAM
Ballon Ballon
SPARK
Love Homme
天道虫
バラ色の日々
悲しきASIAN BOY

 

-encore-
Titta Titta
太陽が燃えている
SUCK OF LIFE
I don't know

歴史と交わるということ、あるバンドの「甘美な挫折」に寄せて

永井純一(2019)「第7章 フジロック、洋邦の対峙」書評(『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか』,南田勝也編著,花伝社,pp.210-243)

 

1997年7月26日、2人のオーディエンスの経験

私が初めてザ・イエローモンキーのライブを見たのは、1997年7月26日のフジ・ロック・フェスティバルだった。当時まだこのバンドのファンではなかったけれど、大雨をかろうじてしのいでいたテントに知人2人を残して、雨降り止まぬ「地獄絵図」のような野外のステージに一人で向かったのは、イエローモンキーのライブを見たいと思ったからだった。「“悲しきASIAN BOY”が聞けたらいいな」ぐらいの軽い気持ちだった。私はこの日のライブを見てこのバンドのファンになったわけではなかった。この日のライブはその悪天候ゆえに私にとって「音楽を聞く」とか「ライブを見る」という体験にはなり得なかった。「見た」のではなく、その日、その場所、その瞬間に私は「いた」だけだった。けれど、私はそれで十分満足だった。

1997年のフジロックから数年後に知り合ったイエローモンキーファンの友人も、フジロックでのイエローモンキーのライブを見ていた。見知らぬ外国人のオーディエンスとともに「アメージング!」などと言いながら大いに盛り上がった後、ライブ後に振り返ったら誰も盛り上がっていなかった、と友人は笑いながら話してくれた。私はこの話がとても好きだ。

 

観点(図式)としての歴史

あの日、あの場所、あの瞬間にイエローモンキーのライブを目撃した一人一人の経験の総和が「歴史」になるのではない。歴史は、過去を捉える観点(図式)があって初めて何かを語り出す。というよりも、過去を捉える観点(図式)それ自体が歴史というものなのだろう。永井純一による「第7章 フジロック、洋邦の対峙」は、フジロックでのイエローモンキーの「失敗劇」(p.218)を、「洋楽の壁に挑む邦楽」という観点(図式)から描き出している。

本章で「事故」(p.219)「不運」(p.221)などと形容しているように、フジロックでのイエローモンキーの「失敗劇」は、その原因の99%は悪天候といういかんともしがたい偶然の要因によるものだといえる。けれど、その偶然が歴史の「必然」でもあったことを、「主催者と運営の問題」「バンドとライブ・パフォーマンスの問題」「オーディエンスの問題」(p.219)という主に3つの側面から、当事者達の言葉から複眼的にに展開した論考はとても興味深かった。

中でも、フジロック後の、ロック雑誌誌上やインターネット上でのイエローモンキーに対するバッシングの背後に「洋楽/邦楽」という差違のみならずオーディエンスにおける「男性/女性」というジェンダーバイアスがあったことの指摘は、非常にうなずけるものだった。今にして思えばひどいが、当時としてはそれが洋楽ファンに広く共有された気分であったことの示唆は、1997年におけるバンドとファンの無意識を的確に浮かび上がらせている。個人的な体験ではあるが、大学時代からロック、特に洋楽を聞いていると言うとしばしば「お兄さんの影響?」などと言われたこと、「私にいるのは、音楽の趣味の違う、THE  ALFEE好きの姉なのだけれど・・・」と心の中でつぶやいたことを久しぶりに思い出した。

 

あの日のセットリスト

本章では、フジロックのイエローモンキーの「失敗劇」の要因の一つであるセットリストについて、「10曲中7曲がアルバム曲」(p.224)だったことが指摘されている。イエローモンキーのオリジナリティであり商業的成功の鍵でもある「歌謡ロック」(p.224)的なシングルヒット曲を排した選曲が、オーディエンスに受け入れられなかったという指摘は、ファンでないオーディエンスよりもむしろ、イエローモンキーファンの方が深く頷くところである。けれど、それは本書で引用されている「メンバーとファンだけが共有するストーリーと自意識で着飾らせてしままった」(p.224)という『ロッキング・オン・ジャパン』編集長の山崎洋一郎氏の言葉とは少し異なる意味を帯びていると私は感じている。

フジロックでのイエローモンキーのセットリストは、言い換えれば「ファンとさえストーリーが共有できないような、吉井和哉の屈折した自意識で防衛した」ものだったと思う。あの日の選曲の大半は単にアルバム曲というだけではなく、バンドのブレイク以前の退廃的でコンセプチュアルな曲(男娼を歌った“SUCK OF LIF”、日本兵が少女売春婦を買う“A HENな飴玉”“RED LIGHT”)で、しかもブレイク後のライブでも演奏される機会が少ない古参ファン以外には馴染みの薄い曲だった。また、フジロックの半年前にリリースされ、バンドの評価を洋楽ファンにもアピールするものへと高めた『SICKS』からの演奏された曲も、いずれも詞もメロディも重々しい曲(自己批判的さえある“TVのシンガー”、自死を思わせる“天国旅行”)だった。イエローモンキーを十分に知らない洋楽ファンだけでなく、ロックフェスの大舞台で洋楽勢に挑むイエローモンキーの勇姿を見届けようとしたファンにも背を向けているようなセットリストだった。そんなどっちつかずのセットリストには、吉井和哉の「洋楽の壁」に対する怯えと、それと表裏一体の「歌謡ロックでの成功」における自己卑下が無意識下で反映されていたように感じる。

本章ではフェスにおけるセットリストの重要性に触れた後、「イエローモンキーほどのバンドをもってしても、その選択を誤るほど日本のバンドはフェスに慣れておらず」(p.226)とある。けれど、イエローモンキーファンの実感としては、「(当時の)イエローモンキーだからこそ、吉井和哉だからこそ、選択を誤ったのだ」と思う。けれど、そんな「めんどくさい」バンドであったからこそこのバンドに深く惹きつけられた、という両義性もまたファンにとってはひとつの真実だった。

 

2016年のサマーソニック

フジロックでの「失敗劇」も影響して2004年に解散したイエローモンキーは、2016年に再集結した。そして、その年の8月にサマーソニック2016に出演し、ヘッドライナーとなったレディオヘッドと同じ、最も大きなマリンステージに登場した。このライブを、今度はイエローモンキーのファンとして、私は見た。

そのセットリストは、約20年前のフジロックのセットリストとは対照的に、10曲中8曲がシングル曲でうち7曲は“BURN”や‟バラ色の日々”など解散前のバンド黄金期のヒット曲だった。そしてライブの最後はバンドの代表曲である1996年リリースの“JAM”で締めくくられた。その中でも最も印象深かったのは、誰も予想し得なかった、1曲目の“夜明けのスキャット”だった。1969年に大ヒットし、イエローモンキーが1995年リリースのシングル“嘆くなり我が夜のFantasy”のカップリング曲としてカヴァーしたこの曲が、原曲の由紀さおりとのデュエットで、ほぼ原曲通りのアレンジで演奏された。豪奢な白いドレスを纏った由紀さおりの肩を抱きながら歌う吉井和哉の姿には、かつての、1997年のフジロックにおける「歌謡ロック」に対する葛藤はなかった。「歌謡ロック」どころか「歌謡曲」そのもので、洋楽がヘッドライナーを飾るロックフェスに登場するという確信犯ぶりは、フジロックでぶつかった「洋楽の壁」を乗り越えた姿であると同時に、「洋楽の壁」という呪縛から解放された姿のようにも見えた。「洋楽の壁」を参照枠とせずとも成立し得るバンドのオリジナリティと演奏力に対する自信を手にしたからこそ、イエローモンキーは再集結したのかもしれないと思った。

けれど、本章を読んで、おそらく状況はより重層的であったのだと気づかされた。2016年のサマーソニックのイエローモンキーのライブが体現していた姿には、本章の後半で指摘されている「オーディエンスの成熟」や「演奏志向(サウンド志向)」(pp.234-235)という変化にも多いに関係していたのだと感じた。2016年のサマーソニックのイエローモンキーのライブでは、途切れることなくオーディエンスがマリンステージのアリーナに入り続け、曲に合わせて両手を捧げる観客の波がアリーナの後ろにまで広がっていった。その光景が象徴していたこの日のライブの「成功劇」の背景には、フェスを取り巻く時代的変化にバンドが適応していたことも少なからず関係していたと思う。

さらに言えば、サマーソニックへの出演も含め、再集結後にこれまで以上にスケールアップしているイエローモンキーの活動(東京ドーム公演、ATLANTIC/Warner Music Japanとのタッグによる全世界配信)からは、バンドにとっての「フジロックでの挫折」の意味が変容したようにも感じる。イエローモンキーは、フジロックでの挫折への「復讐(リベンジ)」という物語を手放し、フジロックでの挫折をバンドヒストリーの1コマに消化して新たな物語を「構成」するという選択をしたように感じる。2013年公開のドキュメンタリー映画『パンドラ』で、1998年から1999年にかけての日本全国113本に及ぶ長大な『PUNCH DRUNKERD TOUR』に至る経緯として、フジロックでの無残なバンドの姿を織り込んだのは、バンドがあの挫折を、悪夢を受容したことの現れだったのかもしれないと思う。

 

歴史と交わるということ

「誰も短い一生を思わず、長い歴史の流れを思いはしない。言わば、因果的に結ばれた長い歴史の水平の流れに、どうにか生きねばならぬ短い人の一生は垂直に交わる」(小林秀雄,「歴史」,1960)--1997年の7月26日、あの日、イエローモンキーは、日本の洋楽受容という長い歴史の水平の流れに、垂直に交わり、無残に敗れた。けれど、挑戦のないところに失敗はなく、冒険のないところに挫折はないとするならば、その姿には挑戦し、冒険する者だけが許される美しさもまたあったのだろう。そして、それは、南田勝也が序章で指摘する「甘美」(p.16)とも言い換えられるのかもしれない。

 

付記:Don’t Look Back in Anger

フジロックから10年後の2007年、吉井和哉OASISの“Don’t Look Back in Anger”に、オリジナルの日本語詞をつけてカヴァーした。その中で吉井和哉はこんなふうに歌っている。「1997年の10月はロンドンにいた/ケンジントンで流れたこの歌が大好きさ」――フジロックでの挫折後の「1997年の10月」の吉井和哉の、それから10年後に「1997年」と歌う吉井和哉の心にはどんな風景があったのだろうかと、本章を読んでふと考えた。そして、フジロックでの挫折を「怒りに転嫁(Look Back in Anger)」しなかったことが、それを誰のせいにもしなかったことが、吉井和哉のその後のアーティストとしての歩み、そしてイエローモンキーの再集結への道を拓いたのかもしれないと思った。

 

私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史

私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史

  • 作者: 南田勝也,?橋聡太,大和田俊之,木島由晶,安田昌弘,永井純一,日高良祐,土橋臣吾
  • 出版社/メーカー: 花伝社
  • 発売日: 2019/03/20
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10年目の5月2日に

忌野清志郎が亡くなって10年、10年目の5月2日になる。清志郎の訃報を知った時のことは今でも鮮明に覚えている。夜のニュース番組で速報として伝えられたこと、ほどなくして友人から電話がかかってきたこと。電話口で友人が泣いていたこと。その時は「悲しい」というより「不思議だなぁ」という気持ちの方が強かった。そして、それは今でもあまり変わらないような気がする。心のどこかでずっと「清志郎が死ぬなんて不思議だなぁ・・・」と思っている自分がいる。

この10年間に、清志郎について書いた2つの文章を読み返してみた。どちらも清志郎の死後に書いた文章ではあるけれど、おそらく、きっと清志郎が生きていたとしても、私は同じことを書いただろうと思う。その死によって、私の中の清志郎像は変わることはなかったのだと思う。その意味で、清志郎は正直でタフな表現者だったのだと思う。

 

1つは、2010年の7月に出版されたおおくぼひさこさんの写真集『BOYFRIEND』。

 被写体としての清志郎の存在感だけでなく、写真家であるおおくぼひさこさんと被写体である清志郎との距離感が印象的だった。 

おおくぼさんの撮る清志郎は、派手なメイクをしていてもロックスター然としたポーズをきめていても、どこか抑制的な、奥ゆかしい印象がある。それは、おおくぼさんが清志郎の「おとなしい」表情をよくとらえていたという意味ではなく、被写体の彼がどんなに親しい間柄であっても、シャッターを切るその瞬間、おおくぼさんが常に表現者として表現者である清志郎に向き合っていたというその距離感の表れという意味で。

被写体となった表現者に対する「尊敬」がおおくぼさんの写真にはある。それは、1977年のあどけなく飄々とした表情で野原立つやせっぽっちの青年の写真からすでに貫かれていて、どんなにページをめくっても写真家と被写体の距離はそれ以上近づくことも遠ざかることもない。その間には常に変わらぬ尊敬が、ある。 だから、「BOYFRIEND」というタイトルとは裏腹にこの写真集に「プライベートショット」は1枚もない。おおくぼさんは「素顔の」ではなく「表現者としての」忌野清志郎を撮り続けていたのだということ。

おおくぼひさこ写真集 『BOYFRIEND』 - 朝焼けエイトビート

 

もう1つは、2014年の5月に出版された30代後半の清志郎の日記/私小説『ネズミに捧ぐ歌』。

父の死や、幼くして死別した実母との邂逅など、当時の清志郎の極めてプライベートな出来事が綴られていると同時に、それらの出来事が清志郎の創作活動に与えた影響が決して小さなものではなかったことが感じられた。赤裸々でありながら、「文学」として成立していると感じられるところに、清志郎の「才」があったのだと思う。

この詩に綴られている、実母に出会った清志郎の心情は、まるで聖母に出会ったキリスト者のようだ。そして、その喩えはあながち大袈裟でも間違ってもいない気がする。

実母の写真をポケットの写真に入れて持ち歩き、ツアー初日の暗い客席にちらつく彼女の笑顔に心を奪われ、実母の存在を周囲に話すことに難しさを感じつつも「だが、俺はみんなに言いたいんだ。世界中にこの幸せを見せてあげたいんだ。そして、世界が平和になればいい」(大阪Days)と言う――そんな清志郎の姿は、ある日突然信仰に目覚めた人のようだ。実母の存在を知った後「いけない事だと気づいたんだよ」「何が大切かってことが初めてわかった僕なのさ」(女たち)と、ツアー先の女性達との関係を清算しようとする清志郎は、まるで信仰のために悪行を悔い改める人のようだ。

清志郎は「無宗教」だった。けれど、清志郎が綴った実母との出会いは、「宗教的」と形容することがしっくりくるような気がしてしまう。ただし、清志郎の場合には、それがいわゆる「宗教的転回」とは対照的に、これまでと違う自分に変化するというよりも、自分の才能や生き方への確信をより深めるように作用したところが興味深かった。「俺はそのへんの奴らと決定的に違う、特別製なんだよ」(君への忠告)と、周囲に馴染まない自分、世間の常識とそりの合わない自分を価値づけ、それを赦す啓示となっていた点が。その変化の仕方に、「あぁ、清志郎はやっぱり清志郎だなぁ」と感じた。

忌野清志郎 『ネズミに捧ぐ詩』 - 朝焼けエイトビート

 R.I.P.

THE YELLOW MONKEY『9999』

ザ・イエローモンキー9枚目のオリジナルアルバム『9999』。活動休止、解散そして再集結を経ての19年ぶりの新作。バンドにとっても、ファンにとっても長い時間と「重い想い」を背負ったアルバムである一方で、1曲目“この恋のかけら”が進むにつれてこの新作がこれまでのイエローモンキーのディスコグラフィーの中でも最もみずみずしく、最も軽やかなアルバムであるという確信が芽生えた。

そして、その“この恋のかけら”の中で、吉井和哉が自分の両親を<夢の途中で死んだ父親と/いつまでも少女の母の話を>と、「架空の物語」の登場人物のようにではなく、等身大の存在としてかつ美しい言葉で表現していたことに、何とも言えない感慨を覚えた。20代の吉井和哉には歌えなかったことが50代の吉井和哉には歌えるのだと思った。そしてそれは、吉井和哉版「マイ・ウェイ」とも言える“Changes Far Away”の<愛だけを支えにして/ここまでなんとか歩いてきたんだ>という言葉の素直さにも通じている気がした。

この恋のかけらどこに埋めればいいのだろう>(この恋のかけら)と切なく美しい過去をもてあますような自問で幕を開け、<誰も知らない暗く長い道>(I don't know)と未来に答えを持たないことへの正直な告白で幕を閉じるこのアルバムを聞き返しながら、ふと‟楽園”の<過去は消えないだろう未来もうたがうだろう>というフレーズを思い出した。そのフレーズと同じことを歌っているようでありながら、このアルバムが聞き手に差し出すのは、もう過去に縛られることも未来に怯えることもない新たなバンドの姿だと思った。そしてそれは、<見違えるほどの強さ>(I don't know)でありつつ、どこか優しく、しなやかなロックンロールとして結晶している。

謡曲グラムロック、ハードロック、オルタナティブロックまで貪欲に消化しつつ、「イエローモンキー」という一つのジャンルと呼べるほどのオリジナリティを誇る13曲は、その歌詞も曲もアレンジも演奏も、実はもう一歩も二歩も突き詰めたり、創り込んだりできる余地があったのではないかと錯覚させるほどに、直感的で無防備な印象を残す。吉井和哉の手書きの詩作ノートやバンドメンバーだけでのリハーサルを目撃したような感覚が生じる。と同時に、そこにバンドの明確な意志を感じさせる点で、このアルバムにはバンドとしてのゆるぎない自信が貫かれているように思う。

バンドが直感を優先し無防備でいられるという状態とはどんなものかと考える。そこには自分自身、バンドメンバー、そしてファンへの「信頼」があるのだということ。だから、このアルバムは、バンドとファンが1曲1曲のかっこよさや美しさを何のてらいもなく分かち合える風通しの良さがある。

そして、その風通しの良さが端的に表れているのは、EMMAが作詞作曲を手がけた“Horizon”だと思った。一昨年に映画『オトトキ』公開時に聞いたときには、正直に言うとその率直なメッセージに、イエローモンキーのこれまでのコミュニケーションの作法との違いを感じて受け止めきれない自分がいた。けれど、『9999』の中ではその率直さがむしろアルバムのメインテーマとなって、アルバムの中核を成す存在感を発揮している。

「地平線は人間が迷い込むのを防ぐ」と言ったのは誰だったか――振り返るには眩しすぎる過去と見通すには不確かである未来と向き合いながらも、<We must go on!>(Horizon)と決意するバンドの姿に、不安よりも希望を感じるのは、まさにこの曲で歌われている<愛と絆と>(Horizon)という拠って立つ地平線をバンドが手に入れたからなのだと思う。 

アルバムの中の未来図はとても輝いて

べセルの中の鼓動は戻せやしないけれど

打ち上げ花火の向こうでは皆が待っている

会いに行こう 愛と絆と

 

Horizon Horizon

こらえず We must go on! 

1行目に書いてしまったら、このアルバムについて書くことが何もなくなってしまいそうだったので、最後にこの言葉を書くことにしたい。

ザ・イエローモンキー9枚目のオリジナルアルバム『9999』。私はこのアルバムがイエローモンキーのアルバムの中で一番好きです。名盤です。

 

 

朝焼けデトロイト

出張でアメリカのデトロイトへ。
デトロイトの日の出は遅く、7時過ぎ。


郊外も都市部も、アメリカには「影」がないと思った。全てが白っぽい光に当てられ広がっていた。ふと、Fountain of Wayneの音楽を思い出した。

 

 

それは巨大なショッピングモールの明るさにも通じているように感じた。モールではイースターを前に、ウサギが出番を待っていた。

 

だから、影のあるものがひときわ美しく感じた。「美しさは影なのだ」と、アメリカで感じたことが意外でもあり、当然でもあるような気がした。

 

それと、アメリカには「花」が少ないとも思った。過去に行ったヘルシンキでもマニラでも、花が風景に溶け込んでいたからだろうか。「花を見つけた」と思ったら、造花(plstic flower)だったりして、それが印象的だった。


デトロイトと言えば「モータウン・レコード」「デトロイト・ロック・シティ」。デトロイト空港で見つけたモータウン本社「ヒッツヴィルUSA」のマグネットと、レコード盤などが胸に描かれたクマのマグネット、キーホルダーをお土産に帰国の途へ。

 

往きと帰りのフライト中、『ボヘミアン・ラプソディ』を3回見た。諍いがあってもそれさえどこか愛おしく感じるほど、「バンド」には魔法があると思った。今回の出張で私が最もよく聞いたのはジャクソン5でもKISSでもなく、QUEENだった。

 

Utopia Parkway

Utopia Parkway

 

 

 

東日本大震災とロック

記憶は音楽と共にあり、音楽は記憶を呼び起こす――何かを思い出すことは、その当時の音楽と自分自身を思い出すことでもある。

東日本大震災から8年が経つ。当時のことを思い出すとき、かつてこのブログに記した音楽にまつわる2つの体験が鮮明に蘇る。どちらにも、「取り返しのつかないような大きな悲劇に直面したとき、音楽は、ロックは何を伝えるのか」という問いに直面したアーティストの姿があった。

 

1つは、東日本大震災から1週間後、震災後初めての生放送の音楽番組で吉井和哉が歌った「FLOWR」。 当時、番組をリアルタイムで見ていて、番組冒頭で画面に映った吉井和哉の顔色があまりに悪くて、不謹慎にも、「顔色悪っ(笑)」と思わず笑ってしまったことをよく覚えている。吉井和哉のその表情は、このタイミングで歌を歌うということの意味に押し潰されそうになっているようでもあった。

テレビに映る吉井和哉は<僕は何を思えばいいんだろう 僕は何て言えばいいんだろう>というかつて自分が発した問いを容赦なく突きつけられその答えを見つけられないまま、カメラの前に立っているようだった。だから、テレビの中の吉井和哉はとても「無力」だった。けれど、その無力さこそが吉井和哉の歌の「力」なのだと思った。

「FLOWER」(2011/03/18 ミュージックステーション) - 朝焼けエイトビート

放送では、 曲の冒頭の歌詞<あれから何年経ったんだ?/相も変わらずにこんなんだ/だけど毎日はそれなりにgoodだ>の「それなりにgoodだ」を「できるだけgoodに」に変えて歌った。そして、震災から月日が流れるほどに、震災前に作られたこの曲の「あれから何年経ったんだ」というフレーズが、アーティストの当初の創作意図を超えた意味を帯びていることを感じる。

 
もう1つは、東日本大震災から1ヶ月後、ザ・クロマニヨンズ日比谷野外音楽堂でのライブ。これまでに観たクロマニヨンズのライブの中でも最も印象に残っているライブのひとつ。

中原中也の詩のような春の夕暮れの下、なんとも言えない感傷がお酒の匂いとともにライブ前から会場全体を覆っていた。電力制限によって灯りの少ない都心に響いたロックンロールは、「いつもと変わらない」ものであろうとすることで、図らずも歴史のゆりかごの大きな揺れに言及しているようでもあった。 

クロマニヨンズは「いつもと同じ」だった。いつもと同じようにやっていた。けれど、その「いつもと同じ」が3月11日を境にしてもう同じではないということを、今日この日に「いつもと同じ」ようにやることがどうしたって違う意味を持ってしまうということを、ステージの上にいる彼らが感じていないはずなかったと思う。 何かを言っても言わなくても、言わないことにも意味が生じ、それが何かの宣言となってしまうような状況のなか、いつもと同じようにロックンロールを演奏するということ。そこにロックバンドとしての自覚がないはずはなかった。それを「覚悟」や「決意」と呼ぶこともできるだろう。

ザ・クロマニヨンズ ツアー 2010-2011 ウンボボ月へ行く(2011/04/10 日比谷野外音楽堂) - 朝焼けエイトビート

 この日のライブでヒロトが発した「会いたかったよー。昨日じゃない、明日じゃない、今日、会いたかったんだよー」という言葉は、とても感動的だった。そして、この言葉の意味を、今でもふと考えることがある。